Tiny garden

八年目と一年目(2)

 外回りをしている時は、お昼休みまでに会社へ戻れないことも普通にある。
 そういう時、そのまま外でご飯を食べる日もあるし、或いは社員食堂の終わるまでに間に合うなら、多少遅くなっても戻ってから食べる場合もある。
 今日は主任の提案で、社には戻らず外で食事をすることにした。午後も回るところが何件かあったし、ちょうど近くに美味しいお店があるらしく、私も進んで同伴に与った。石田主任と一緒にご飯を食べるのも幸せと言うか、うれしかったし。

 あまり広くない食堂はテーブルまで小さめで、差し向かいに座るとやけに近距離に感じた。ちょうど車内でそういう会話をしてきたこともあったし、主任の視線が何となく気恥ずかしい。目のやり場に困る。
 他にもお客さんがたくさんいたのが救いだった。ざわざわと賑やかなお蔭で、沈黙がそれほど怖くない。
「小坂、何にする?」
 卓上のメニュースタンドを取り上げて、主任がこちらへ差し出してくる。私は俯き加減のままでそれを受け取った。
「しゅ、主任は何を召し上がるんですか?」
「俺? 魚の煮付け定食」
 一秒と置かずに主任は答えた。その素早さに驚いて、私は思わず顔を上げる。狭いテーブルの向こう、なぜか主任の方が怪訝そうにしていた。
「もう決めていらっしゃるんですか」
「ああ、魚好きだしな」
 そういえば社員食堂でも、石田主任は焼き魚定食を食べてることが多かったかもしれない。お魚好きなんだ……覚えておこうっと。
 主任がメニューを決めている以上、私ももたもたする訳にはいかない。大急ぎで一つ、選んだ。
「じゃあ私は、メンチカツ定食でお願いします」
「肉か。さすがは小坂」
「さすがって、どういう意味ですか?」
「若いなってことだよ」
 主任が頬杖をつきながら、にやっとしてみせる。冷やかされているのか、からかわれているのか――どちらにしても恥ずかしい。また俯きたくなる。
 食いしん坊だと思われてたらどうしよう。今更にも程がある気もするけど。
「暑いのに食欲ないなんて言ってる奴よりは頼もしいって」
 フォローするみたいに言われたので、ああやっぱり、と私はへこんだ。主任、絶対に私のことを食いしん坊だと思ってる。
 俯いたままでじっと見上げていたら、ふと目が合う。強い眼差し。テーブルを挟んで、音のしそうなくらいに視線がぶつかった。
 どきっとしたのも束の間、主任がおかしそうに吹き出した。
「本当、面白いよな。小坂は」
「ええっ、な、何がですか」
「今の顔」
 ……わからない。笑われるほど変な顔、してただろうか。
 でもその時の石田主任が本当に愉快そうな笑い方をしていたから、楽しい気分になって貰えるならいいかななんて思ってしまった。つられて笑ってしまう自分が不思議だった。

 注文したメニューは割と早く運ばれてきた。
 魚の煮付け定食とメンチカツ定食が向かい合わせに置かれると、小さなテーブルはきちきちになる。お互いに手を合わせて食事を始めてからは、とりあえずご飯に集中することにした。だって目のやり場に困る。
 揚げたてのメンチカツは衣がさくさくしていて美味しかった。幸せに緩みがちな頬を手で押さえると、また主任に笑われた。もう何がおかしいのか尋ねるのも恥ずかしくて、視線は食事と店内とをうろうろ往復している。
 ――と、そこで。一枚のポスターが目に留まった。
 夜空に打ち上げられた大きな花火の写真。あれは花火大会のポスターだ。そこまで確かめて、そういえばと気付く。今年も花火大会の時期が来た。
 ポスターに記された日時を見て、別のことにも気付く。花火大会って平日にやるんだ。去年まではそんなこと、ちっとも気にならなかった。でも今年は、観に行けないんだなって思う。少し寂しくもなる。
「主任、もうすぐ花火大会がありますね」
 話題を見つけてほっとしたせいか、私の切り出し方はいやに勢い込んでいた。石田主任は笑いを含んだ声で応じてくる。
「ああ、もうそんな時期か」
「観に行かれたことありますか?」
「ここ八年間ずっと行ってない。この時期は忙しいしな」
 私も今年は忘れていた。去年は大学の友達と行ったけど、今年はそんな約束も出来そうにない。花火大会の当日だって、そもそも定時に上がれるかどうか怪しいものだ。
「花火好きなのか、小坂」
 今度は主任が尋ねてくる。
「はい、好きです!」
 夏が好きだった。夏の風物詩も好きだった。この八月はいろいろときついけど、だからって花火を嫌いになる理由はない。力いっぱい答えたら、主任にはなぜだか複雑そうな顔をされてしまった。
「そうか。そりゃかわいそうだな」
「え?」
 かわいそう、と言われて驚く。何のことかわからなかった。少し考えて、花火大会の日も残業があるだろうからってことかな、と思いつく。
 残業することに不満はない。しなくて済むならその方がいいけど。ともあれ社会人になった以上、学生時代と同じ気分でいられないことはわかっている。
「……あ、いいんです! 今年は社会人一年目、仕事を頑張ろうと思ってますから、残業だからと言って不平不満を申し上げるつもりは!」
 慌てて弁解してみたけど、かえって不満げに聞こえてしまったのかもしれない。箸を止めた主任が、ちらと視線を外してきた。短い沈黙があった。
 私が次の弁解を口にする前に、言われた。
「実はな」
 改まった物言い。訳もなく緊張する。
「は、はいっ」
「うちの営業課、あそこの窓からは花火が見えたんだよ」
「窓から……ですか?」
 言われて少し考えてみる。そういえば、うちの課の窓は港のある方角を向いている。花火は漁港の方で打ち上げられるから、見ようと思えば見えるのかもしれない。
 でもそれ以前に、営業課の窓からはたくさんのビルが見えていたはずなんだけど……違ったかな?
「前までは見えたんだ」
 こちらの疑問に答えるように、石田主任はそう言った。
「今年の春、ちょうどいい場所に大きなビルが建ったんだよな」
 主任の言葉に耳を傾けつつ、営業課の大きな窓、あそこから見えた景色を思い起こしてみる。確かに、真新しい感じのビルがあったような気がする。
「あれのせいで花火の見える方角が、上手い具合に遮られてる。つまり今年は見えないってことだ」
 言ってから、主任は苦笑を浮かべる。宥めるような、少し優しい笑い方だった。
「残念だったな、小坂。もう二年くらい早く入社してたら、仕事しながら花火見物が出来たのに」
「え……」
「今年は音だけ聞きながらの残業ってことになりそうだ」
 主任の苦笑いを見つめつつ、私はどうにかしてイメージしようとしてみた。毎日目にしている営業課の大きな窓、あの窓の向こうの夜空に、ビル街の明かりよりもずっと強い光が走り、広がり、散っていく様子を――想像してみようとしたけど、上手くいかなかった。見たことのないものをイメージするのは難しい。
 花火なら学生時代に何度も見た。花火大会の打ち上げ花火も、庭でやる手持ち花火も覚えている。でも、好きな人と見る花火はまだ知らない。そういうのにはとことん縁がなかった。
 もしかしたら石田主任と、一緒に花火が見られたかもしれないのに。もう二年早かったら。見てみたかったなと思う。
 学生気分じゃないつもりでいたけど、やっぱりちょっと、ほんのちょっと残念だった。
 そしたら、
「そんなに落ち込むなよ」
 主任に慰めの口調で言われて、焦ってしまった。そんなに落ち込んでるつもりはなかったのに。本当にほんのちょっとだけで。
「落ち込んでないです、大丈夫ですっ」
「そうか? ものすごくがっかりしてるように見えた」
「いえ、そんなことはないです! 学生気分ではいられませんから!」
 実に当たり前のことを声に出し、私は気合を入れ直す。
 花火が見られなくて残念だなんて、甘えたことは言っていられない。きっとそこにビルが建ったのも、ともすれば仕事を放り出しそうになる緩んだ態度の私を改めさせる為の天啓とか、そういうのだ。社会人になった以上は花火だとか夏だとかで浮かれてもいられないんだ。八月の陽射しがきつくたって、車の中が蒸し風呂だって、関係ない。
 いい加減、弁えないと。好きな人が同じ職場にいるってことは、普段の勤務態度を見られているということだ。好きな人が上司だってことは、仕事を放り出したくなる気持ちだってばればれだということになる。両立するつもりでいるなら、絶対に、忘れる訳にはいかない。
 だから私は、もりもりとご飯の続きを食べ始めた。午後も頑張る為に、メンチカツを選んでよかった。なるべく早く食べ終えて、車の中の温度が上がり過ぎないうちに戻ろう。午後だって回るところが何件もあるし、同行してくださっている主任にも、なるべくなら暑い思いはさせたくない。
「参るよな」
 少し遅れたタイミングで食事を再開しながら、主任がぼそりと呟いた。
 その声が思いのほか沈んだトーンに聞こえて、私は目を瞬かせる。
「今年も花火、見たかったのにな」
 心底悔しそうな言葉が後に続いた。
「何で今頃になって、あんなところにビルなんか建てたんだか」
 八年目の主任がそうぼやく。意を決した手前、何とも相槌を打ちにくかったけど、主任が残念がっている様子はよくわかった。そして、仕事とは関係のないことをほんのちょっと考えてしまった。

 ルーキーの頃の石田主任は、どんな気持ちで営業課の窓から花火を見ていたんだろう。
 主任も私と同じように、ルーキーゆえの歯痒さを感じたことがあったんだろうか。
PREV← →NEXT 目次
▲top