Tiny garden

八年目と一年目(4)

「お、戻ってきたな。お疲れ」
 石田主任は、営業課のドアの前で私を待ち構えていた。
 そして私の顔を見るなり、予想通りの訝しそうな顔をする。
「どうした小坂、顔真っ赤だぞ。弁当の重さにばてたか?」
「い、いえ、平気です!」
「じゃあ外歩いてのぼせたのか。子どもみたいな奴だな」
 からかうような物言いをされたけど、その程度のツッコミでよかったなと安堵さえしてしまう。実際に何があったか――霧島さんに何を言われたかは、とてもじゃないけど説明出来そうにない。
 大体、主任を私のことでからかうなんておかしいと言うか、不可能にも程がある。主任が誰かにからかわれてうろたえているところなんて、未だに一度も見たことがない。まして私のことで何か言われたくらいで狼狽するだろうか。からかわれるような仲でもないし、ただ平然と流されそうな気がする。それはそれで私がショックだから、止めて欲しいなと思う。
 頭の中でぐるぐると巡る思考に、主任の声が造作もなく割り込んできた。
「ところで、霧島に会わなかったか?」
「あっ、えっと、はい! 偶然行き会いました!」
 あまりにも急き込んだ答えになったせいか、主任には一瞬ぽかんとされた。でもすぐに気を取り直したようで、こう言ってきた。
「長谷さんと一緒だったのか」
「いいえ、お一人でした。ご飯は社食で食べるとのことです」
「ってことは愛妻弁当か。羨ましい奴め」
 愛妻弁当って……。私はそっとおかしさを噛み殺す。霧島さんの選択は正解だったみたいだ。この分だと主任は、間違いなく霧島さんをからかっていただろう。それも盛大に。
「癪に障るな」
 ぼそっと漏らした主任は、その後でこちらを見た。まだお弁当を提げたままだった私の手から、袋を二つとも取り上げる。私がお礼を口にする前に言われた。
「癪だから、花火観に行くか」
 ごく自然な調子で言われた。
 なので、意味を把握するのに時間が掛かった。
「……え?」
 花火?
「しゅ、主任? あの、どういうことでしょう?」
 把握してからも、今度は意図を把握するのに時間が必要だった。
 花火って。仮にも私たちは残業中なのに。主任がそんなことを言い出すとは思わなかったし、すぐには飲み込めなかった。それこそ聞き間違いじゃないかと――。
「気晴らしだよ」
 答えは即座に返ってきた。
「もちろんずっと見てる訳じゃない。弁当食ってる間だけだ。仕事もあるしな」
 聞き間違いじゃなかった。主任はあっけらかんと続ける。
「小坂はここからの花火、見たことないだろ? せっかくうちの会社入ったのに見られないなんてかわいそうだ。特別に、今年だけ見せてやるよ」
「そんな……えっと、いいんでしょうか?」
「だから、休憩中だけな。ルーキーだけの特別扱いだ」
 特別、と言われて心が揺らいだ。そういう意味じゃないってわかっているけど、主任が口にするととても魅力的に響く。気晴らしと前置きした上での主任の心遣いは、やっぱり、うれしかった。
 だけど気になることがある。
「で、でも、ビルが建ってるから見られないんじゃないんですか?」
「屋上からなら見える。確認済みだ」
 石田主任は両目を細めた。それで私は、エレベーターを待っていた時のことを思い起こす。屋上へ行っていたのは主任だったんだ。花火が見えるかどうか、確かめる為に。
 ここで花火を見たことがなかった私の為に――それだけではないのだとしても、でも。
 どきどきした。
 きっと、ばればれの顔をしてるはずだった。自分でもわかった。さっきよりもずっと頬が熱い。そのくせ言葉が出てこない。
「そうと決まれば行くぞ」
 私の答えを聞く前に、主任は言った。
「自分の弁当持って来い、花火見ながら夕飯だ」
 急かすように促され、とりあえず、頷けるだけ頷いた。主任の目にはただの会釈にしか見えなかったかもしれない。でも、花火が見たいと強く思っていた。

 屋上に出た時、既に花火大会は始まっていた。
 瞬く光に照らされた屋上は、時間が時間だけに人気がなかった。むしろ普段から立ち入る人がいないのか、申し訳程度に置かれたベンチは砂埃に塗れていた。主任はそこに大きめのハンカチを敷き、私に座るよう促した。主任ご自身は手で軽く払っただけで腰を下ろしたから、慌ててハンカチを差し出したら笑いながら断られた。
「いいんだよ、どうせ書類片付けたら帰るだけなんだし」
「でも……」
「それより、さっさと食え。花火見ながらな」
 鉄柵の向こう、ビルの頭をかすめるように、次々と花火が上がっていた。広い夜空を明々と染める目映い光。一瞬、ぱっと広がって、その後にゆっくりと消えていく。光の残像が、瞬きをする瞼の裏側にまで焼きついた。大きな音が、空っぽのお腹の底まで落ちてくる。心地良かった。
 夏らしい風景だった。夜空に打ち上げられる彩り鮮やかな花火と、夏の匂い。じめじめとした夜の空気。
 だけど私は浴衣ではなく、スーツ姿のままでいる。花火を見ているのは人で混み合う花火大会の会場ではなく、人気のまるでない会社の屋上だ。縁日の食べ物の代わりに唐揚げ弁当を食べている。そして隣にいるのはいつも一緒に遊んでくれる友達ではなくて、同じ職場に勤めている上司。
 横目に見ると、主任は花火とお弁当に代わる代わる視線を向けていた。主任が注文したのはいつもの通りの焼き魚弁当。箸ですいすいと食べながら、花火が打ち上がる音がする度に視線を上げる。器用だな、と思う。花火もお弁当も、どちらも楽しんでいるみたいだった。
 私はそうはいかない。お弁当は美味しいのになかなか箸が進まない。暑さのせいではなく、単に忙しいからだった。花火も見なくちゃいけないし、せっかく隣に、主任がいてくれるんだし。
 ベンチに並んで座るのは、社用車の中にいるよりもずっと距離が近かった。手を伸ばせば届きそうな位置に主任がいる。もちろん手を伸ばすことなんて出来ないんだけど、じっと眺めていたくなる。色とりどりの光に照らされた横顔。少し目つきの鋭い、真剣そのものの面差し――。
 ちらと、その視線が動いた。鋭い眼差しが私に刺さる。
「お前、何見てるんだ」
 怪訝そうに尋ねられ、肩がびくりとしてしまった。
「え……えっと、そのっ」
「花火見ろよ。せっかく屋上まで来たのに」
 石田主任はそう言って、軽く笑った。
「あ、飯も食いながらな。ぼうっとしてると帰りが遅くなるぞ」
「はいっ」
 慌てて、私は食事を再開する。もう主任の方を見ていることは出来なくて、やけに汗を掻きながらお弁当を食べた。そして時々、思い出したように花火を見た。主任みたいに、器用に両方見ているのは難しかった。
「小坂はぶきっちょだよな」
 ほとんどお弁当に集中していると、主任にも言われた。花火の合間に、さもおかしそうに。
 不器用なのは事実だった。私が黙って俯けば、また軽く笑われてしまう。
「一つのことにしか集中してられないって感じだもんな。花火見ながら食えばいいのに、結局食ってるだけで全然見てない」
 頬に視線を感じた。さっきから熱い。鉄柵をすり抜けてくる花火の光が、足元でちかちか瞬いている。
「それとも、気乗りしなかったか?」
 主任が問う。
 花火が上がる。光が辺り一面に広がり、たちまち収束していくのがわかる。
「真面目だからな、お前。残業中に花火へ誘ったら、とんでもないとか言い出すんじゃないかって思った」
 げらげら笑う声が降ってきた。
「ち、ちっともです! うれしかったです!」
 勢いよく顔を上げると、主任の笑顔が見えた。うれしそうとも、おかしそうとも思える顔。
「そうか、よかった」
 そのままの表情で続けてきた。
「俺もどうせ花火見るなら、女の子と一緒の方がいい」
 女の子と呼ばれて、私は内心複雑だった。主任に異性扱いされるのが嫌な訳じゃない。ないけれど……当たり前だけど、私じゃなくてもよかったのかなと思ってしまう。
 主任も本当は、浴衣姿の女の子と花火大会に行きたかったんじゃないだろうか。――当たり前か。誰も残業しながら花火が見たいとは思わないはずだ。気心の知れた相手と、仕事のこととか、煩わしいことを考えずに花火を見ている方が、ずっといいに決まっている。
 でも、私はそうじゃない。
 一つのことに集中するのが精一杯の私は、こうして仕事中に主任を見ているだけだった。たとえ今夜、残業がなくても、主任を花火大会に誘うなんて出来なかった。ルーキーとしての特別扱いがなければ、一緒に花火を見ることすら出来なかった。
 だから今でも幸せだった。仕事が残っていても。帰りが何時になるかわからなくても。花火を見ている余裕がなくても、主任を見ていられたらそれでよかった。
 両立なんて、夢のまた夢だ。
 ちらと霧島さんの顔が浮かんで、それからさっきのやり取りを思い出す。今は不思議とうろたえることもなかった。ただ、霧島さんの言う通りにはならないだろうなとぼんやり思う。
「小坂って……」
 主任がその時、目の前で口を開いた。
「動物に例えたら犬だよな」
「はい。……――え? 犬?」
 素直に頷きかけて、直後、問い返す声が引っ繰り返った。
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