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その時君は泣くだろう(4)

 鷲津の部屋のカーペットの上に、二人で寄り添って座った。
 互いの手が触れたから、こっそり指先を絡めてみたら彼は文句を言わなかった。筋張った指先は今日もきれいで、温かくて、わずかな面積だけの触れ合いでも心地いい。だから私もそのままでいた。
 並んで座り、時折ぽつぽつと話をしている。
 たったそれだけの時間なのに、今までで一番どきどきしていた。

 淹れたての紅茶は温かくて美味しかった。
 そのことを告げると、コーヒーを飲んでいる鷲津が目をしばたたかせる。
「それドラッグストアで買った安物。美味いのか?」
「いつも家でも安いの飲んでるよ。紅茶ならなんでもいいの」
 紅茶味なら安物のティーパックでも、ペットボトルのやつだって好きだ。大学でお昼食べる時もたいてい紅茶を買う。
 すると鷲津は肩をすくめた。
「安上がりでいいな」
「いいでしょ。無理して高いの買わなくていいからね」
「そうだな、覚えとく」
 彼は私の言葉に頷いた後、ぽつりと続ける。
「……俺がお前について知ってるのは、コーヒーより紅茶が好きらしいってことくらいだ」
「え、それだけなの?」
 私は少しがっかりする。
 そんなに自分のことを話してこなかっただろうか。でも思い返してみれば、私のことを話す時間はあまりなかったような気がする。私の話なんて特に珍しいことも、面白いこともないし――そう思ったこともあった気がした。
 その結果、一番伝えたかった想いだって、ちっとも正しく伝わらなかった。
「鷲津をどのくらい好きかは、ちゃんとわかってくれてるよね?」
 指を絡めつつ尋ねてみたら、呆れたような目を向けられた。
「お前の性格の、そういうところはよく知ってるよ」
 言った後で彼は苦笑する。
「でも、基本的なことは何も知らないよな。誕生日も、血液型も、趣味も、普段どんなふうに過ごしているのかとか。将来何になるつもりなのか、とか。お前の話を聞いてやる機会、なかったもんな」
「言われてみればそうだね」
 今度は素直に頷いた。
 それだってお互い様だ。
「私も鷲津のこと、まだあんまり知らないな。どこの大学の何学部に進んで、何を専攻してるのかとか、全然教えてもらってない」
 好きな人のことなのに、ちょっと前まではクラスメイトでもあったのに、誕生日も血液型も趣味も知らない。
 何度も肌を重ねて、いっぱいキスをして、一緒にお風呂だって入った仲なのに。
「別に急ぐことはないんだろうけど」
 鷲津が、頬を掻くような仕種をした。
「そういう、細かい話もさ。これからはしていけたらいいなと思う」
 彼のその言葉が温かで、私は静かに息をつく。

 私たちが辿り着いたのは奇妙なくらいに穏やかで、落ち着いた空気だった。
 なのに今までになく胸がときめく。
 彼の傍にいて、静かな時間を共有していると、ひたすら優しい気持ちが湧き起こる。
 彼がここにいてくれてよかった、心からそう思う。

「なんか、恋人同士の会話って感じだね」
 私が水を向けると、鷲津はやっぱり呆れたようにこちらを見た。
「端的な言い方だよな」
「だめ?」
「そんな安っぽいもんじゃないだろ。少なくとも、俺はそう思ってる」
 言った後で、恥ずかしそうに口ごもる。
「まあ、客観的に見れば安っぽい関係にしか見えないだろうけどな……身体から入ってる、わけだし」
 照れが入り混じる複雑そうな表情が、数秒後にぎこちなくほころんだ。
「ただ、お前が思いたいなら好きなように思えばいい。俺ももう他人の目を気にするつもりはないし、意味もないしな。俺は違うように思うけど、お前が思うようなことを、きっと他の人間からも思われるはずだ」
 それはつまり、傍から見れば恋人同士みたいだって事実を、ひとまず認めようっていうこと?
 もっと『端的な言い方』をするなら、私と恋人同士みたいに見られても構わないってこと?
 端的でも何でも、いい意味にしか解釈できない。
「そっかあ……」
 思わずにやつく私を、鷲津はきまり悪そうに見ている。
「うれしそうにしやがって」
「うれしいよ、すごく」
 鷲津の中の認識がどうあれ、私は彼を独り占めできて、その上で恋人同士みたいな関係になれたらそれでいい。彼にとって私が、誰より最も必要な存在であれたらよかった。
 つまるところこの関係は願ったり叶ったりだ。
「じゃあ、好きなように思うからね」
 私は応じて、繋いだままの指先に軽く力を込めてみる。
 ほどかれなかった。幸せだった。

 隣に視線を投げてみる。
 憑き物の落ちたような顔、とでも言うんだろうか。鷲津はすっかり落ち着いていて、どこかくつろいだ様子も窺えた。
 今までは自宅の自分の部屋にいても、こんな表情を見せてくれたことはなかった。
 眺めてみれば、今のこの顔も好きだと思う。
 くつろいでいる時の目つきの優しさ。ほんの僅かにだけ開かれた唇。それでいて肌の白さも、噛みつきたくなるような首筋も、コーヒーカップを傾ける度に上下する喉仏も、変わることなくそこにある。隙なんてないように見えていた彼の、隙だらけの姿が、今はすぐ隣にある。
 手を伸ばしたいような、だけどもう少しこのままで、そっとしておいて、ただ眺めてだけいたいような。
 猫に鰹節の例えではないけれど、彼を見ているとやっぱり、喉が鳴る。

「……腹、減ってないか」
 不意に鷲津が口を開いた。
「減ってるなら何か持ってくる。菓子パンくらいしかないけど」
 そう言ったのは恐らく、私が物欲しそうな顔でもしていたからなんだろう。
 欲しいのは食べ物ではないし、胸がいっぱいでどこにも入る余地はない。鷲津なら別腹だけど。
「ううん、まだ平気」
 かぶりを振って答えてから、私は軽く笑っておいた。
「そういえばこの間来た時も菓子パンだったよね。鷲津、パンが好きなの?」
「別に好きってほどじゃない。ただ、菓子パンは値段の割に腹が膨れる。一個あれば満腹になるし、余った食費を貯めておけるだろ」
 さらりと答えた鷲津の、華奢と呼んでも差し支えのない腹部に思わず目が行く。
 自分のお腹と比べたくはなかった。多少、へこんだ。
「もっと食べた方がいいよ、鷲津」
 私が真剣に助言をすれば、今度は彼の方がへこんだみたいだ。
「俺だって好きで痩せてるわけじゃない」
 一度でいいからその台詞、私も言ってみたい。

 だけど鷲津が積極的にご飯を食べてるところも、そういえば見たことなかったような気がする。
 私にはいろいろとご馳走してくれたりもしたけど、彼はいつだって少食だった。菓子パンはひとつをふたりで分け合ったし、サンドイッチは私がひとりで食べた。
 今になって思えば、そういう面からも彼の生気のなさが垣間見えていた。
 生きることにさえ執着していないようだった。

「久我原は、やっぱり鍛えてる奴の方が好きなのか?」
 恐る恐るといった口調で鷲津が問う。
 それがおかしくて、私はまた笑った。
「私は鷲津が好きだよ。でも……」
 でもこれからは、もっと生きることに力を尽くして欲しい。
 できるだけ私と、長く長く一緒にいるんだって、そのことを何よりも強く思っていて欲しい。
「ちゃんと食べないと身体に悪いよ。たくさん食べて、健康でいてくれる人が好き」
「……難しい注文だな」
 彼が肩を落とすから、私はその肩を叩きたくなる。
「じゃあ今度、何か買ってきてあげる。スタミナのつきそうなもの」
「買ってくるって、うちにか?」
「うん。それで、ふたりで一緒に食べるっていうのもよくない?」
 鷲津は外に出たがらないだろうし。そう思って提案したのに、
「なら、外に食べに行く方が早いだろ」
 私の予想を裏切り、ごく何気なく、鷲津が言った。

 多分、恋人同士ならどうってことのない台詞だった。
 でも私たちの場合はそうじゃない。外で会う時も人目を忍んでばかりいて、まだ並んで歩いたことさえなかった。今日、それが叶うかもしれないと思ったのに、結局叶わなかった。
 そのくらい、どうってことなくない提案だった。

 私が息を呑んだから、彼も察したように視線を外す。
「とってつけたみたいな感じ、するだろうけど」
「う、ううん。ちっとも」
 急いでかぶりを振ったけど、私も少し驚いていた。
 本当に、鷲津は変わった。それもいい方に――生まれ変わったみたいに。
「そうか? とにかく……今度からは、外で会うのもいいかなと」
 もごもごと口の中で言って、鷲津はちらりと私を見る。
 頬が赤い。
「こういうこと言ったら、お前はまた『恋人同士みたい』って言うんだろ」
「言わないよ。思うだけ」
「別に、言ってもいいけど」
 素直には許しがたい、という口調だった。
 彼の中では頑なに認めたくないものがあるらしい。
「……ただ、覚えててくれ。俺がお前のことを好きでいるのは、性欲に負けただけでもなければ『彼女』が欲しいからでもない。思ったこともないけど、恋愛を楽しみたいとか……好きな人がいてうれしいとか、そういう余裕ぶった気持ちでもない。もっと切実なんだ」
 わかってる。
 さっき聞いたとおり、彼の気持ちは恋ではないんだろう。他人の目にどう映ったとしても。
 鷲津はその感情を恋とは呼ばない。
 知らないからなのか、信じられないからなのか、それとももっと別の感情を理解しているからなのか――。
「お前が必要なんだ、どうしても。生きていく為に」
 彼がその言葉を、熱い吐息と共に零した。
 私は衝動に、唇で全て受け止めた。
「ん……」
 合わせた唇越しに、彼が微かに呻く。
 色っぽくも幸せそうでもあるその声も、私も幸せな思いで聞いている。

 鷲津が私にくれる全てのものを、失くさずに拾い集めて、大切にしまっていきたい。
 そうすることで私も、彼と二人で、ずっと生きていけると思った。

 恋人同士とは少し違うのかもしれない。
 鷲津がいなくなったら、私はその時泣くだろう。
 けれど私がいなくなったとしても、鷲津は泣いたりしないだろう。
 でも、彼が生きていく為には私が必要だ。鷲津にとって私の代わりはいないし、私にとっても同じように、お互いにかけがえのない存在だ。

 私は私自身の気持ちを、恋だと呼んでいたかった。
 鷲津がどう捉えていたとしても。
 他人の目にどう映ろうとも。
 彼を欲する衝動も、独占欲も、いとおしさも、触れたい気持ちも全て――全てを捧げても惜しくないほど一途で、甘い恋をしたんだと、今もそう信じている。
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