その時君は泣くだろう(3)
でも、もう泣かない。これから鷲津を、もっともっと幸せにしなくちゃいけないから。
私に夢中にさせて、他の辛いことや嫌なことや苦しいことがどうでもよくなってしまうくらいに、幸せにしてあげたいから。
泣いてる暇なんてない。
「……いつ、本当だって気づいてくれたの?」
ほとんど吐息だけで尋ねると、彼も抑えた声で答えた。
「俺といて幸せだって、お前が言った時だ」
本当にわかってくれてるんだ。
私も幸せな気持ちを、ようやくしみじみと噛み締めた。
鷲津といるのが一番幸せだった。それは今でも同じだ、ちっとも変わっていない。
深く息を吸い込んで、それから私は、ゆっくりと告げた。
「もう私は、鷲津のものだよ」
至近距離から彼を見つめ、神聖な誓いを立てる。
「どこにも行かない。鷲津を捨てるなんて絶対ない。逃げたりもしないから、不安にならないで」
鷲津も私を真っ直ぐ見つめている。
奇跡を目の当たりにしているような、静かで穏やかな瞳をしていた。
「その代わり、鷲津も私のものだからね。お互いに」
そう、お互いに。
私たちは拘束し合う関係でありたい。
片時も離れることのないように。
いつまでも傍にいられるように。
常にお互いのことを考え、相手なしではいられない関係になりたい。
鷲津は私が、私は鷲津がいてくれさえすれば、他に何もなくても、誰もいなくても生きていけるように。
「誰にも渡さない。鷲津は私のなんだから」
絶対に、渡さない。
佐山にも、あのクラスの他の子たちにも、神様にだって。
誰にも譲らないし、連れていかせない。
「私だけのものだから」
私の気持ちは今までどおり、鷲津にだけ全力で注ぐ。そうして愛でがんじがらめにして、彼が私なしではいられないようにする。
だって私はもう、鷲津なしではいられない。彼がいなければきっと生きていけない。生きていくなら、二人で一緒じゃないと嫌。
そのくらい好きだった。身も心も何もかも好きだった。いとおしくて、大切で、失くしたくなくてたまらなかった。
閉じ込めておきたかった。
閉じ込められてしまいたかった。
「離さないでね」
念を押すつもりで囁いたら、彼はごく小さく頷いた。
「ああ」
「鷲津のことは、私が必ず幸せにするから」
「……もう幸せだよ、十分」
いつになく優しい口調で、鷲津は言った。
乾いた唇は緩やかに笑んでいる。
「誰かが傍にいてくれるのって、いいことだと思う」
彼は言う。
初めて気づいたみたいに、自らの言葉を噛み締めている。
「それが私なら、何より一番いいでしょう?」
「そうだな。久我原がいい」
至近距離でかすめてくる吐息が、体温よりもずっと熱い。
唇に、触れたくなる。
「私は鷲津がいてくれたら、私だけのものでいてくれたら、それだけで幸せだから」
確かめるように、彼の頬を撫でてみる。
さっき落とした私の涙はもう乾いていて、指先ですべすべの肌を感じ取る。
いつだって白くてなめらかな頬から顎まで、そっとなぞった。
すると鷲津は低く声を立てて笑った。
「くすぐったいよ」
それから笑ったままの表情で続ける。
「俺は大したことできない。お前が喜ぶようなこともあんまり知らないけど……一緒にいるだけで幸せだって言ってくれるなら、一緒にいる。離さない」
笑いながら、そんな言葉を私にくれた。
それを間近で受け止められた私は、本当に幸せだった。
「ずっとだよ」
「わかってる。ずっとだ」
恋とは、相手を拘束したいと願うことだ。
拘束することが許されるなら、それはつまり恋が叶ったということなんだろう。
ようやく叶った。鷲津が私のものになってくれた。
幸せだった。
「鷲津が死んだら、私、後を追うから」
私が言うと、彼はぎょっとしたようだ。その目を丸くしていた。
「そこまでするなよ。お前は長生きしろよ」
「嫌。私に長生きして欲しいなら、鷲津も長生きして」
「努力はする」
お互いがいれば生きていけるっていうなら、私たちは長生きだってできるかもしれない。
おじいさん、おばあさんになるまで一緒にいられるかもしれない。
その時までずっと、私は鷲津を好きでいる。それは確実だって言い切れる。
鷲津もその時までずっと、私を傍に置いてくれたらいい。
「好きだよ、鷲津」
全ての想いを込めて、私は彼に囁いた。
「俺も」
間髪入れず鷲津が答える。
その返事に、今度は私が酷く驚かされた。
「本当に?」
「ああ」
彼はためらわずに頷き、言い添える。
「お前が言う『好き』とは、意味合いが違うかもしれないけど」
彼は私の目を見つめたまま、穏やかな声音で語を継ぐ。
「俺は、お前がいるから生きていける。生きていく意味があると思ってる。だから、好きなんだ」
彼の言葉の重さに、私は目を伏せる。
鷲津が言う『好き』は、恋ではないのかもしれない。
少なくとも私が抱く『好き』とは意味がまるで違う。鷲津には私が必要なんだ。何よりも、生きていく為に。
それなら私は彼の想いを大切にしていきたかった。
ひたむきなまでに生きていこうとする彼が、いとおしかった。
「後を追うって言われたら、死ぬわけにもいかないしな」
決心がついたように、鷲津が苦笑を浮かべる。
「せいぜい長生きしてみせるよ。幸せにだってなってやる。お前のことも、ずっと離さない。これから先はずっと、生きててよかった、死ななくてよかったって思いながら生きてやるんだ」
そういう生き方も悪くない。
私も、これから先はずっと思うだろう。
彼が生きててくれてよかった。私の傍にいてくれてよかった。私を必要としてくれて、本当によかったって。
至近距離で見つめ合う時間が続いていた。
目を逸らすのが惜しい。瞬きをする暇さえもったいないくらいだった。私たちは素直に、心から見つめ合えている。幸せだった。
だけど、黙っているのもそれはそれでもったいない。
せっかく二人きりなんだから。
「キスしていい?」
結局我慢ができなくなって、私は見下ろす顔に尋ねてみる。
そういえばあの日の教室でも、こんなふうに問いかけるところから始まった。
あの時は、素っ気ない答えしかもらえなかったけど――。
鷲津も思い出したんだろうか。にわかに眉を顰めてみせた。
「今度は、俺が聞こうと思ってたのに」
それは残念だ、聞かれてみたかった。
「……ごめん。先に聞いちゃった」
「別にいいけど。お前、そろそろ慎みってもんを覚えた方がいいんじゃないか」
私が悪びれずに謝れば、呆れたように言われた。
だけどそれには首を竦める。
「そんなの今さらじゃない? 散々変態呼ばわりされてきたのに」
「確かにそうだよな。今さらか」
何もかも飲み込んだ表情になって、鷲津も笑う。
こういう私だからこそ、彼にも信じてもらえたんだろう。
彼だって、こんな私が必要なはずなんだから。
「で、答えは?」
「答え?」
「キスしていいかってこと」
彼の答えが聞きたかった。
虚勢でも何でもない本当の答えを。
ここまで辿り着いたからこそ言える、素直な気持ちが聞きたかった。
「ね、応えて」
私が促すと、鷲津は小さく溜息をつく。
それから目を細めて、言った。
「いいよ。俺も、したかった」
答えは言葉以上に強く、その声の端々に溢れていた。
だから私は目を閉じて、ほんの少しだけ顔を近づける。
そうして彼の乾いた唇に、熱と水分を、ゆっくり、ゆっくり分けてあげた。
しばらくしてから、鷲津は私の両肩を押さえ、身を起こすように促した。
私が素直に従うと、彼も肘をつきながら上体を起こす。
フローリングの床の上で、私は彼に馬乗りになっている。気分が落ち着いてから初めて状況の異常さを察した。人の家の玄関ですることじゃない。
「背中が痛い」
顔を顰めて鷲津がぼやく。
その後で私の顔を見て、くくっとおかしそうに喉を鳴らした。
「何やってんだろうな、俺たち。こんな玄関で……」
「いつ人が来るかわからないって点ではスリリングかも」
私がフォローにならないことを口にすると、今度は一層吹き出された。
「その解釈は前向きすぎるだろ」
ひとしきり笑った後で、鷲津の口元に照れ笑いが浮かぶ。
何だか生まれ変わったみたいに明るい表情だ。改めて、私はこの瞬間を噛み締める。
「部屋に行くか」
彼が言って、私もちょっと笑ってしまった。
「そうだね。お邪魔していい?」
「いいけど……今日はせっかくだから、話がしたい」
鷲津の手が私の髪を梳く。
そういえば走ってきてからそのままだった。慌てて自分の髪に触れてみたら、風に掻き混ぜられてすっかりめちゃくちゃだ。
汗もかいたしその後ぼろぼろ泣いてしまったから、マスカラもファンデも落ちているはず。できれば直す時間が欲しい。
「俺、久我原のこと、いろいろ知りたいんだ」
酷いはずの私の顔に、鷲津は観察するように見入る。
柄にもなく、彼の視線が恥ずかしかった。
「そんなに見ないで」
「隠さなくていい」
両手で遮ろうとしたら、骨張った手がそっとよけてしまう。
「そういえば俺、お前のことあんまり見てこなかった。これから、教えてくれないか」
恥ずかしいけど、知りたいと思ってもらえるのはうれしい。
そんなに謎や秘密がある私ではないし、話して面白がってもらえるようなこともないだろうけど――鷲津の知りたがっていることは全部教えてあげたい。知っていてもらいたい。
「うん。たくさん教えてあげる」
私は頷く。
私も、鷲津のことをもれなく全て知っているわけじゃない。
だからこれから、たくさん知っていけたらいい。一緒にいる為にはそういうことだって必要だ。
二人でいるのが一番いいって思えるように、どこにいる時よりも居心地いいように、お互いのことを理解していきたい。
「だけど先に、お化粧を直してもいい?」
そう尋ねたら、また鷲津に笑われた。
「別に直さなくてもいいだろ。素顔はもう知ってる」
「鷲津の前ではきれいでいたいの」
「じゃあ、好きにしろ。その間に紅茶でも入れておく」
それで私は洗面所を借り、手早く化粧を直すことにした。
何度も入ったことのある洗面所で、初めて鏡と向き合った。鏡の中にいたのは泣いた後の顔で、やけににやにやしている私だった。馬鹿みたいに幸せそうだ、化粧が崩れて酷いのに。
でも、本当に幸せだった。