明日晴れたら、君を呼ぼう(1)
コール音が五回聞こえた後、ぷつりと電話が繋がった。すぐに呻くような声が聞こえた。
『……久我原?』
「うん」
私は見えもしないのに、相手に向かって微笑んだ。
今はもう、以前とは違う。佐山だって怖くはない。
「佐山、久し振り。今、話してて大丈夫?」
『少しだけなら』
電話越しに聞く佐山の声は暗い。
現在の彼がどういう状況なのか、私はよく知らなかった。
もう二度と顔も見たくない相手ではあったけど、どうしてもコンタクトを取りたかった。その為に連絡先を手に入れるのは苦労した。こっちは一度着信拒否していたし、高校時代のクラスメイトも全員切っている。
仕方なく、同じ大学にいた友人の伝手を頼りに――元クラスメイトに連絡を取りたいけど電話帳消しちゃって、などと適当なことを言って、佐山の連絡先を手に入れた。
でも、これっきりだ。もう二度と掛けることはない。
佐山がこの先どうなるのかも、きっと知ることはないだろう。
「大した用じゃないからすぐ済むよ」
そう告げると、佐山はわざとらしく溜息をつく。
『俺に今更、何の用なんだ。あんな仕打ちまでしといて』
彼の態度も以前とは違い、私と話すのが億劫だと言外に訴えている。
番号を教えてもいないのに電話を掛けてきたのはどこの誰だった?
そう嫌味を言ってやりたくなる気持ちをぐっと堪える。こっちだって長々と話したいわけじゃない。
「はっきり言うなら、引導を渡すってとこ?」
私はストレートに切り出す。
直後、佐山が息を呑むのが聞こえたけど、続いた返答は平静そうだった。
『……そっか、わかった』
強がりなのかどうか、驚く様子も見せなかった。
まあ、諦めはつくだろう。私はもう既に本心を伝えていた。あの時の気持ちは鷲津の『告白』を聞いた後でも、何一つ変わっていない。
鷲津を傷つける人たちとの繋がりを、改めて断ち切っておきたかった。
これからは私が彼を守っていく。その為にも、佐山には鷲津の前に現れて欲しくない。金輪際、二度とだ。
『あいつと、上手くいったんだな』
佐山は確かめるように呟いた。
私はそれにははっきり答えず、ただ語を継いだ。
「もう私の家まで来ないでくれる? 尾行もしないで」
『わかってるよ』
意外と、と言うべきか、素直な答えがあった。
「できれば、二度と顔も見たくない。私だけじゃなく、彼の前にも現れないで」
語気を強めて続けると、佐山の声も荒立った。
『あいつのどこがいいんだよ。久我原だってあのクラスにいた頃は、あいつのことを相手にもしてなかったくせに』
きつい物言いだった。
怯んだつもりはないけど、一瞬だけ目を伏せたくなる。
ともすれば高校時代の記憶を忘れてしまいそうになる。
後悔は今でもある。鷲津をもっと早くに好きになっていたかった、今でもそう思う。
だけどやり直しは利かない。
だから私は前に進む。
「あの頃のことは、佐山の言う通りだよ」
感情的にならないようにするのは難しかったけど、ぎりぎりのラインで声を抑え込んだ。
「私だって佐山のことが言えないくらい、鷲津に冷たかったと思う。みんなの陰口を止めなかった。変な動画が回ってきた時も、それはよくないよって言えなかった」
興味がない、その一言で終わらせるべきじゃなかった。
もしかすれば、鷲津とはもう会えなくなっていたかもしれないんだから。
「でも、今は鷲津が好き。何を失くしても惜しくないくらい好きなの。だから私は彼を守る」
『へえ』
再び佐山が溜息をついた。
嘲笑するようにも聞こえた。
『本気で聞いてみたいな。久我原、あいつのどこが好きなんだ?』
その問いには即答できる。
「全部」
何もかも全部だ。
鷲津の弱さも、強がりなところも、冷たさも鋭さも絶望も、奥深くに隠し持っている穏やかさも、全て好きだった。
『あいつはお前を幸せにする力もないし、お前を守ろうともしなかった。俺にだって何も言い返せなかっただろ。一緒にいたってどうせ一緒に不幸になるだけだ』
佐山は、まるで確信しているみたいに言う。
佐山を始めとするD組のクラスメイトたちは、いつだって鷲津を見下し、嘲っていた。
それが訂正される機会はもうないのかもしれない。
でも、私にはあった。つまりそれが運命だ。
「どうして決めつけるの? 私は幸せだよ、鷲津の傍にいられたら」
私の答えを聞いた佐山は舌打ちしてみせた。
『そのうち、後悔することになるな』
「後悔なんてしない。余計なお世話だよ、佐山」
もう一度、即答する。
それで佐山は低く呻いた。
『久我原、変わったよな。そこまで悪趣味な女とは思わなかったよ』
私も、私自身の衝動的な一面を、ずっと知らないままでいた。
鷲津を好きになったからこそ気づけたんだと思う。
この恋に後悔はしない。いつでも胸を張っていられるはずだ。
こんなに人を好きになったこともなかった。こんなに一途でいられたこともなかった。恋は盲目と言うけれど、何も見えなくても十分に幸せだから、私はそれでいい。
どんな結末を迎えたとしても、鷲津の傍にいるという選択を悔やむことはないだろう。
「いいんじゃない。幻滅したなら、佐山も吹っ切れるでしょう」
私が言うと、彼も同意を示した。
『そうだな。そう思っとく方がいいみたいだ』
「じゃあ、そうして。同窓会も行かないから」
『わかった。酷い夢だったと思って、忘れることにするよ』
佐山があっさりと言ったので、私はじゃあねと告げて電話を切った。
引導を渡すまでもなかったのかもしれない。
あの日からまだ一週間も経っていないけど、佐山の気持ちはもうとっくに冷めていたのかもしれない。むしろあれだけのことを言われて冷めていなかったら、それはそれですごいと思う。
でも、どうだっていい。私には鷲津しか見えないから。
もしまた佐山と会うことがあったとしても怖くはないだろう。
鷲津のことを好きだと、彼の為に生きているのだと、胸を張っていられるから。
憂鬱で面倒な用事はこれでおしまい。
佐山との通話を終えてから、私は口直しに鷲津にも電話を掛けた。
曜日と時間を確かめてから――平日の日中の他、月、水、金曜日の夜八時までは携帯に電話を掛けても平気だと聞いている。
今日は金曜、時刻は六時を少し過ぎたところだ。
鷲津は、きっかり三コール目で電話に出た。
『もしもし』
「あ、鷲津? 久我原です」
私が名乗ると、彼は微かな笑い声を立てる。
『お前、ちゃんと確かめてから名乗れよ。俺じゃなかったらどうするんだ』
「鷲津じゃない可能性があるの?」
携帯電話なのに。
私はそう思ったけど、鷲津は疑問に答えて曰く、
『うちの親がいる時は、携帯は親が預かる。変な相手と交友してないか確かめる為だってさ』
とのことらしい。
『変な人たちなんだよ。仕事大好きで家にもあんまり帰らないで、俺の面倒も見たがらないくせに、そうやって人間関係だけは縛ろうとする』
鷲津が語る彼のご両親は、確かによくわからない人たちだった。
いつも彼に食費だけ置いて、長く家を空けることもあるらしい。
でも鷲津の携帯電話の履歴は入念にチェックするそうだ。うちの親がそんなこと言い出したら正直引くけどな。
ただ、鷲津はあまり親の話をしたくないみたいだ。声がワントーン落ちるからわかる。
私も彼の気持ちを暗くしたくないから、あえて明るく言った。
「鷲津の声はわかるよ。心配しないで」
『どうだろうな。うちの父親と声似てるってよく言われるんだ』
懐疑的なコメントの後、鷲津はそっと言い添える。
『まあ、お前のことがばれたらばれたでどうにかするさ。ずっと隠しておくつもりもないし』
「ふうん」
意外な言葉に私は驚く。
すると彼はわかりやすく照れてみせて、更に続けた。
『いつか言うよ、いろいろと……用意ができたら。この家もそのうち出ていくことになるだろう』
意味深長な発言だ。
でも、私はあえて追及しなかった。
そうしなくたってわかる。一緒に生きていくというのは、そういうことだ。
まだ十代の私たちは、既に将来まで決めている。
でも早すぎたって後悔はしないだろうし、誰かに笑われたって構わない。
私は鷲津の為にいたい。
それが叶えば他はどうでもいいし、それを叶える為なら何だってできる。
いつか私も、両親に言うだろう。
家を出ていくことにもなるだろう。
その日までは――もうしばらく、十代らしい恋を続けていきたい。
『それより』
鷲津が話題を変えた。
『明日は空いてるか? どこか、行こうと思うんだけど』
早速のお誘いだった。
実は期待して電話を掛けた。彼が切り出してくれなかったら、私から誘おうと思っていたほどだ。
「空けてるよ。鷲津、行きたいところある?」
『俺は特にないけど……天気はいいらしいからな。久我原に行きたいところがあるなら、どこでも付き合うよ』
かつての態度からは考えられない、優しい言葉にうっとりしたくなる。
私は一人でにやにやしつつ、彼の問いに答えた。
「行きたいお店あるの。食べ物屋さんなんだけど。付き合ってくれる?」
『わかった。じゃあ、昼飯をそこにするか?』
「うーん……お昼にできなくもないけど。甘いのばっかりだよ」
私が言うと、鷲津は少し訝しそうにしてみせた。
『そこ、どういう店なんだ』
「バイキングだよ。ケーキの」
『ケーキバイキングって……』
「鷲津にもたくさん食べてもらえるところがいいと思って。いいアイディアでしょう?」
これから鷲津にはうんと長生きしてもらわなくちゃいけないから。
まずはたくさん食べて、体力もつける必要がある。その為にもバイキングは最適な場所だと思うんだけど。
『だからって、何でケーキバイキングなんだよ』
彼が低い声を立てる。
「鷲津、ケーキは嫌い?」
『嫌いじゃないけど……二つも三つも食べるものじゃないだろ』
「そうかな。私、八つはいけるよ」
『食べ過ぎだ』
ぶすっとした物言いがおかしくて、私は笑い出してしまう。
鷲津とこんなに気軽に話ができて、それだけで嬉しい。
「私は好きだよ、ケーキ。紅茶と一緒に食べるのが好き」
『知らなかった。なら紅茶に菓子パンなんて、気の利かない組み合わせだったろ?』
彼の声が何だか悔しそうに聞こえる。
気にするほどのことじゃないのに。
「ううん、菓子パンも好きだから」
取り成した後で、私は続けた。
「とにかく明日、楽しみにしてるね」
『ああ』
鷲津が応じてくる。
後に、はにかんだ言葉が並んだ。
『先週も会ったのに……と言うより、先週、ややこしいことになったのに、悪いな。すぐに誘って』
「どうして謝るの? 私、鷲津に会いたかったよ」
彼からのお誘いなら毎週だって歓迎だ。
本当は片時でも離れていたくないくらいだけど、十代の学生らしい付き合い方をしなくてはいけないから――講義をさぼる訳にはいかない。同じ大学ならもっと会えたんだろうな、そう思うとちょっと惜しい。
だから週末の約束は貴重だ。毎週だって会いたいくらいだった。
『俺も、会いたかった』
鷲津がぼそりと言った。
「本当に!?」
『お、大声出すなよ。びっくりするだろ』
「そんなこと言われたら嬉しくて、びっくりするに決まってるよ」
『だったら素直に喜んどけよ、本当だから』
今までは言わなかったことを、鷲津は当たり前のように言ってくれる。
『明日がいい天気なら、久我原を誘おうと思って……毎日天気予報ばかり見てた』
そんなふうに、私のことを気遣ってもくれる。
「雨が降ったって気にしないよ。構わず会いに行く」
私が反論したら、鷲津はまた明るく笑った。
『お前ならそう言い出すだろうと思ったから、明日は晴れて欲しかったんだ』
鷲津は私のことを知り始めている。
少なくとも、私がどのくらい鷲津のことが好きなのかは、ちゃんとわかってくれているらしい。