その時君は泣くだろう(2)
「場所は、教室がいいだろうと思った」淡々とした告白は続く。
「復讐のつもりだった。俺を笑った連中に対して。無関心でいてくれたらよかったのに、それすらしてくれなかった連中に、最後に思いっきり嫌な気分を味わわせてやりたいと思ってた。抵抗する力もなければ根性もなく、耐えることさえできなくなった俺にとって、唯一できる復讐がそれだった」
悪趣味な復讐だ。
そのくらいならまだ、私を利用してくれる方がいいのに。
「なのに、お前が来た」
鷲津はまた笑った。
「最初はすごく驚いた。もしかしたら、俺が何をしようとしてたか知ってるんじゃないかとか、ばれたらどうしようかとか、そんなことばかり考えてた。早く帰ってくれればよかったのに、お前、一向に帰る気配なかったし。わざとなのかと思って内心焦ってたくらいだ」
彼にとっては偶然として、私にとっては運命として、あの日の教室でお互い出会った。
唐突に、衝動的に言い寄った私は、彼の目にはどんなふうに映っていたんだろう。
「お前がああいうことをしてきたのも、実は、ばれてるからなんじゃないかと思った」
そこだけは少し言いにくそうにしていた。
「俺が死のうとしてたのに気づいて、それで……久我原は、俺をからかってやろうとしてるのかとか、このことをネタに後で脅すつもりでいるんじゃないかとか、そんなふうに思ってた。だってあんな迫り方されて、本気かどうかなんてわかるわけないだろ」
「――本気だったよ、私」
とっさに反論すると、鷲津はわかってる、と小声で言った。
「だから、今は感謝してるんだ。お前が来てくれたことに」
穏やかな表情が視界の中で滲んだ。
「運命だったのかもしれない。今は、そう思ってる」
運命だったんだ、本当に。
あの日、私が教室の前を通りかかったのも。
廊下から、教室にいる鷲津を見かけて、強く惹きつけられてしまったのも。
そのまま鷲津に言い寄って、押し倒して、告白して、キスまでしたのも――全部運命だった。
この運命がなかったら、鷲津は、多分。
そんなの嫌だと思った。
一歩間違えば好きな人がいなくなってたかもしれない運命なんて、鷲津がここにいてくれなかったかもしれない運命なんて、最悪だ。そんなの絶対に嫌だ。
どうせならもっと早く好きになっていたかった。
鷲津が死のうだなんて考えられないように、ずっとずっと前から好きでいられたらよかった。
彼が絶望するより先に好きになって、本気なんだってことをもっと早くに伝えられたらよかった。
気がつけば、鷲津の顔が見えなくなっていた。
視界がぼやけて、目の奥がじわりと熱くなる。
瞬きをすると涙が落ちたのが感覚だけでわかった。
「……泣くなよ」
困ったような彼の声が真下から聞こえる。
だけど無理な注文だった。泣くなって言う方がおかしい。好きな人がこの世にいなかったかもしれないって考えて、泣かずにいられる?
本当は声を上げて泣きたいくらいだ。
そりゃあ鷲津にはわからないだろう。
私がどのくらい鷲津を好きでいるか、まだ知らないみたいだから。
あの日、鷲津がどんな気持ちでいたか、私にはちっともわからないように。
私があの日からどのくらい鷲津を好きでいるか。会えない間にどのくらい彼のことを考えているか。会えた日はどのくらい彼に夢中になっていて、彼の為ならどんなことでもできるんだってことも、ちっとも知らないだろうから。
鷲津がいなくなっていたら、この気持ちだってなかった。存在していなかった。
そう思うと無性に怖くてたまらなくなる。
「泣くなって。ちゃんと生きてるだろ」
少し無神経な言い方で、彼は私を叱ってみせた。
それから腕を伸ばし、服の袖で私の涙を拭おうとする。だけど私はそのくらいじゃ泣き止めなかった。拭いてもらったうちから熱い雫が、次から次へと頬まで溢れた。
「だって――」
言い返そうとしたけど声にならない。
泣き声を堪えるのに精一杯で、何も言えなくなっていた。
よかったって思うんだ。
あの日、鷲津を止められて。あの日、鷲津のことを好きになれて。
本当によかったって、ほっとしてるんだ。
だけどやっぱりそんな運命は嫌だ。怖すぎる。
だってもし、間に合わなかったらと思うと――。
「もうしない」
鷲津は言い聞かせるような口調で言った。
「もうしないから。今はもう、そんなこと考えてない。死にたいなんて思ってないから」
慌てているようで、いつもより早口になっていた。
「打ち明けようかどうかだって迷ったんだ。前にホテルに泊まった時、話そうかと思った。でもこんなこと話してもどうにもならないって思ったから、言わなかった」
ああ、そうか。
あの時に彼が抱えていたものも、ようやくわかった。
「今日だってさっきまでずっと迷ってて……いっそ言わない方がよかったか? ああもう、泣くなって、本当にしないから」
泣くなと言われて泣かずにいられるはずもないけど、幸い私は現金な質だった。
しゃくり上げつつもどうにか呼吸を整え、確認を取る。
「い、一生だよ?」
金輪際、そんなことは考えて欲しくない。
鷲津は私が幸せにする。自殺どころか、長生きしたくなるくらいに幸せにする。
だから、だめ。
絶対にだめ。
「……わかってるよ」
私の短い言葉でどこまでわかってくれたのか、彼はきっぱりと応じた。
だからもう一つ確かめておく。
「一生、考えるのだって、なしだからね?」
本当はそんなこと考えられないくらいに鷲津を幸せにして、私に夢中にさせたい。
けどそれを実現するには時間が掛かってしまうかもしれないから、その間に考えられたら嫌だから、考えるのもだめって言っておく。
鷲津が考えるのは、私のことだけでいい。
「お前に捨てられたら考えるかもしれない」
案外真面目な調子で鷲津が答える。
それで少しはほっとした。
じゃあ一生考えずに済むだろう。だって私は鷲津のことが一生好きだって断言できる。誓える。
私は目を擦りつつ、しばらくぐすぐす言っていた。
他に言いたいことはたくさんあった。なのにまだ言葉にできそうにない。
彼の前で泣く日が来るなんて思わなかった。好きだと言ってもらえなくても、きつい言葉を向けられても、ちっとも辛くなかったのに。
「あの日も、お前が来たから思い留まったんだ」
そう言って、鷲津は指の腹で私の頬を撫でた。
涙で酷く濡れているはずだった。
「正直、最初は『思い留まった』だけだったけどな。未練があったから」
未練。死ぬことを考えていた鷲津の、未練。
私が怪訝に思いながら瞬きをすると、涙が落ちて視界が晴れる。
その涙の行き先は鷲津の顔で、雫が落ちた唇に場違いな照れ笑いが浮かんでいた。
「わからないだろうけど、童貞のまま死ぬのは嫌だったんだ」
「……わかんない」
「だろうな」
鷲津は笑っていたけど、私はちっとも笑えなかった。
変な理由。死ぬのを一旦止めたくなるくらいの未練が、それ?
そんな未練で思い留まれるなら、最初から自殺なんて考えなきゃよかったのに。
でも鷲津がそう考えてくれなかったら、私は鷲津を好きになってはいなかっただろう。
鷲津に惹きつけられることもなく、ただ漫然と卒業を迎えていたんだろう。
こんなふうに泣いてしまうくらい、人を好きになることだってなかったんだろう。
あの日、私が惹きつけられたのは、消えようとしていた命の最後の輝きだったのかもしれない。
逆らえないほどの引力に惹きつけられて、どうしても欲しくなった。拘束したくなった。拘束されてしまいたかった。
それも全て、鷲津があの日あの教室にいたから、そこまで追い詰められていたから。
そう思えた。
そういう運命だったんだ。
「馬鹿みたいだって思うだろ?」
彼の問いに、私は素直にかぶりを振る。
「ううん」
馬鹿なのは、きっと私の方だ。
追い詰められた鷲津と出会うまで、鷲津を好きになれなかった。彼の魅力に気づけなかった。だから私は馬鹿だ。相当の馬鹿だ。
やっぱりもっと早く、好きになっていたかった。
私も手を伸ばし、彼の頬に触れてみた。彼の頬も私のせいで濡れていた。指先で拭うと、少しくすぐったそうにされた。
「いいよ、気にするなよ」
そう言って、彼は続ける。
「馬鹿なのも事実なんだ。自分でもわかってる。久我原なら泣いてくれるかもしれない、そう思って、死ぬのを止める気になったんだからな」
本当にその通りだ。
鷲津がいなくなっていたかもしれないという可能性だけで泣いてしまった。
馬鹿みたいにショックを受けて、ぼろぼろ泣いてしまった。
鷲津はちゃんと生きているのに。ここにいるのに。
いなくなっていたかもしれない。そんな想像だけでも耐えられない。そのくらい好きだった。
「初めのうちは、信じきれなかった」
鷲津が両手で私の頬を包んだ。
大きな手に引き寄せられて、お互いの顔が近づく。前髪が触れそうになるほど、吐息が掛かるほど至近距離にいる。
「久我原がどうして俺のことを好きになるのか、まるでわからなかった。それでなくても俺は嫌われ者だったし……クラスの他の連中と、グルになって俺を騙そうとしてるんだと思った」
囁く吐息が唇をくすぐった。
「さっきも言ったように、俺があの日、何をしようとしたのか気づかれてるのかもしれない、とも思った。それでなかなかお前を信じられなかった」
私としてはかなりわかりやすく気持ちを伝えたつもりでいたのに。
人の心を捕まえるのは本当に難しいようだ。
「でも、罠にしてはやり過ぎだと思った。お前は俺に何をされても、何を言われても平然としてたし、俺と会う度にうれしそうにしてた。演技だとしても上手すぎた。もしかしたらって思いたくなった」
そこまで言って、鷲津がちらりと視線を外した。
「……まあ、本物の変態って可能性も考えなくはなかったんだけどな。身体目当てかと思ったことも一度ならずあったし」
身体目当てなんてことはない。
心も、両方目当てだった。いつだって。
そういうのも、伝えるのは難しかったんだろうな。私だって他に経験があったわけじゃない。こんな恋をしたのも初めてだったから、結構無茶なこともした。
「でも今は、信じてる」
鷲津が視線をこちらへ戻す。
真っ直ぐに私の目を覗き込んでくる。
「久我原の気持ち、信じられる。お前が俺をどのくらい想ってくれてるのかも、ようやくわかった。お前が俺の為に泣いてくれるのもわかった。だから……」
私と彼は今、唇が触れ合いそうなほどの距離にいる。
「傍に、いて欲しいんだ」
私たちは、お互いの傍にいる。
どちらかがほんの少しでも身動きをすれば、触れ合っていない部分は何もなくなるくらいの近さだ。
なのに唇はまだ触れない。鷲津が、そうさせてくれない。
「思ってたんだ。久我原なら、俺の為に泣いてくれるかもしれないって」
鷲津は言う。
「本当はずっと前から思ってた。お前が俺の為に泣いてくれるなら、俺も生きてる意味はあるだろうって。あの日から思ってた、久我原が本当に、俺のことを好きでいてくれたらいいって。罠とか嘘とかじゃなくて、本当であって欲しかったんだ。それで、お前がずっと傍にいてくれたら」
距離の近さとは裏腹な、冷静な口調で告げてくる。
「拘束したかったのは、きっと俺の方だ」
私の頬を両手で支え、言い聞かせるように繰り返す。
「お前を閉じ込めておきたかった。たとえ罠でも、嘘でも、逃げられないように。他の奴がお前を好きなんだとしても、そいつといた方がお前にとって幸せなんだろうとしても、俺には久我原が必要だった。いなくなってしまうのが怖くて、閉じ込めておきたいと思った」
熱い吐息が唇に掛かる。
身を捩りたくなるほどくすぐったい。
「お前に傍にいてもらえたら生きていけると思った。少なくとも、生きてく意味はあるだろうと思った。だから、罠でも嘘でもなかったとわかった時は、本当に――うれしかった」
うれしいと言ってもらえた、私も、うれしかった。
ようやく鷲津を幸せにできたのかもしれない。
前に彼自身が言っていたように、彼を好きでいる私が、彼のことを幸せにできたのかもしれない。
そうだとしたらうれしくて、また泣きそうになった。