ずるいひと(2)
迎えた日曜日の朝、私は五時に目が覚めた。両親からも不思議そうにされるくらいの早起きだった。
いくら好きな人とのデートだからって張り切り過ぎじゃないだろうか。今日に備えて、昨日はどこへも出かけずに肌のお手入れに終始して、夜も早くに寝たからって、早起きにも程がある。
お蔭でコンディションはばっちりだった。シャワーを浴びると頭も冴えたし、ヘアセットも決まった。化粧の乗りもいい。
お気に入りの下着と服で揃えて、鏡の前で思わず微笑む。
うん。絶好調だ。
訝しそうにする両親には、友達と遠出をすると告げておいた。
デートじゃないかと勘繰られもしたけど適当に誤魔化しておいた。
大学生は出かける機会がたくさんあるものだからどうにでもなる。もっとも友達と出かける時以上の張り切りようは、どうにも誤魔化し切れないものかもしれないけど。
家族にも、友達にも、いつか本当のことが言えるだろうか。
別に嘘をつくのが嫌なわけじゃない。罪悪感なんて端からない。ただ、誤魔化すのは面倒だから、正直に言えるようになれたらその方がいい。
鷲津との関係が、ごく自然なものになれたらいい。そう思う。
それと同時に、彼にとっても私が、ごく自然な存在になれたらいい。
朝七時五十分、私は家の近くのバス停でバスを待っていた。
朝早い道には歩く人影も、車の姿もほとんどなく、静かなものだった。
春もそろそろ終わりに近づき、朝方でも既にぽかぽかと暖かい。すっきりと晴れた空が心地よく、私は思わず深呼吸する。気持ちのいい朝だった。
やがてバスが来て、私はいい気分で乗り込んだ。
その時点までバス停にいたのは私だけだったはずだけど、ドアが閉まる直前、誰かが駆け込んできたようだった。
がらがらの車内で一番後ろの席に座った私は、改めてドアが閉まる音を聞きながら前を向く。
そしてそこで、通路をこちらへ歩いてくる見覚えのある顔を見つけた。
見覚えがある――というのも正しくはない。彼のその印象は、先日よりもいっそう不気味になっていた。
血色の悪い頬はこけ、瞬きの多い瞳はぎらぎらと光っている。ひび割れた唇がぎこちなく動き、息を呑む私の目の前で動く。
「よう、久我原」
その声にも、最悪なことに聞き覚えがあった。
「さ……やま……」
佐山冬弥がいた。
ナイロンパーカーのフードを目深に被り、その中から以前と同じように鋭い目つきで、じっとこちらを見据えていた。
『発車します、お座りください』
バスの運転手がアナウンスすると、佐山は断りもなく私の隣に座る。
反射的に身を引けば、すかさず腕を掴まれた。
「逃げないでくれ」
「は……な、何言ってるの?」
突っぱねようとしたけど、恐怖で声が上擦る。
怖いに決まっている。
佐山がどうしてここにいるのかまるでわからない。
よりによってどうして今日、私の前に現れたのか。
私のいい気分はあっという間に潰れて、ひしゃげて、めちゃくちゃになってしまった。
私の腕を掴んだまま、彼は苦しげに、呻くように言う。
「ごめん」
以前と同じように、詫びる言葉から始めた。
「今日、デートなんだろ?」
そのくせずけずけと、私の領域に踏み込んでくる。吐き気がした。
「そんなにめかし込んでるってことは、例の、好きな奴に会いに行くんだろ?」
質問に、私は答えたくなかった。
逆に問い詰める。
「どうしてここにいるの? 尾行でもしてたの?」
「……ああ」
佐山は呆気ないほど頷いた。
何気ない調子に、かえって背筋がぞくりとした。
「家の前にいた。今日は会えるかと思って、朝から」
「今日は、って」
「昨日も行ったんだ。昨日はずっと待ってたけど、会えなかった。だから今日は朝からいた」
確かに、昨日は家から一歩も外に出なかった。
今日に備えてお肌の手入れに終始していたからだ。
だけど、だからって、よりによって――。
「やっぱり、ストーカーだったんだ」
理不尽な怒りが湧き起こり、私は彼を睨みつける。
鞄の中に防犯ブザーがある。それからカッターも。佐山の手さえ振りほどけたら――。
だけど佐山の力は強く、爪が食い込むほど握られていた。
「痛い、離して」
私が訴えても彼は離そうとしない。
「ストーカーだってこと、否定はしない。久我原の言う通りだ」
そのくせあっさりと認めてくれる。
「わかってるならやめて。手離してよ」
「でも、会いたかった」
隣に座り、私の顔を覗き込もうとしてくる。
「やだ、声出すよ!」
「しっ」
佐山の手が私の口を覆った。
それは振り払ったものの、眩暈と吐き気がして、私はすっかり動転していた。
こんなのやだ、気持ち悪い、近寄りたくない、逃げたい――でもそう思う度、私は既視感に囚われる。
鷲津も初めは、こんなふうに思っただろうか。
気持ち悪い、近寄りたくない、逃げたいって私に対して思っただろうか。
心の奥で、理解はできると思っている。
もしも鷲津が私と会うことさえ拒んでいたなら、私は佐山と同じように、家まで足を運んだり、後をつけたりしていたかもしれない。
恋をすれば箍を外すのは簡単だし、踏み外すのだって簡単だ。
私がストーカーにならなかったのは、単に鷲津が私を必要としてくれたから。たったそれだけの理由だった。
私と佐山は似ている。
でも私は、佐山の好意なんて必要としてない。
引きちぎってばらばらにしてやりたいくらい、本当に心の底から要らない。
「あんたなんか大嫌い」
私はどうにか腕を振りほどこうともがいた。
でもいくらもがいても外れないどころか、佐山は本気で口を塞ごうとしてくる。
「久我原、聞いてくれ。俺は今でも久我原が好きだ」
きっと眉を吊り上げ、険しい口調で彼が続けた。
「だから俺は、久我原が好きだって言う、その相手に会いたい」
「――や、だ」
その言葉に、心臓が止まるかと思った。
まさか、相手が鷲津だって知ってるなんてことは――。
「そうか」
真っ先に拒絶の言葉が口をついて出たのを、佐山は腑に落ちた顔で聞いている。
「まだ、『好きな人』なんだろ」
前にもそういう物言いをされていた。
「『彼氏』じゃないんだろ。久我原、相手にされてないんじゃないのか」
「……別に、それでもいいって思ってるから」
痛いところを突かれて、胸がずきっと痛んだ。
相手にされてないのは本当だ。
鷲津は私を好きにならないって、はっきりと言った。
でも、それでもいいって思ってるのも本当だった。いつか振り向かせるつもりだから、今は会ってもらえるだけで幸せだから――そう思ってた、のに。
その間にもバスは空いてる道を順調に走る。
鷲津とは高校前のバス停で待ち合わせをしていた。あと五分もしないうちに着いてしまう。その間に何とかして佐山を追い払わないと――どうやって?
鷲津と約束をしたバス停よりも、前の停留所で降りるのはどうだろう。
その直後に高校まで走り出し、佐山を撒いてしまうのは。
だけど佐山は元サッカー部だ。帰宅部の私じゃ足の速さでは敵わない。
じゃあ、どうしたらいいんだろう。早くしないと着いてしまう。早く、早く何か考えないと本当に――!
「久我原の好きだっていう奴に会いたい」
焦る私を拘束したまま、佐山は怖いくらいの真剣さで言う。
「そいつには言いたいことが山ほどあるんだ。久我原を弄ぶ奴は、俺が許さない」
「そんな人じゃない!」
私が声を上げると、また口を塞がれた。
今度は振りほどこうにもほどけなかった。
「会いたいんだ」
佐山は私の言葉には耳を貸さない。
私のことを好きだと言ったくせに、頑として言い募る。
「なあ、あのクラスの中の誰かなんだろ」
確信的な言い方をするから、余計に怖くなった。
「……佐山、どうして」
彼の手の中で、私はくぐもった声で尋ねる。
「卒業式の日に、久我原と同じようにパーティに来なかった奴。そうなんだろ?」
佐山は、私の目を覗くように言い当ててきた。
やっぱり、既に知ってるのかもしれない。
あの日、何人がクラスのパーティに出席しなかったのかは知らない。
でも私の断り方には隙があった。
『それってクラス全員に声を掛けたの?』
佐山に誘われた時、私は確かそう聞いていたはずだ。
そして全員じゃないと知った途端、約束をすると言って断った。
あれで気づかせてしまったんだろう。私の好きな人が、D組の中にいたことを。
「ずっと見てたんだ、久我原のこと」
佐山は淡々と続けた。
「きれいな、いい子だと思ってた。真面目で、男なんて興味もなさそうで」
私の知らない私について語った。
「だから好きな奴なんていないと思ってた。それどころか、誰にも関心がないようにさえ見えてた。そのくせ人付き合いが悪い訳でもなくて、俺にだって愛想よく接してくれた。そうだったよな?」
前に、鷲津にも言われた。
私は他人に対して無関心そうに見えていたって。
「クラスの女子の中で、久我原が一番大人なんだと思ってた。他の子みたいに感情的になったり、わがままを言ったりしない大人なんだって。だから――」
佐山の手にぐっと力がこもる。
腕に爪が食い込んで、痛くて、怖くてたまらなかった。
「卒業式の日から久我原の態度が変わったことには驚いた。ああいう切り捨て方をするのかって。俺が、切り捨てられる側だったこともショックだった。久我原が元からそういう子だったとはどうしても思えなかった。誰かが久我原を変えたんだとしたら、俺は、そいつが憎たらしくてしょうがない」
脅すような口調にも聞こえた。
私が佐山を筆頭に、鷲津以外のクラスメイトを切り捨てたのは事実だ。
でもそれは私が決めてしたことだ。鷲津のせいじゃない。彼は何も悪くない。
彼が、恋が私を変えたんだとしても。
鷲津を佐山に会わせてはいけない。
バスがもうじきバス停に着いてしまう。
次の停留所を告げるアナウンスに、私は降車ボタンを押してから、苦肉の策で佐山に告げた。
「……電話、させて。『彼』に言ってみるから」
佐山が私から目を逸らさず、手だけを離す。
それで私は鞄から携帯電話を取り出し、非常用と言われていた番号にかけた。
彼が携帯していなければ万事休すだと思っていたけど――繋がった。
『――久我原? どうかしたのか?』
鷲津の声を聞いた時、その優しさに涙が出そうだった。
でも急がなければいけない。
「ごめん、急いで家戻って!」
私は彼に訴える。
『は? どういうことだよ』
「いいから早く――あっ」
携帯電話がもぎ取られ、佐山が自分の耳に当てる。
「お前か? 久我原が今日会う相手って」
鷲津の声は、聞こえない。
当たり前だ。この声は、もう二度と聞きたくなかった声のはずだ。
「何だよ、返事くらいしろよ」
佐山が鼻を鳴らした時、がくんとバスが揺れて停まった。
その隙に、私は佐山の手から携帯電話を奪い返す。
そして後部座席を飛び出すと、バスの前方ドアから外を目指す。
「久我原っ!」
佐山の声が追い駆けてきた。
でも止まるわけがない。こうなったら鷲津を連れて逃げてやる。
開いた乗降口の向こう、鷲津の姿はバス停にあった。
携帯電話を耳に当てたまま、愕然とした顔でそこに立っていた。