ずるいひと(3)
バスを飛び出した私は、鷲津の腕を掴んだ。「鷲津! 逃げよう!」
そして彼を引っ張ろうとしたけど、あんなに華奢な鷲津の身体はびくともしなかった。
彼の顔は愕然と強張っている。その目は私じゃなくて、私の後からバスを降りてきた相手に向けられている。高校時代とは変わっているはずのその顔を、鷲津は一目で判別できたようだった。
三人がいるバス停の脇でバスのドアが閉まり、エンジン音が遠ざかる。
完全に静かになってから、
「……佐山」
携帯電話を下ろした鷲津が、喘ぐように声を発した。
すぐに私の背後でも声がした。
「鷲津? 何で……まさかだろ?」
すぐに私の肩は佐山の手に掴まれ、強引に振り向かされるところだった。
私はその手を振り払い、改めて鷲津の腕を取る。それに縋るように訴えた。
「鷲津、行こう。こんな奴構わなくていいから!」
でも鷲津は何も言わない。
顔から血の気が引いていて、何も言えないみたいだった。
きっと、会いたくない相手だったはずだ。
佐山は鷲津を笑う元クラスメイトのひとりで、彼への復讐の為だけに私を寝取ろうと考えたほどの相手で――今となっては顔も見たくなかった相手のはずだ。
なのにここまで連れてきてしまった、私の罪は重い。
せめて鷲津を連れ去って逃げられたらと思っていたけど、彼の足は竦んだように動かない。
「……冗談だろ?」
佐山は、私と鷲津の顔を何度もしつこく見比べていた。
純粋に驚いている様子だった。なぜここに鷲津がいて、私が鷲津を庇おうとしているのか、まだわかっていないらしい。
その証拠に、少し笑いながら言ってきた。
「久我原……まさか、だよな? お前の好きな奴って……」
私は佐山をきつく睨む。
「そうだよ」
思い知れ。
そして、絶望してどこかへ行ってしまえ。そう願って。
「鷲津が、私の好きな人。だから佐山のことは好きになれない。絶対に」
語気を強めて言い放つ。
言いながらも私は鷲津の腕を引いた。どうにか我に返って、ここから逃げて欲しい。そう思っていた。
じゃないと、佐山が何をするかわからない。
なのに彼はびくともしない。
「鷲津、鷲津ってば!」
私が何度呼びかけても、凍りついたまま佐山だけを凝視している。
朝の張り詰めた空気の中、鷲津は黙って荒い呼吸を繰り返していた。
気持ちを落ち着けようとしているのかもしれない。いきなりこんな事態になって驚いただろう。しかも私が連れてきたんだから、私が疑われて糾弾されたって不思議じゃない。
なのに、黙っている。
佐山はまだ、私と鷲津を見比べていた。信じがたいとでも言いたげに大きく目を見開いていた。口元はまだ微かに笑んでいて、彼の動揺が十分に伝わってきた。
縋るような気持ちで、私は鷲津の手を握る。
酷く冷たい。
きっとその心まで、絶望で凍りついてしまったんだろう。だから身動きもできないのかもしれない。だったら私が、彼を守るしかない。
「……冗談、じゃないのか?」
次に口を開いた時、佐山はそう言ってきた。
相変わらず笑いながら、だけど震える声で続ける。
「久我原、本当に鷲津が好きだっていうのか?」
「そうだよ。悪い?」
むっとしながら問い返す。
すると佐山はゆっくりかぶりを振った。
「おかしいだろ……こいつとは、ずっと同じクラスにいたんだぞ?」
だから何だっていうんだろう。
私が鷲津を好きになったのはあの日、卒業を間近に控えた冬のことだった。
あの瞬間までは、特に親しくもないただのクラスメイトにしか過ぎなかった。
けど、そんなことはどうだっていいはずだ。大事なのはきっかけじゃない。今、鷲津が好きなんだってことだ。
「こいつがどういう奴か、久我原、知ってるだろ?」
佐山は鷲津を顎で指し示してみせた。
高校時代は、少なくとも私の前ではこんな偉そうな態度を見せなかった。
「クラスで浮いてたじゃないか。自分からは全然溶け込もうとしないで、俺たちが声を掛けたって知らないふりだ。学校行事にもろくに協力しないで、足並みが乱れるのはいつもこいつのせいだった。団結力のないクラスだって、こいつひとりのせいで先生から怒られたこともあったよな?」
そう、だっただろうか。
親しくもない一クラスメイトだった頃の鷲津を、私はよく覚えていない。
ただクラスの友人たちが陰口を叩いていたことだけは知っていた。
それを私はあの日まで、何とも思っていなかった。
「いつだってあからさまに俺たちのことを見下してた。そういう奴だよ、鷲津は。他人のすることをいつも鼻で笑って、馬鹿にするような態度を取ってた。せっかく輪に入れるように声掛けてやったのに、誰のことも相手にしなかった。結局、俺まで嫌いになったよ」
佐山は、私の知らない鷲津の姿を語る。
笑われていたのは、鷲津の方じゃなかったんだろうか。
だって彼はそう言ってた。
繋いだ手はまだ冷たい。ぎゅっと握っても、握り返しては来ない。
「久我原だって覚えてるだろ?」
佐山はやけに親しげに、私に向かって続けた。
「鷲津、誰かから手紙もらってたんだぜ。ラブレターっぽいやつ。でもこいつ、それを読みもしないで破り捨てたんだ。送った相手が同じクラスにいたかもしれないのに――薄情で、最低な奴だろ?」
その話は、うっすらと記憶にある。
なぜなら鷲津が手紙を破り捨てる姿が、動画で送られてきたからだ。それはあのクラスの間で回覧されていて、私のところにも誰かが送りつけてきた。興味もないし、即座に消してしまっていたけど――。
あれを送ってきたのは、佐山だったんだろうか。
「久我原は、こいつのどこが好きなんだ?」
蘇る記憶に押し黙っていれば、佐山は尚も畳みかけてくる。
「好きになる理由なんてないだろ? 俺たちだってそうだったのに。何で好きになれるのか教えて欲しいくらいだ。こんな奴――こんな、最低の奴」
冷たい口ぶりでばっさりと切り捨ててくる。
「好きになったって振り向いてもくれないような奴なんだもんな? どんな最低野郎かと思ったけど、鷲津なら納得できるよ。そういう性格してるもんな」
もちろん佐山の言うことなんて聞く耳持つつもりはなかった。
鷲津はそんなに酷い奴じゃない。私の、好きな人だ。
だけど私は、あのクラスのことなんて何も覚えてない。
仲のいい友達の言葉と、卒業間際に落ちた恋以外の思い出はどうでもよくなっていて、既に記憶すら曖昧だった。関心がなかったというのもその通りなのかもしれない。
私は、今の鷲津にしか関心がなかった。
だからあの頃の鷲津がどんな人だったのかもわからない。
あの動画の中で鷲津が、どんな顔で手紙を破り捨てていたのかも知らない。
あの教室の中で『拘束』されていた鷲津の気持ちだって、何も――。
「黙って!」
私が声を荒げた時だった。
「……わかった、わかったから」
それよりも弱々しい声が、すぐ傍で聞こえた。
と同時に、繋いでいた手がするりと、ほどけた。
「もう放っといてくれ、俺のことなんて」
苦しそうな呼吸の下で鷲津が言う。
「思い出したくないんだ、あのクラスのことも、高校時代の話も」
かすれた声なのに、どこか悲鳴のようにも聞こえた。
鷲津が悲鳴を上げている。私のせいで。佐山のせいで。
思わず振り向いた私は、既に踵を返す鷲津を見た。
私が息を呑んだ瞬間に、彼はぱっと駆け出した。こちらを見ないまま、たちまちのうちに離れていく。足音が、背中が遠くなる。
「鷲津っ!」
私は叫んだ。
置いていかれるのは嫌だった。なのに追いかけようとしたら、手首をぐいと引っ張られた。
「追うな!」
佐山まで叫んでいた。
手を振りほどこうともがいても、ちっとも外れない。
「離して! 触らないでよ!」
「あいつはお前を置いて逃げたんだぞ! あんな卑怯な奴、追うなよ!」
その言葉が突き刺さって、とっさに息ができなくなる。
そんなのわかってる。当たり前だ。
鷲津は私を助けてはくれない、連れて行ってはくれない。
だって彼女じゃないから。
恋人じゃないから。
利用されてるだけの存在、だから。
それでも、好きだった。
鷲津がどんな奴だとか、みんなからどう思われてるかとか、私のことをどう思ってるかさえ関係なかった。
鷲津が私を必要としてくれたらそれでよかった。
恋ってそういうものじゃない? 違う?
私を置いて逃げる鷲津は、ちっとも悪くない。ずるくない。当たり前のことをしてるだけだ。
彼の背中は、もう見えなくなっていた。
だけど私は佐山の手を、どうにか振り払った。力任せにほどかせた。
「あんな奴やめろよ!」
佐山は偉そうに言う。
ストーカーのくせに、いやに真剣な眼差しを私に向けてくる。『あんな奴』なんて呼ぶ真っ当な理由がちゃんとあるって、思い込んでいる目だ。
でも、私にはない。
私はそこまで鷲津を知らない。
「やめない!」
言い返した。
「好きなの! 鷲津のことが全部っ!」
今までに知った分だけで、鷲津のことが全部好きって言える。たとえ置いていかれたって、見捨てられたって好き。本当は嫌な奴だとしても好き。みんなから嫌われてたって、私は好き。
ただ、好きになるのが遅過ぎた。
卑怯なのは、ずるいのは私だ。
本当はもっと前に彼に気づいて、彼に手を差し伸べて、佐山や他の人たちに立ち向かうべきだった。
でもあの頃をやり直すことはできないから、だから私は覚悟を決める。
「何もかもひっくるめて、全部好きなんだから! 追いかける覚悟だってできてる!」
置いてかれたって、捨てられたって、嫌いになられたって、追いかけるつもりでいた。
ストーカーなのはむしろ私だ。
佐山よりもずっと、おかしいのは私だ。
ずるくて、おかしくて、変態で、でも狂おしいくらいに鷲津を好きでいるのが、今の私だ。
鷲津が欲しい。私のものにしたい。誰に何を言われたって。
「邪魔しないで!」
私はそう叫ぶと、自由になった手を鞄に突っ込む。
そこから出てきたものを佐山に突きつけてやろうと思っていた。カッターがあるはずだ――そう考えていた私の手が、だけど真っ先に掴んだのは違うものだった。
防犯ブザーだった。
「追い駆けてきたら鳴らすから!」
自棄になってブザーを突きつけると、それでも佐山は一瞬だけ怯んだ。
「久我原……!?」
自分が鳴らされる立場になるなんて、思ってもみなかったのかもしれない。
その隙を突いて、私もアスファルトを蹴る。
鷲津の去っていった方向めがけ、とにかく走った。追いかける覚悟はできていた。
佐山はもう、追い駆けてはこなかった。