ずるいひと(1)
鷲津が、よく電話を掛けてくれるようになった。ホテルに泊まった週末から一週間も経っていない金曜日、なのに今夜でもう三度目の電話だ。
掛けてくるのはやっぱり家の電話からだった。
『別に用事はないけど』
電話の度に鷲津はそう言う。
それが私には嬉しくて、ついにやにやしてしまう。
「私の声が聞きたくなったとか?」
『まあ……そうかもな』
曖昧に濁した言葉の後で、少しだけ笑うのが聞こえた。
『どうせお前の他に話し相手なんていないしな。話せる相手がいるのは貴重だと思ってるよ』
確実に、彼の態度は変わっていた。
ふたりで一夜を過ごしたことが影響しているんだろうか。
それとも、もっと別の理由だろうか。
どちらにしてもうれしかった。彼の秘密は教えてもらえなかったけど、今となってはそれでもよかった。
私のことを気に掛けてくれている、話したいと思ってもらえている。
今はそれだけで幸せだった。
「私でよければ、いつでも相手になってあげる」
『お前、やっぱり物好きだよな』
電話越しに聞く鷲津の声は、会って話す時よりも柔らかい。
その向こうは至って静かで、彼の声以外に物音一つしなかった。
『他に話せる友達もいない奴なんて普通引くだろ?』
「引かないよ。やきもち焼かずに済むから好都合なくらい」
『……本当に、変な奴』
「そうかもね」
私が笑うと、鷲津もつられていた。
こうやってお互いに笑い合うようになったのも、ここ最近のことだ。
私と鷲津はこれまでになく穏やかな関係を築きつつあった。
他愛ない会話を交わしては笑ったり、ふざけたり、時には真面目な話だってできるような関係だ。
今まではそういうものすら叶わなかったから、ここまで辿り着けたことには満足している。
もっとも満足してるからといって、鷲津に会いたい気持ちや触れたい欲求が消え失せてしまうことは、この期に及んでもあり得ない。電話だけじゃ物足りなくなるし、もっと近くにいたい。
「ねえ」
私はベッドに寝そべって、目を閉じながら告げてみる。
彼から電話が来る時間帯はいつもまちまちで、今夜は既に十時を過ぎていた。私も自分の部屋に引っ込んで、あとは寝るだけという頃合いだった。
「次はいつ会ってくれるの?」
そう尋ねると、鷲津は決まって呆れてみせる。
『この間会ったばかりだろ。もう会う気でいるのか?』
「私は毎週、毎日だっていいくらいだけど」
恋する女の子なんてそんなものだ。
でも私の主張は、彼にはなかなか理解できないらしい。
『お前ってさ、本当に……』
家の電話だからか、単に言いにくかったからか、鷲津はそこで言葉を濁す。
『時々、本気で身体目当てみたいな言い方するよな』
その勘繰り方がおかしくて、私は笑いを噛み殺すのに必死だった。
散々言ってるのに。身体だけじゃないよって。
「違うよ。身体だけじゃなくて、鷲津全部が目当てなの」
どうにか堪えた私は、安心させるように告げた。
『どうだかな……』
疑わしげにしながらも、鷲津の方が笑っている。
何だかんだで、実は鷲津もわかってるんじゃないかって思えてくる。私の気持ちを疑う必要ないってこと、ちゃんと本気で、真剣なんだってことも。
『どっちにしたって今週末は無理だ。親がいるから』
「外で会ってもいいよ」
『それも無理だ。この間のでもう金がない、月末まで待ってくれ』
「今度は私が持つから」
『嫌だ。最低限、割り勘じゃないと』
鷲津は変なところにだけ生真面目だ。
いろいろ奢ってもらってるから、たまに私が奢るのだってありだと思う。こっちも裕福な学生生活を送ってる訳じゃないけどね。鷲津と会えるならそのくらいはする。何でもする。
『都合がついたらまた連絡する』
宥めるような口調で彼は言い、すぐに付け加えてきた。
『今日は話がしたくて電話しただけだ。もうすぐ切るから』
言葉通り、用事のない時の電話は短く、ものの五分くらいで終わってしまう。
それも家の電話だから、なのかもしれない。
「私から掛けようか?」
気を遣ってみても、返ってくるのは控えめな遠慮だった。
『いや、いい。電話を占拠すると親がうるさい』
その言葉に私は驚いた。
鷲津のお父さんかお母さんか、あるいは両方が電話の向こうにいるらしい。その割にとても静かだけど――家の電話ならこんなものだろうか。
「携帯に掛けるのは?」
そう尋ねてみたら、鷲津は困ったように応じる。
『言ったろ、あれは非常用。俺だって自由に使えたらとは思うけど……』
「そっか、ごめん。わがまま言って」
どうやら彼にとって、携帯電話は自由に使えないもののようだ。
鷲津との五分ほどの通話を終えると、どうしようもなく寂しくなる。
次の約束ができないこともそうだけど――鷲津の話を聞く度、彼のことを知る度に、寂しい気持ちが募った。
彼の抱えているものはとても深く、彼のいる場所はとても窮屈で、苦しそうだ。
私ひとりで鷲津を幸せにすることができるだろうか。そんなふうにさえ思えてきて、切なくなる。
もちろん、途方もないからといって諦める気にはなれない。すぐには無理でも、いつか全てを手に入れてみせる。
彼の抱えている過去や苦しみや寂しさごと全部、彼を私のものにする。
ここまで来て諦められるはずがなかった。こんなに距離が近づいたなら、尚のことだ。
次の電話は、週が明けた直後の月曜日に掛かってきた。
『今週末なら会える』
愛想はないままの、だけど穏やかな声で鷲津が言う。
待ってましたとばかりに私は笑った。
「じゃあ、会って。何時間でも付き合うから」
『そこまでしなくてもいい。日曜しか空いてないんだ』
「なあんだ……会ってもらえるだけいいけど」
今回はお泊まりなしとわかると、多少はがっかりした。
それが伝わったのか、鷲津にはやっぱり呆れられた。
『お前って、そういうところの感覚がおかしいよな』
今度は笑いを含まない、心底からの呆れた声だった。
『あんまり外泊してると、親に何か言われるだろ。お前、一応女の子なんだし』
「ううん、別に? 友達の家に泊まるって言うから」
口実だったらいくらでもある。
こう見えても誤魔化すのは得意だ、相手が親でも、友達でも、いつだって大なり小なり嘘をついてきた。
鷲津にだけはそんなこと、絶対したくないけど。
『とにかく日曜だけだからな』
彼が溜息をつくのがわかった。
『また俺の家だけど、いいか』
「もちろんいいよ。何時に行ってもいい?」
『何時でもいい。夜明け前とかでなければ』
一度はそう言ってから、ああ、と何か思いついたようなそぶりで続けてくる。
『もしよかったら、迎えに行くけど』
「……え?」
最近の鷲津は、私をびっくりさせることも多い。
以前だったら言わなかったようなことでも口にする。それも平然と。
「迎えにって、どこに?」
思わず問い返すと、彼はもごもごと応じた。
『どこって……お前の家まで行くか?』
「鷲津、私の家を知ってるの?」
ちょっとどきっとしたけど、それは即座に否定された。
『知らない。でも教えてくれれば迎えに行く』
「あ、そういうことね」
そりゃそうだよね。鷲津が私の家を知っててくれてるなんてことはあり得ない。
佐山じゃあるまいし。
知ってて欲しい人に知られてなくて、どうでもいい人に知られてるって状況も厄介だと思うけど――あれきり佐山とは顔を合わせてない。
かと言ってあの日の記憶をなかったことにできるほど楽観的でもなかった。
次に見かけたら警察呼ぶ。大学で使う製図用のカッターをいつでも取り出せるよう、鞄の中に忍ばせてある。それと防犯ブザーも持ち歩いていた。
でも、鷲津といる時はあんな奴のこと思い出したくもない。
だから今は遠くに放り投げておく。
「気持ちはすごくうれしいんだけど」
図々しいと言われる私も、その申し出は遠慮した。
「鷲津の家まで行くのに、一旦うちまで来てもらうのって効率悪くない?」
結構な手間だと思う。高校時代だってバス通だった私は、高校近くの彼の家へ行くにもバスを利用していた。そういう手間だってある。
「私、バスで行くつもりだから。鷲津にまで往復運賃出させるの、悪いよ」
そう告げると、彼も腑に落ちた様子だった。
『それはそうだな……。なら、バス停まで迎えに行く』
「い、いいの?」
どうしちゃったんだろう。鷲津、すごく優しい。
うれしいけど、あまりに予想していなかったことで、さすがの私も戸惑った。
『別にいい。どうせ、暇だし』
この間まで、一緒に歩いてるところを見られたくないとか言っていた人とは思えない。
鷲津の中でどんな心境の変化があったんだろう。
そういう動きを覗いてみたい。次に会った時はちゃんと中まで。
「鷲津、最近優しいね」
私は感動のあまり息をつく。
幸せすぎて胸がいっぱいになっていた。
『そうか? 大したことじゃないだろ』
「大したことだよ。すっごく嬉しい」
『安い女だな、こんなので喜べるなんて』
言葉のきつさは変わってないけど、そこは気にならない。
いいんだ。彼が私と会いたがってて、しかもバス停まで迎えに来てくれるって言うんだから、それだけで十分だ。
『それで、どこのバス停まで行けばいい?』
「高校前のバス停、って言ってわかる? いつもそこで乗り降りしてるの」
『わかった。時間は?』
「ええと、じゃあ、この間と一緒で八時過ぎ。そっちに着くのは八時十分くらいだと思う」
説明しながら、私はすっかり浮かれていた。
また鷲津と会える。
しかも、今までになく優しい彼と。
次の日曜日はどんな時間を過ごせるんだろう。想像するだけで胸がときめいた。
『遅れてくるなよ』
釘を刺されて、すかさず私も言い返す。
「鷲津との約束なのに、遅刻なんてするわけないよ」
『本当、変な奴だよな』
電話の向こうで彼は笑っていた。
心底、楽しそうに。