小さな君へ(7)
有言実行の人なのか、それとも本当に虚勢を張ってるだけなのか。ともかくその夜、鷲津は何もしないと言い張った。
「だからダブルでいいって言ったのに」
備えつけの浴衣に着替えた私は、早速ベッドに潜り込む。
先に寝ていた鷲津にぴったりくっつくと、彼が全身を硬くした。ぐるりと背中を向けられた。
「一緒に寝るとは言ってないぞ。入ってくるなよ」
「ひとりで寝るなんて寂しいじゃない。だめ?」
既に照明を落としているから鷲津の顔はよく見えない。
だけど溜息が聞こえたから、彼の内心はうっすらと読めた。
脚を絡めてみても拒まれなかった。
「お前、普段はどうやって寝てるんだ」
呆れた口調で彼が聞いてくる。
「どうって、パジャマで」
「そうじゃなくて、ひとりで寝ないのか」
「ひとりで寝てるよ。子供じゃないんだから」
軽く笑い飛ばした私は、背後から手を回して彼の胸元に触れてみた。
彼もホテルの浴衣を着ていて、手のひらに合わせ目の感触がわかる。そこを開いてはだけさせるのも簡単だけど、そうはしにくい雰囲気があった。
「じゃあひとりで寝ろよ。せっかくツインにしたのにもったいないだろ」
鷲津はそういう言い方をする。
端から私と寝ることなんて想定してなかったみたいな物言いだ。
「ダブルにしとけばよかったのにね」
「しつこい。とにかく、何にもするなよ。俺も何にもしないからな」
頑固に繰り返す彼は、やっぱり意地になってるようだった。
欲求に負けたところで、鷲津に幻滅するなんてこともないのに。むしろ大歓迎なのに。
ふたりでひとつのベッドにいると、ふたりぶんの体温で布団の中が暖まる。
お風呂に入った後だから余計に心地良かった。
こうして触れ合っているだけでも幸せ。でも、物足りなさも多少はある。
「したいならいいよ、しても」
私は少し身を起こし、薄闇で彼の顔を探り当てて触れるだけのキスをする。
唇はいつもみたいに乾いていなくて、柔らかい。
だけど鷲津は動かない。キスを返してきたりもしない。
「しない」
「どうして?」
「これで手を出したら、この先ずっと言われそうだから」
「言わないのに。私はしてくれた方がうれしいよ」
挑発しつつもわかっていた。
今夜の彼は、本当に何もしてこないだろう。
私も無理矢理襲ってしまおうとか、そんなふうには思わなかった。彼が何もしたくないならそれでいい。鷲津の望むようにしてあげたい。
「男の意地ってやつだよ」
鷲津の呟くような声がする。どことなく投げやりで、他の言い訳が思いつかずとっさに思い浮かんだような言葉だった。
「ふうん?」
私が笑うと、拗ねたように言い添えた。
「こういう時、女は譲るものだろ? こっちにはメンツがあるんだから」
「そうかもね。じゃあ鷲津を立てといてあげる」
「お前が言うといまいち信用ならないけどな」
「あ、酷い。そろそろ信じてくれたっていいのに」
ちょっとむくれてみせたら、鷲津は声を立てて笑う。
「久我原の場合、日頃の行いが行いだからだろ」
遠慮のない言葉と明るい笑い声。
自然に笑う彼を目の当たりにして、私は少し驚いていた。
部屋が暗いからなんだろうか。それとも、吹っ切れたからだろうか。吹っ切れたのではなくても、とりあえず吹っ切ろうと思えるようになったから、かもしれない。
でも、今夜の鷲津は今までにないくらいよく笑う。
私たちの間にある空気も、いつになく穏やかだった。
まるで長い付き合い同士みたいに気兼ねなく脚を絡めて、キスをして、言葉を交わし合い、笑い合う。
直に肌を重ねるよりずっと甘い時間を過ごしているように思えた。
お蔭で私も、今夜は鷲津をとても近くに感じている。
「何もしないっていうのもいいかもね」
気がつけば、そう口にしていた。
薄闇の中で鷲津が頷いたようだ。
「誰かが傍にいるっていいよな。害意のない人間限定だけど」
「……そこは、私がいるからいいって言って欲しいな」
彼の言い方だと私じゃなくて、他の人でもいいみたいだ。
今度は本気でむくれた。すると鷲津はわざわざ身体の向きを変え、宥めるみたいに肩を抱いてくれる。
「久我原以外の人間は想定してなかった。怒るなよ」
「女の子が隣で寝てるのに、他の人の可能性まで言及するのはどうなの」
「ごめん、言い方が悪かったな」
私の肩を両腕で包むと、そっと抱き寄せてくれた。
今夜の鷲津は何もかもが優しい。腕を滑り込ませる時は多少ぎこちなかったけど、私の身体を揺らさないように気を遣ってくれたのもわかった。
胸がどきどきする。
「お前って、案外小さいよな」
頭上で鷲津の声がする。
抱き締められているので顔が上げられない。彼の鎖骨辺りに頬をくっつけ、私はくぐもった声で応じた。
「そうだよ。背の順で並ぶといっつも前の方」
「でも普段はそんな感じしないよな。態度がでかいからか、神経が図太いからか」
「鷲津、遠慮なさすぎじゃない?」
わざと怒ったように言い返しつつ、こういう軽口も嫌いじゃなかった。
クラスメイトでいた頃はこんなやり取りさえしなかった。私が想いを告げて、鷲津と会うようになってからもずっとだ。
本当はもっとたくさん話をして、冗談を言い合ったりじゃれ合ったりしてみたかった。
そんな願いまで今夜、叶ってしまった。
「初めの頃は怖かったよ、久我原が」
独り言みたいに彼は続ける。
「何考えてるのかわからなかった。いつか手のひら返されるんじゃないかと思った。どこまで踏み込んでいいのかすら読めなくて、気がつけばされるがままだった……それは今でもそうか」
自嘲しているようで、どこか柔らかい呟きだった。
私はそれを、目を閉じて聞いている。
「今でも怖くないとは言わないけどな。でも今は少し、お前のことがわかるような気もする」
鷲津は言う。
私のことを、既に知っているみたいに言う。
実を言えば私も、自分の話をするのは得意じゃない。
だってそんなに面白い人間でもないから。嫌ではないけど、特に話すようなこともないと思っている。だから鷲津にだって、自分の気持ち以外は打ち明けたことがほとんどなかった。
それでも私を知ってくれたんだろうか。
わかってくれたんだろうか。
「ね、鷲津」
彼の腕の中から囁きかけてみた。
「私のこと、好きになってくれない?」
何度も告げた言葉だ。他のどんなことよりも、今はそれが一番欲しい。
彼が欲しい。
鷲津の、心まで全部欲しい。
すぐには叶わないこともわかっている。鷲津の心を占めているものが何かはわからない、でもそれが大きすぎて、私に話すことさえはばかられるほど強大で、私の入る余地がないんだってことも。でも、いつか――。
鷲津は一言も答えなかった。代わりに私をぎゅっと抱き締めてくれた。
細いはずの腕の力強さに、安らかな気持ちを覚えていた。
翌朝まで、私たちは同じベッドにいた。
でも本当に何もしなかった。
鷲津は寝不足のようでかなり眠そうな顔をしていけど、気づかないふりをしておく。
ホテルをチェックアウトした後、とりあえずふたりで駅前まで戻った。
日曜日の午前中とあってどこもかしこも人出が多い。ホテルの部屋とはうってかわった騒々しさの中、私と鷲津は別れの挨拶をした。
「結局、無駄足にさせて悪いな」
鷲津の申し訳なさそうな言葉に、私はかぶりを振る。
「有意義な時間だったよ。一緒にお風呂にも入れたし」
「そういうことを外で言うなよ」
彼は顔をしかめた後、ほんの少しだけ笑ってみせた。
「でもおかげで気が楽になった。何とかなりそうだ、ありがとう」
お礼を言われるとは意外だった。
息を呑んだ私に気づいたか、鷲津も気まずげにする。
「まあ……お前に黙ってるのは、やっぱりフェアじゃないのかもしれないけどな。俺の問題を、お前にまで背負い込ませるのも嫌だったから」
「気にしないで。鷲津の決めた通りにすればいいと思う」
私もそう言えた。
彼の中で一つの答えが見つかったなら、昨晩のことは無駄ではないはずだった。
彼の心はまだ見えないけど、私にはわからないままだけど、それでも不安ばかりじゃないのが救いだ。私たちは確かに変わり始めている。
「……ああ」
それで鷲津は眩しそうに目を細めてみせた。
朝の陽射しが本当に眩しかったのかもしれないけど、その表情はいいなと思った。好きだ。
「また、誘ってもいいか」
いつもなら言わないようなことを、彼は遠慮がちに切り出した。
「うん。いつでも空けとくから」
私も素直になって答える。
すると鷲津はまた笑って、それからもごもごと言い添える。
「だったらこれ、もらってくれ」
彼の骨張った手が差し出してきたのは、ホテルの部屋に置いてあったメモ用紙の切れ端だ。
そこにはボールペンの走り書きで、ゼロから始まる十一桁の数字が記されていた。何の数字か、すぐにわかった。
「もらっていいの?」
受け取ってから尋ねた私に、彼はちょっとだけ口ごもる。
「ああ……うん。ただ、条件がある」
「どういうこと?」
「この番号は当面、非常用だと思ってくれ。基本的には俺から掛ける。お前からは、平日の日中ならいいけど、夜は掛けないで欲しい。あと土日も、俺と会ってる時以外は困る」
変な条件だと思った。それだとまるで、家にいる時は掛けるなと言ってるみたいだ。
そういうこと、なんだろうか。
「いつか、普通に掛けれるようにするから」
鷲津は言いにくそうにしつつ、私に笑ってくれる。
だから私もそのメモを、宝物のように鞄にしまった。
「ありがとう。鷲津の気持ちがすごくうれしいよ」
「そんなんで喜ぶなんて、つくづく変な奴だよな」
「好きな人からもらったものだからね」
私が笑い返すと、彼は珍しく照れたようだ。目を逸らした表情が少しだけ、はにかんでいた。
その後は、お互いに手を挙げて別れた。
別れた直後、私は一度だけ振り向いた。
遠ざかり、小さくなっていく鷲津の背中をしばらく目で追い駆ける。すぐに雑踏に呑まれて見えなくなったけど、寂しくはなかった。
必ずまた会える。
また会いたいと思ってもらえている。
その確信が、どんな愛の言葉よりも私を支えてくれていた。