小さな君へ(6)
「お前って、やっぱり変な奴だよな」シャワーカーテンを閉めた狭いバスルームに、鷲津のぼやき声が響く。
「そう? 名案だと思ったんだけど」
備えつけのボディソープを泡立てる私を、バスタブに佇む鷲津が睨んできた。
「何が名案だよ」
「お風呂って気分転換には一番いいじゃない」
「だからってふたりして入ることないだろ」
「いいからじっとして、洗いにくいよ」
ホテルのボディソープは家で使うものよりもハーブ的な香りがする。私は仕立てた泡を胸に塗ると、それで鷲津の身体をゆっくりと洗ってあげた。
「……お前、そういうのどこで覚えてくるんだよ」
「ネットで見たの」
「絶対ネットさせちゃいけないタイプの人間だな」
「なんで? 気持ちよくない?」
背中からお尻、上へ戻って胸やお腹を丁寧に洗う。その下も、と少し身をかがめたらあわてたように引き離された。
「い、いいって。その辺は自分で洗う!」
「ここからが楽しいのに……」
拒絶されて私はむくれた。喜んでくれるものとばかり思っていたのに。
それならと逆に提案してみる。
「じゃあその代わり、私を洗ってくれない?」
そしてボディソープを差し出せば、鷲津は呆れた顔をしながらも手でそれを泡立てた。そして両手で私の身体を大雑把に洗い始める。
「もっと揉んだり撫でたりしてもいいんだよ」
思わずそう言いたくなるくらい、極力私に触れまいとするような手つきだった。
「洗うだけなのにそんな必要ないだろ、流すぞ」
そして有無を言わさずシャワーを出し始めると、私たちを覆っていた白い泡はあっという間にバスタブの底へと流れ落ちていく。この状況を楽しもうという気は一切ない潔さに、私はむしろ敬服した。
「今日の鷲津は本当に禁欲主義だね」
「主義とか、そんな難しい話じゃない」
排水口周りに溜まった泡を押し出そうと、鷲津はシャワーヘッドをそちらへ向ける。その口元には苦笑いが浮かんでいた。
「ただ、今日はそういう気分じゃないんだよ」
泡を完全に流した後、私たちはそのままバスタブにお湯を張った。
ホテルのバスタブは小さい上に浅い。
だから私たちはその中で、ほとんど折り重なって浸かっていた。
鷲津は足を伸ばして座り、私は彼の上にうつ伏せになるようにして上半身を重ねた。それでも窮屈で私は膝を折らなきゃいけなかったし、鷲津の爪先はお湯からはみ出ている。だけど重ねた身体の温度とお湯の温度、どちらも肌に心地いい。
「なんか、落ち着かない……」
私の下敷きになった鷲津は、しきりにもぞもぞ動いては水面にさざ波を立てた。
だけど窮屈な思いをすること自体は構わないらしい。私を追い出そうとはしない。
「文句言っても、結局付き合ってくれるところが好きだよ」
彼の胸にそっと頭を預ける。
濡れた肌を流れる水滴が、私の髪にも伝い落ちてきた。
「行き詰まってたのは事実だからな。ここまですることあるかとは思うけど」
鷲津はまだぼやいている。
なのに私を押し退けず圧しかかられるままでいるから、満更でもないんだろう。
一緒のお風呂を提案した当初、鷲津はあからさまに嫌がった。女の子どころか男同士でも嫌だと訳のわからない主張までされた。
そんな彼の服を脱がすのは少々骨が折れたけど、結局『打ち明け話』が行き詰まった以上、他にできることもないからと付き合う気になってくれたようだ。それでもずっとぼやいているけど――半分は照れ隠しなんだろうと思う。かわいい。
「こうしてるのも悪くないと思わない?」
私はお湯の中に手を入れ、彼のほっそりとした脇腹から腰骨にかけてを撫でた。
たちまち彼が身を捩る。
「止めろ、振り落とすぞ」
「無理だよ、こんなに狭いバスタブで」
「床の方に落っことしてやる」
「だめ。シャワーカーテンの意味なくなっちゃうよ」
やり取りのおかしさに、私は喉を鳴らして笑った。
こちらを見上げる鷲津が恨めしそうにしてみせる。
「いつもこうだよな。気づけばお前のペースに乗せられてる。こっちの都合なんてお構いなしだし」
「今回は構ってあげたつもりなんだけどな」
言ってから、水滴したたる喉元に軽く噛みついた。
彼がまた、びくりとする。
「構って……ないだろ。俺は話があるって言って、それで今日だって誘ったのに」
「でもすぐには話せないことなんでしょう? 話そうとするだけでも一晩中掛かっちゃうかもしれないんでしょう?」
そこまでして打ち明けられる話が一体何なのか、私にはまだわからない。
だけど鷲津が話したいと思っているなら、せめて話しやすい環境にしてあげたかった。
その為の、まずはリラックスタイムだ。
「お風呂でゆっくりしたら気持ちもほぐれて、するっと言い出せるようになるかもだよ」
至極正論と思える私の意見も、鷲津にとっては呆れたものでしかないらしい。
ふんと鼻を鳴らされた。
「ゆっくりなんてできるか。下になってる俺の気も知らずによく言うよな」
「重い? 逆になろうか?」
私が尋ねれば、それでもぎくしゃくかぶりを振る。
「重くはない。そういう問題じゃない」
「じゃあ嫌だった? でも身体は正直って感じだよね?」
「……うるさいな」
鷲津がわずかに腰を引き、直後に頬を赤らめる。
恥ずかしそうにしながらも鋭い視線を向けてきた。
「お前、よくためらいもせずそういうこと言うよな」
「そういうこと、って?」
わかっててわざと聞いてみる。
彼の目つきが余計に険しくなる。
「だから……そういう、品のないこと言うなって話だよ」
「品があるように言ったつもりなんだけど」
「ない。全然ない」
ばっさりと切り捨てた彼は、意外にもすぐに笑ってみせた。
どちらかと言うと呆れたような、嘲りにも近い笑みだった。
「久我原は悩みとかなさそうだよな」
瞳が急に冷静になる。
私を見る眼に熱がない。それでいてやけに真剣だった。
私は彼の顎の辺りに頬をすり寄せ、その視線から逃れる。
「そんなことないよ。私にだって悩みくらいあるよ」
「へえ。例えば?」
例えば、好きな人が私を見てくれないこととか。
全く見てくれてないわけじゃない。だけど今のところ、鷲津の心に巣食っている何かに私は負けているらしい。
多分、今夜打ち明けようとしてくれているその内容に。
でもそれを正直に言えば、また鷲津を葛藤の中に追い込んでしまいかねない。
そう思い、違うことを答えた。
「結構小さな悩みが多いかな」
そういう悩みも、ないわけじゃない。
「この間見かけた可愛いワンピースを買おうかどうかとか、携帯の機種変しようかどうかとか、あんまり仲良くない子からの連絡は返事にいつも悩むし、これ以上食べたら太るなって時に、でもまだもうちょい食べたいなって悩むのもしょっちゅうだよ」
思いつく限りを並べ立ててみる。
これは私だけじゃなく、いろんな人が抱えてそうなささやかな悩み事だ。ちょっと悩んだらすぐに忘れてしまいそうな大したことのない内容ばかりだろう。
鷲津もそう思ったんだろうか。窺い見れば、腑に落ちたような顔をしていた。
「そんなのは悩みのうちに入らないだろ」
「かもね。すごく悩んでる人に比べたら」
「やっぱりないんじゃないか、悩みなんて」
あるよ、と声には出さず答える。
それからふと、佐山の顔が脳裏を掠めた。
慌てて唇を噛み、この間の記憶ごと追い払う。鷲津といる時に思い出したい悩みじゃなかった。
「あっても、どうでもよくなっちゃうんだよ」
見上げた頬にひとつキスをする。
それから私は、努めて明るく告げた。
「好きな人と一緒にいたら、辛いこととか嫌なこととかどうでもよくなっちゃうの。悩み事も、鷲津といる間は簡単に追い払えるし、幸せな気持ちになれるから他のことなんて二の次、三の次になっちゃう。そういうのってあるでしょう?」
鷲津には、ないかもしれないけど。
でも私にはある。鷲津と一緒にいるだけで幸せな気持ちになれた。たとえ彼女にしてもらえなくても、好きだって思ってもらえなくても、ただ利用されてるだけなんだとしても、幸せだった。
他のことなんて本当にどうでもよくなってしまうくらい、鷲津が好きだった。
この想いの前では何だって些細なことだ。
「へえ」
馬鹿にするかと思ったのに、鷲津は意外にも感心するように唸った。
「そういうの、わからなくもない」
「え?」
その上理解しているみたいな口ぶりをされた。
私は戸惑い、思わず彼の顔をじっと見る。
鷲津も私を見ている。
さっきまでと同じように、熱のない、だけど真剣な目つきをしていた。
「お前と全く同じだとは言わないけどな」
彼が唇を動かすと、顎の先から雫が落ちた。
バスタブに落ちてぴちゃんと水音を立てる。
長い間お湯の中にいるせいで、身体が温まってきた。そろそろ出ないとのぼせるだろうか。でも、もう少しこうしていたい。
「わかる、の? 鷲津にも」
私は彼の表情から、その真意を探そうと試みた。でも難しかった。
こうしてお湯の中で肌を重ねていても、彼は私に触れようとしない。本当に何もしないつもりでいるのかもしれない。
私に、話したいことがあるからだろうか。
「どうでもいいって思えるようになれたら、一番いいんだろうな」
鷲津は淡々と続けた。
「いろいろあっても、そういうこと全部吹っ切れたら、苦しくもないのかもしれない。俺は案外、吹っ切れるのかもしれないって、今思った」
吹っ切りたいのはきっと、彼を捕らえてしまっている何かについて、なんだろう。
それが彼にとって『どうでもいい』ことになってしまったら――私を、一番に見てもらえるようになるだろうか。
「私に話をしたら、どうでもいいって思えるようになる?」
尋ねてみた。
すると彼は少し考えてみせてから、重々しく答える。
「……ならない、かもしれない」
「そう」
「ただ、わざわざお前を巻き込むことじゃないって気はしてきた」
それからほんのちょっとだけ、口調を軽くして続けた。
「今日、誘っといて何だけど。お前が知らないんなら知らないままでいてもらって、俺が一人で吹っ切った方がいいのかもしれないって」
思わせぶりな物言いだった。
だけど言葉が温かいようにも感じられて、彼の表情もさっきまでよりずっと穏やかになったようだ。私までほっと気分が安らぐ。
「鷲津がそう思うなら、いいんじゃない」
それが全て本音ではなかったけど、私はそんなふうに告げた。
ただ、嘘ではなかった。
「私は鷲津の教えてくれることだけ受け止めるから。鷲津が決めたことなら、それでいいと思う」
鷲津が抱えているものが、いつかちゃんと『どうでもいいこと』になるのなら。
人間は誰しも忘れることができる。私の考え方をわからなくもないと言った鷲津だってそうだろう。だったら鷲津も、いつかは今の悩み苦しみをきれいに忘れたり、どうでもいいって思えるようになるだろう。
それなら、無理に話してくれなくてもいい。
「そうか、じゃあ……」
彼の手がふと、私の髪を撫でる。
優しい手つきはほとんど無意識のものだったようだ。一往復半撫でた後で、はっとしたように手を止める。
それから、声も穏やかに言った。
「やっぱり、お前には言わない。俺ひとりで、どうでもいいことにしようと思う。完全に吹っ切れるまで時間は掛かるだろうけど、何とかしてみせる」
「うん」
それでいい。私は頷く。
知りたいと思わなかったわけじゃない。
本音を言えば鷲津のことなら何だって知りたい。知らないことなんてあって欲しくない。
でも鷲津がそれを言う必要がないと思ってるなら、その気持ちはきっと正しいはずだ。私は鷲津を信じていたい。
吹っ切ってくれたら、私のことだけ見てくれるようになるだろうか。なって欲しい。
「悪かったな」
珍しく、申し訳なさそうに鷲津は言った。
「誘っといて肝心の話をしないって……時間の無駄だったよな」
「ううん、楽しいからいいよ」
これは心からの本音だ。
鷲津と一緒のお泊まりなんて、ものすごく楽しい。
「今から帰ってもいいんだぞ」
「やだ。泊まらせてよ、鷲津だって泊まっていくんでしょう?」
急にいい気持ちになって、私は彼の首に腕を絡めた。
すぐに押し退けられてしまったけど。
「泊まってく。でも、何もしないからな」
「えー、どうして?」
「宣言したからには翻したら負けだろ。今日は絶対何もしない」
負けも何もないと思うけど、鷲津の意志は固いようだった。
「私がしたいって言っても?」
「だめだ」
「実力行使に出ても落ちないって言える?」
「わあっ、こら触るな! 振り落とすぞ!」
大きな水しぶきが上がり、シャワーカーテンを盛大に濡らした。
私と鷲津も頭からお湯をかぶる羽目になり、お互い目をこすり、濡れた髪をかき上げながら顔を見合わせた。
「久我原のせいだからな」
「やったのは鷲津じゃない」
「お前が変なことするからだ!」
そう言い放った後、なぜか鷲津が笑い出した。
急に愉快そうにげらげらと――こんなふうに笑う鷲津を、私は今夜、初めて見た。