小さな君へ(5)
やがてぎくしゃくと視線が動く。鷲津が私の方を見て、改めて、しっかりと目が合った。
鷲津の瞳に、部屋のオレンジ色の光が映り込んでいる。
彼は一度だけ瞬きをしてから、ぎこちなく唇を動かした。
「運命かもしれないって、思ったんだ」
光が揺れる瞳で私を見つめ、そんなふうに切り出した。
何の話かと思った。
それ以上に、彼がそんな単語を口にするとは思わなかった。
運命って私が言ったら、鷲津はきっと鼻で笑う。そんなイメージがある。
「運命って、私とのこと?」
期待を込めて聞き返した。
すると鷲津は慎重に顎を引く。
「おかしな言い方だろうけど……久我原があの日の放課後、教室に来た時。運命みたいだって感じていた」
放課後、教室――私が鷲津を見かけて、初めて声を掛けた日の話だろうか。
あの日のことが、運命?
確かにそうだ。
少なくとも私にとってはそうだった。
運命みたいに鷲津に惹かれ、恋に落ちた瞬間だった。
「鷲津でもそういうこと言うんだね」
驚きとおかしさとを同時に味わいながら、私は率直に告げた。
途端に鷲津は顔を顰める。
「悪かったな」
「ごめん。意外とロマンチストだなあと思って」
「ロマンはないだろ。むしろホラーかオカルトだ」
彼の口ぶりが更におかしい。
運命をそんなふうに評するのも、ある意味彼らしいだろうけど。
「だって、私が告白した日の話でしょう?」
「『告白』なんて可愛いものじゃない。襲われたんだってこの間も言ったろ」
「じゃあそういうことでもいいけど」
襲いかかったのは事実だからそこはいい。
それでも、私は上機嫌で続ける。
「とにかく、あの時のことを運命だと思ってくれるならうれしいな」
何だかうっとりしてしまう。
まさか鷲津とこんなに甘い話ができるとは思わなかった。
運命って言葉には揺るがしがたい力がある。誰もそれには逆らえないし、抗えない。そんな強い言葉を口説き文句にされて、落ちない子はそうそういないだろう。
と思ったのに、当の鷲津は思いのほか冷ややかだった。
「お前、何か誤解してないか」
「してないよ、多分」
「運命っていうのは、お前があの日、教室に来たことだぞ」
「うん。だから、私たちの運命ってことじゃないの? 結ばれるのも当然っていう……」
浮かれ気分で言いかけた台詞は、彼の溜息に遮られる。
「久我原の、そういう軽さだけは受けつけないんだよな」
「え?」
「すぐ恋愛に結びつけようとするだろ。訳がわからない。いいから黙って聞けよ」
そんなの当然だ。恋愛なんだから、恋してるんだから。
私は少しむくれたけど、浮ついてたのも事実だったから、とりあえず口をつぐんだ。
鷲津は尚も続ける。
「運命っていうのはそういう甘っちょろいものじゃないんだ」
私の気分を冷ますように釘を刺してから、こちらをおずおずと見る。
「もっと何て言うか……怖いなと思った。あの時」
その瞳が怯えるように震えた、ような気がした。
「ばれてるのかと思った。何でもお見通しなのかって。あの時お前がやけに自信たっぷりで、俺を試すようなことばかり言ってきたから余計に思った。久我原は、全部知ってるんじゃないかって」
何を?
私が知ってるって、何を?
「でも、そうじゃないらしいってわかったからさ」
こちらの疑問は置き去りのまま、鷲津は小さくかぶりを振った。
「お前が純粋に……純粋でもないよな、変態だし。まあ変態的にでも、本当に俺のことが好きなだけで、あの日のことがばれてて、それをネタにからかおうとしているわけじゃないってわかったんだ。最近、ようやく」
ばれるって何が?
鷲津が何について話しているのか、私にはちっともわからない。
とっさに思い起こしてみる。
教室でネクタイを解いた鷲津を見かけた日のこと。
彼のとげとげしい態度と、白く美味しそうな首筋とに、抗いようのないくらい強烈に惹きつけられてしまった日のこと。
彼を押し倒して拘束したいと告げた、あの瞬間のことを。
私は自分の見聞きしたことしか知らない。
あの日のことを振り返ったところで、新たな事実が判明することもなかった。
鷲津が『ばれていた』と怯えるような事柄は、あの時何もなかったはずだ。
だったら、私が見てないところで鷲津に何かあったんだろうか。
例えば、バスに乗り遅れた私が教室の前を通りかかる、その直前に教室であったこととか――。
「あの日、何かあったの?」
黙って聞けと言われていたけど、どうしても尋ねずにはいられなかった。
「鷲津に何かあって、それで放課後に残ってたとか? そういうこと?」
私が口を開いたからか、鷲津ははっきりと眉を顰める。
だけどそれだけで、怒ったりはしなかった。逆に静かに言い返された。
「近いけど、違う」
「じゃあ……」
「待ってくれ。こっちだって、平気な顔して言えるわけじゃないんだ」
彼は私を制すると、力なく俯いた。
「順を追って話すから……悪い。ちょっと時間くれ」
「……ううん、こっちこそ、ごめん」
すぐに私も謝って、鷲津から目を逸らす。
どういう彼でも好きだけど、落ち込んでいる姿を見るのは辛かった。
鷲津のことが知りたい。
それは恋する女の子なら当然の欲求だ。好きな人のことは何でも知りたいって私も思う。
だけど鷲津はいつだって話したがらない。基本的に自分のことを話すのが苦手なんだろう。話をするのが好きなら、もっと前からいろいろ聞かせてもらえてるはずだ。
そんな彼が今、私に何かを、隠している何かを話そうとしてくれている。
それだけでも本当に大きな一歩だ。
以前からは考えられないほどの大きな変化だ。
焦っちゃいけない。今日までだってじっくりやってきたんだから、ここで逸って鷲津を急かしては逆効果だ。ちゃんと待っていなくちゃいけない。
でも、平気な顔をしては言えないことって何だろう。
彼が私の、甘かったり夢見がちだったりする言葉を否定しておいて、尚もあの日のことを『運命的だ』と評するその根拠は何だろう。
むしろあの日、鷲津が誰もいない教室に残っていた理由は何だろう。
私と違って徒歩通学で、おまけに家までそう遠くなかった彼が、教室に一人きりでいた理由は。ネクタイを解いていた理由は。
「……久我原、腹減ってないか?」
ふと、鷲津がそう言った。
俯いたまま、前髪越しにこちらを窺っている。
「夕飯食べてきたのか?」
「食べてないけど、別にいいよ」
それどころじゃない。鷲津の『中身』を知る大チャンスなのに。
でも鷲津は手を伸ばして、足元に置いてあった自分の鞄をがばっと開けた。
中からコンビニの袋を取り出す。割と大きい。
「サンドイッチならある。買ってきた」
「えっと……私に?」
「ひもじい思いをさせたら悪いだろ」
ぼそりと、優しいことを言ってくれる。
「飲み物もある」
鷲津の手がコンビニの袋から次々と物を取り出した。
出てきたのはペットボトルが二本とサンドイッチが二袋。
ペットボトルは紅茶と緑茶という組み合わせだった。サンドイッチはツナサンドとBLT、割とスタンダードな選択肢だ。
鷲津が私の為に選んでくれたんだと思うと嬉しい。
でも、今は食欲も全然なかった。
ナイトテーブルの上に一揃い並べた後、鷲津は迷わず紅茶を手に取る。
それを私に差し出してきた。
「ほら、やる」
「え? あの、でも」
「紅茶が好きなんじゃなかったのか」
そりゃまあ、好きだけど。
ちゃんと覚えてれくれたんだって、嬉しくもあったけど。
でも今はそれどころじゃない。話の先が気になって気になってしょうがないところなのに。
紅茶は素直に受け取りつつ、次に差し出されたサンドイッチにはかぶりを振った。
「ありがとう。食べるのは後でいいよ。それより続きを話して」
促す私に、鷲津は気まずげな顔をする。
緑茶のペットボトルを開け、一口、二口、喉を鳴らして飲んだ。
その後で言った。
「待ってくれって言ってるだろ。すぐには話せない」
「どうして?」
「だから、平気な顔して言えるようなことじゃないんだ。その為にこうして部屋を借りて、久我原にも一晩中付き合ってもらえるようにって頼んだ。すらすら話せることじゃないからだ」
一息に言うと、鷲津は緑茶を手にしたまま黙り込む。
いつもかさかさの彼の唇も、今はなめらかで潤っている。だけど固く結ばれていて、抉じ開けるのは不可能だろうと思った。彼自身が開けようとしてくれなければ、キスごときじゃ開けられそうにもない。
私は出方に迷い、とりあえず紅茶の蓋を開ける。
「いただきます」
そう言って一口飲んだ。
ほんのり甘いストレートティーは美味しかった。この部屋も空気が乾燥していて、何もしないうちから喉が渇いた。
鷲津はまた黙り込む。
すらすら言えるようなことではない『何か』を抱えて、ベッドの上に座っている。その姿はいつもよりも儚げで、背中を抱き締めてあげたくなる。そんなことをしたら、きっと振り払われてしまうだろうけど。
知りたかった。彼の中にあるもの。
教えて欲しかった。彼が囚われてしまっているものを。
だけど問い質すこともできなくて、私は待つより他にすることもない。彼がどんどんと背中を丸め、苦しみながら思案に暮れていくのを見守るしかなかった。
辛かった。
一晩中かけて、こうして続きを待つ必要があるなら――私はどこまで黙っていられるだろう。
待つ女なんて私の性に合わない。
かと言って鷲津に無理強いもさせたくない。
彼がせっかく私に、何かを打ち明けようとしてくれているのに。
せめて気分転換になるようなことを言ってあげようか。
今夜はここに泊まるんだから、一晩も時間があるんだから、焦らずのんびりしたっていいはずだ。
言えない言葉を延々と探し続けるくらいなら、ちょっとくらい気分転換するのはどうだろう。
そして私は思いついた。
「ね、鷲津。いいこと思いついたんだけど」
「何だよ」
鷲津はくぐもった声で応じる。
「行き詰まってるなら、ちょっと気分転換するのはどうかな」
バスルームに続くドアを指差して、私は彼を誘ってみた。
「一緒にお風呂入らない?」
「――は?」
即座に顔を上げた彼が、大きく目を瞠ってみせた。