小さな君へ(4)
約束をした土曜の午後五時。日の暮れかけた駅前で、私は鷲津と落ち合った。
鷲津は黒い帽子をかぶり、ダークグレーのカーディガンに黒いジーンズという服装をしていた。忍者みたいだとは思っても言えない。
待ち合わせ場所にはやっぱり早く来ていて、硬い顔つきのまま立っていた。
駆け寄る私を見つけても表情は動かさず、近づくなり低い声で言った。
「じゃあ、行くぞ」
「うん」
彼の愛想のなさはいつものことだ。
それよりも今日のお泊りが嬉しくて、私はすっかりはしゃいでいた。彼の後について歩く足取りまで弾んでいる。
話したいことがある、と彼は言っていた。
どんな内容なのかは今でもさっぱり思いつかない。
だけど、悪い話じゃないような気がする。よくない話ならわざわざ会って話したりしないだろうし、それもちゃんとしたホテルの部屋を取って、ふたりきりで話そうだなんてしないはずだ。不安はあまりなかった。
それにこの間、『必ず来てくれ』なんて言ってもらったし。
「ここだ」
鷲津が案内してくれたのは、駅に隣接しているシティホテルだった。
「本当にここ?」
「そうだよ。入るぞ」
ラブホテルとは違い、通りに面して堂々と建っている。外観も立派で、最上階には展望レストランが入っているし、結婚式場も入っているそうだ。ドアを開けてくれる係の人までいて、歩いて入るのに気後れしたくなるほどだった。
「何びびってんだよ」
以前とは逆に、鷲津に笑われた。
フロントも普通のホテルと同じで、鷲津が先に立ってチェックインを済ませてくれた。やましいところがないからなのか、彼の振る舞いは堂々としている。
私はロビーの隅の方で、鷲津の意外な姿を見守るしかなかった。
結構頼もしいんだ。ふうん。
チェックインの後はベルボーイさんに部屋まで案内して貰った。
エレベーターに乗って七階まで上がると、絨毯敷きの廊下を抜け、客室に通してもらう。
部屋に入った時は正直ほっとした。この間まで高校生だった私には、こういうお高そうなホテルはラブホよりもずっと緊張する。
カードキーで開けたドアの向こうは静かな部屋だった。オレンジがかった照明が灯り、柔らかい色調の内装が目に入る。テレビとデスク、それにベッドがあるこじんまりとした客室だった。
「ツインルームなんだ」
ベルボーイさんが立ち去った後、私は思わず声に出していた。
室内にはベッドがふたつ並んでいた。間にあるナイトテーブルがとっても邪魔だ。
鷲津が私に眉を顰める。
「不満でもあるのか」
「不満っていうか、どうしてツインにしたの?」
「ふたりで泊まるんだから当たり前だろ」
さも当然という口調で言い切られた。
こっちはちょっと納得がいかない。
「ダブルでもよかったのに」
「馬鹿、何しに来たと思ってるんだよ」
話をする為に部屋を取った、そのことはちゃんと覚えてる。
だけど、だからってそれだけで終わるとは思ってない。一晩中掛かるような話でもないらしいし、ふたりきりでホテルの部屋にいて、何にもないような夜にはしたくなかった。
入り口脇のドアを開けてみれば、お約束のユニットバスだ。
ラブホのバスルームよりもずっと狭くて、これじゃ一緒に入るのは難しいかもしれない。できなくはないだろうけど。
「お前って、あちこち覗くの好きだよな」
鷲津の声がぼそりと聞こえる。
私はバスルームのドアを閉めて振り返った。
彼は既に上着を脱いで、窓側のベッドに腰を下ろしていた。
「前もそうだった。黙って座るってことないもんな」
「そう言う鷲津は、今日は落ち着いてるね」
彼のいるベッドまで歩み寄りつつ、意地悪く言い返してみる。
鷲津はむっとした様子で、でも反論はして来なかった。
私は空いている方のベッドにバッグを放り投げる。脱いだ上着も放り投げてから、彼のすぐ隣に座る。
すぐさま彼が腰を浮かせた。
「あんまり近づくなよ」
十五センチほど距離を置いて座り直されて、ベッドのスプリングがその度に軋む。
「どうして?」
あんまりな物言いだと思い、顔を覗き込んで聞き返す。
鷲津は目を逸らした。
「そういう目的で来たんじゃないって言ってるだろ」
「隣に座っただけじゃない。それでもそういう目的ってことになるの?」
「……とにかく、話をしに来たんだからな。それは覚えててくれ」
わざとらしい咳払いで会話を打ち切ると、鷲津はようやく私を見た。
ベッドの上で距離を置いて座り、私たちはしばし見つめ合う。
どことなく、いつもと違う空気を感じた。柔らかいような、それでいて得体の知れないような曖昧な空気だ。オレンジがかった照明と、嗅ぎ慣れない匂いに満ちたホテルの一室はラブホよりも狭いのに、今はこの狭さがちょうどよく感じた。
七階の部屋の大きな窓には、すみれ色に染まる空が広がっている。
これから、ふたりきりの夜が始まる。
どんな夜になるんだろう。どきどきする。
鷲津は黙って、真っ直ぐに私を見ていた。
愛情を込めてということはなく、かと言って一時のように険しい視線でもなかった。
むしろ、ただじっと眺めているみたいだった。当たり前のように存在しているものを、当たり前のように目に留めている。それだけの眼差しに見えた。
私も、鷲津を見つめていることにした。色の白い肌も、心なしか穏やかな表情も、光を浮かべた瞳も、喉元のラインと時折上下する隆起も、全部を視界に納めて満足していた。
お互いに黙ると、耳が痛いくらい静かになる。
それはラブホテルだろうと真っ当なホテルだろうと、それほど変わらないらしい。
「話があるって、言ったよな」
鷲津が切り出した声は不自然にかすれていた。
だけど静けさのお蔭で、はっきりと聞き取れた。
「久我原にどうしても話しておきたいことがあったんだ」
もったいつけるようにゆっくりと、彼は続ける。
私の反応を気にしているのか、視線は真っ直ぐにこちらを向いたままだ。
「上手く言えるかどうかわからないけど……話さないわけにはいかないから、聞いて欲しい」
何だか本当に重要な話のようだ。
そこまで聞いて、私は思わず尋ねた。
「それって、どんな話?」
「ど……どんなって?」
途端に鷲津がびくりとする。
「まず、いい話なのか悪い話なのか教えて」
「これから話すって言ってるだろ。黙って待ってろよ」
「こっちにだって心の準備とかあるの。悪い話なら覚悟も決めなくちゃいけないし。せめてそれだけは教えてよ」
苛立つ声をあしらって告げた。
私だってここまで散々どきどきさせられてるんだから、これで実は悪い話でした、なんて言われたらあまりにもやりきれない。
期待していい話なのかどうか、あるいは期待なんて持つべきじゃない話なのかどうか、予告しておいてくれてもいいと思う。
すると鷲津は言葉に詰まり、やがてぼそぼそと応じた。
「別に、いい話じゃない」
「……そう」
私は落胆を押し隠すのに一苦労した。
そっか。いい話ではないんだ。
「でも、悪い話かって言われると、よくわからない」
鷲津が、低い声でそう続ける。
「どういうこと?」
「難しいんだ。なんて言うか……はっきり言って、お前にはあまり関係のない話なんだ」
「何、それ」
私にあまり関係のない話を、私に対してするってこと?
それは別に構わないけど、じゃあ一体どういう話?
困惑のあまり瞬きを繰り返す私に、彼もためらいながら続ける。
「あまり関係ないけど、全く関係ないってわけでもない」
「全然わかんない」
「わからないだろうと思う。多分お前は何も知らないだろうから、でも」
短く息をついた鷲津が、苦々しい表情になった。
「このまま黙ってるのはフェアじゃないような気がして……」
フェアじゃない。その表現も少し奇妙に聞こえた。
鷲津が私に対してフェアだとか、そうじゃないとか気にしていること自体、珍しいけど。
私にはあまり関係のない話で、だけど全くの無関係でもない話。
そして、黙っていると私に対してフェアではなくなるという話。
――全然わからない。想像もつかないから、手っ取り早く聞いちゃいたい。
「でも、難しいんだよな……」
呟いた鷲津が、ふと視線を外して窓を見やる。
カーテンが開いた窓からは、夜空とガラスに反射した部屋の明かりだけが見えた。
立ち上がれば夜景も眺められるかもしれない。だけど彼はそうしなかったし、私だってそんな気分にはなれない。
彼がここまでして話そうとしていること、私に打ち明けたがっているらしいことに、ひとまずちゃんと耳を傾けようと思う。
そしてどんな内容でも受け止める覚悟はある。別れ話以外は。
「お前ってさ」
鷲津は窓を見つめたまま、呟くように言った。
「やっぱり、よくわからない奴だよな」
私は彼の、驚くほど穏やかな横顔を見つめている。
「そう?」
「今日まで結構、会ったりとかしたけど。高校時代より話もしたけど、やっぱりわからない。何考えてるか読めないし、あんまりお前自身の話もしてこないし」
「それはお互い様じゃない?」
私はそう思う。
私だって鷲津の考えは読めないことの方が多い。鷲津も自分のことを饒舌に語ってくれるような人ではないし、言いたくないこともたくさんあるみたいだし。
そしたら、ちょっと笑われた。
「かもな。でも、身体は知ってるのにその中身は知らないなんて、矛盾してるよな」
自嘲気味な返答はほんの少しだけ耳に痛くて、私は唇を結ぶ。
教えてくれさえしたら、全部知りたいって思うのに。
知りたい気持ちだけは今までだってあった。それは嘘じゃない。矛盾もしてない。
でも現に、私は鷲津の気持ちを知らない。あの痩せた身体の奥に、透けるように白い肌の内側に、どんな心が隠されているのかを知らない。今まで何度服を脱がせても、心を暴き出すことまでは叶わなかった。
それも今夜なら叶うだろうか。