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小さな君へ(3)

 鷲津は、その日のうちに連絡をくれた。

 電話が掛かってきたのは午後八時過ぎだった。
 その頃にはもう、私は自分の部屋に引っ込んでいた。夕飯は喉を通らなかったけど、お風呂に入ったら気分は少しだけ落ち着いたようだ。

『……久我原、今は平気か?』
 鷲津は私の携帯に、やっぱり家電から掛けてきた。
 平気、というのは都合の方を聞いているんだろうけど、私は内心どきっとする。
 平気だ。鷲津の声が聞けたから、これでしっかり元気になれる。
「あ、鷲津。夕方はごめんね」
 ベッドにねそべり、私は何事もなかったみたいに応じた。

 佐山のことは当然黙っているつもりだった。
 鷲津と佐山がどんな関係だったのかは知らない。ただ鷲津にとっての佐山は、私を寝取ることで復讐できる、なんて思うような相手だったんだろう。私は人懐っこくて明るい佐山しか知らなかったけど――それも今日までの話で、今はそうじゃなかったけど。
 あの暴君みたいな態度の佐山が脳裏に蘇る。
 私の知らないところで、鷲津にもああいうふうに接していたんだろう。漠然とそんな気がした。
 それなら鷲津には、余計なことは一切言わない方がいい。

『別にいい』
 鷲津は何も気にしてない様子で、すぐに続けてきた。
『それより、今は話しててもいいんだよな?』
「うん、大丈夫だよ」
『……お前、珍しく元気ないな。具合悪いのか?』
 彼の問いの的確さに、またしてもどきっとする。
 声だけでわかるなんて、いつもなら彼女扱いみたいって大喜びするところなのにな。
「そんなことないよ」
 すかさず私は声のトーンを上げ、明るく振る舞うことで否定した。
『なら、いいけど』
 鷲津も深く追及する気はないみたいだった。
『弱ってる久我原ってあんまり想像できないしな』
「そうかも。私、あんまり風邪とか引かないし」
『確かに引かなさそうだ』
 遠慮会釈もなく言い切られた後、少しの間だけ沈黙があった。

 その間に、私はぼんやりと鷲津のことを思う。
 今現在も電話で繋がっているはずの彼が、今夜はすごく遠い存在に感じられた。
 もっと近づきたいのに、私はまだ鷲津のことを全然知らない。聞いてみたいことがたくさんあるのに、二人でいる時はいつだって時間がいくらあっても足りなかった。

『それで、さっきの話だけど』
 考え事をしていた私の意識を、鷲津の声が現実に連れ戻す。
『お前、土日は両方とも暇なんだよな?』
「うん」
『じゃあ、どっちも空けてもらえるか?』
「いいけど……え? 両方?」
 鷲津が私と会う為に、そこまで時間を割いてくれるなんて。
 ぼんやりしていた頭が急に冴えた。嬉しさから思わずベッドに起き上がり、正座してしまう。
「二日連続で会ってくれるの?」
 即座に食いつく私、相当現金だ。
『いや、二日連続って言うより……』
 しゃきっとした私をよそに、彼は言葉を濁す。
 その口調は心なしか普段より気弱そうだった。
『何て言うか、その、これを先に聞くべきだったんだろうけど』
 迷うように前置きしてから、鷲津はこう続ける。
『あの、久我原、お前さ』
「なあに」
『――外泊って、平気か?』

 ベッドの上で正座したまま、私は鷲津の問いをしばらく繰り返していた。
 まさか。
 それって、つまり。

『……久我原? 聞いてるのか?』
 彼が呼びかけてくる。
『おい、どうした。また何かあったのかよ』
「う、ううん、ちっとも!」
 慌てて答えたら上擦った声になった。
 でも、びっくりして当然だ。
 まさか鷲津が外泊の誘いを持ちかけてくるなんて。
 彼の方から言ってくれるとは夢にも思わなかった。前に誘った時の反応からして、鷲津家では外泊なんて許してもらえないんだろうと踏んでいたからだ。
「本当にいいの?」
 思わず聞き返した。
 電話の向こうでは、鷲津が怪訝そうな声を立てる。
『いいのって……俺がお前を誘ってるんだけど』
「あ、そうだよね。うん、それはわかってる」
『お前、本当に大丈夫か? 変なのはいつもそうだけど、今日は特に変だ』
「全然平気。普通だよ」

 さっきまでの鬱々とした気持ちがどこかへすっ飛んでしまった。
 やっぱりこの感情、衝動はすさまじい。こんなにも目まぐるしく気持ちが揺れ動くことなんて、恋以外にはあり得ないだろう。
 鷲津の声を聞けてよかった。もうすっかり元気だ。

『お前が言うなら、平気なんだろうけどな』
 彼がなぜか心配そうにしていて、そっちの方がよっぽど変に思えた。
 鷲津がこんなにも私を気にかけてくれるなんて、珍しいこともあるものだ。
『で、どうなんだよ』
「もちろんいいよ。お泊まりしよ」
 当然、私は大喜びで答える。断る理由があるはずもない。
 途端に鷲津も息をつくのが聞こえた。
『そうか。よかった』
 断られるとでも思ってたんだろうか。そんなこと、あり得ないのに。
 私は再びベッドに寝転び、今度は幸せな気分で目を閉じる。
「でも鷲津が外泊なんて言い出すの、意外だった。親は大丈夫なの?」
『まあ、な』
 耳元に鷲津の声がする。
 近くて遠い、だけど確かに繋がっている関係。そう思えるのが嬉しい。
『うちも放任だし、誰に何を言われるまでもない』
「ふうん」

 その点はうちもそうだ。外泊をしても特に何も言われない。相手が異性だとばれない限りはうるさくもないし、嘘をついてもわざわざ見破ろうとはしてこないだろう。
 もちろん恋人でもない相手だなんて事実は、絶対に言えやしないけど。
 鷲津はどうなんだろう。ご両親のことはあまり話したがらないし、三度も家にお邪魔してるのに一度も会ったことはない。放任という言葉を鵜呑みにしていいのか、私は測りかねている。
 でも、鷲津の方から誘ってくれたんだから。

『というか、実はな』
 そこで鷲津が少し改まったようだった。
『今回誘ったのは、用があるからなんだ』
「用?」
 今までも、用もないのに会ったことはなかったように思う。そういうのはそれこそ彼氏彼女の間ですることだ。
 不思議だったから問い返す。
「ホテルに行くのに用があるってこと?」
『その、まあ、そういうことだ』
「それってどんな用?」
 冗談半分で聞いた私に、鷲津は至って真面目に応じる。
『用って言うか、話がある。泊まるのもこの間みたいなホテルじゃなくて、もっとちゃんとしたところだ』
 話しながら、彼の口調が次第に硬さを帯びていくのがわかった。
『お前に話したいことがあって、それでその……泊まりがけで話そうと思った』
「泊まりがけで話さなきゃならないような、長い話なの?」
 質問ばかりで悪いなと思いつつ、どうしても尋ねずにはいられない。

 だって話をする為だけにホテルに泊まるなんて、何と言うか効率が悪い。
 よっぽど人に聞かれたくない話なんだろうか。
 大事な話、なんだろうか。

『話自体は長くない』
 鷲津は引き続き硬い口調で言う。
『ただ、結構難しい……わけでもないけど、ややこしい話だ』
「そうなんだ」
『だからお前に一晩付き合ってもらって、じっくり話したかった』
 そこまでするほどの話がどういった内容のものなのか、私にはまるで察しがつかない。
 でも、そこまでして話したいことがあるならちゃんと聞いてあげたかった。そうでなくとも鷲津と一晩過ごせるというだけで十分に魅力的だ。断る理由はなかった。
「いいよ、付き合うよ。一晩と言わず二晩でも三晩でも」
 私はそう答え、それからまた尋ねた。
「どんな話かは、当日まで秘密?」
 その時だけは鷲津も、少しだけ笑った。
『そうさせてくれ。電話で言うことじゃない』
 ぎこちないけど、安心したような笑い方にも聞こえた。

 その後、私と鷲津は週末についての約束を交わした。
 待ち合わせ場所は以前と同じ駅前に、夕方五時に集合。
 宿泊先のシティホテルにも一応のアメニティグッズは揃っているらしいので、持ち物は着替えくらいでいいそうだ。ホテルの予約は既に済んでいて、だから断られなくてよかったと、鷲津はほっとした様子で言った。
 彼の言葉を聞きながら、私は思う。
 今夜の鷲津はいつもと明らかに違っている。
 いや、昔と違うのかもしれない。私に対する態度も、それ以外の物事に対する姿勢も柔らかくて、でもどこか自信なさそうだ。どんな変化があったかはわからないけど、私を必要としてくれるならどんなだっていい。

 約束を終えて電話を切る直前、私は彼に聞いてみた。
「ね、私のこと、今でも怖いと思ってる?」
『は? いや、そりゃあな』
 鷲津は素直に認めてきた。
 こればかりは濁すつもりもないらしく、二秒で即答だった。ちょっと笑えた。
「聞いてみたかったの。私が前に、教室で鷲津に告白した時――」
『告白ぅ?』
「うん。言ったでしょう、鷲津のこと拘束したいって」
 そう続けたら、彼はどうしてか苦々しく思ったようだ。
『お前な、あれは告白って言わない。襲われたのと同じだ』
「告白だよ、間違いなく」
 私自身はそのつもりだった。少なくとも今日までは。

 だけど、私の想いが彼に正しく伝わっているとは限らない。
 誰だって恋をすれば身勝手になるし、独りよがりにもなる。好きだって告げるのも押し倒すのも簡単だけど、それだけで私の気持ちが百パーセント伝わるわけじゃない。
 私はもっと、鷲津に正しく伝える方法を考えるべきなのかもしれない。
 その方法、今はまだいいのが思いつかないけど。

 だから私は彼に尋ねる。
「あの時、私のこと怖いって思った?」
 過去の反省を踏まえ、大切な思い出を確かめてみる。
『当たり前だ。どんな変態かと思った』
 鷲津は今でも恐ろしげに声を震わせた。
 彼の言う『変態』は、どこまで凶悪で恐るべき存在なんだろう。少なくともいいニュアンスには聞こえなかった。
「そう……今でも同じように思う?」
『ああ。お前は変態だ』
 鷲津はあっさりと肯定してみせる。
 そのくせすぐに、声をいくらか和らげてこう続けた。
『でも、俺がお前を怖いと思うのは、そういう意味合いだけじゃない』
 とっさに私は目を瞬かせる。
「じゃあ、どういう意味で怖いの?」
『それも今度、話す。だから必ず来てくれ』 
 戸惑う私をよそに、鷲津はさりげなく、初めての言葉を口にした。
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