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小さな君へ(2)

 目の前の佐山は、高校時代とは違う印象に映った。
 人懐っこそうだった笑顔は見る影もなく、今の表情は妙に卑屈で、神経質そうに見えた。心なしか痩せたのかもしれない。体格は相変わらずいいままだったけど、顔色は悪かった。
 ブルゾンのポケットに手を突っ込み、家に駆け込みたい私の眼前に立ちはだかっている。
「ごめん」
 身じろぎもせず、彼はその言葉を繰り返した。
「どうしても、久我原に会いたかった」
 口調は真剣そのものだ。
 だからと言って、わあうれしいなんて冗談でも言えないけど。

 むしろぞっとする。
 鷲津が私に、家には来るなと言っていた意味が今ならわかる。これは確かに恐ろしい。
 卒業後に電話を掛けてきたのは先日のあの時、一度きりだ。その番号も着信拒否して以来は音沙汰もなかったから、佐山は諦めてくれたものだと思っていた。
 同じ市内に住んでいる同士、道で偶然行きあうことはあっても、こうして会いに来ることなんてないだろうと高をくくっていた。
 まさか家まで来るなんて、本当にどうかしてる。

「佐山ってストーカーなの?」
 私は寒気を覚え、率直に尋ねた。
 事実そうとしか言いようのない状況のはずだけど、佐山はわかりやすいくらいにショックを受けた顔になった。
「久我原、手厳しいな」
「だって、私の家知ってたっけ? 誰かに聞き出したの?」
 高校までバス通学だった。近くに住んでいる友達はいなかったはずだ。
 佐山は、どうやってここまで来たんだろう。
「ごめん」
 質問には答えず、佐山はもう一度謝ってきた。
「でも俺、久我原に会いたくて。この間のことで忘れようと思ったけど、できなかった。やっぱりどうしても会いたくて、それで――」
 言葉に詰まったように、彼はそこで声を止めた。
 浮かべた表情は悲痛で、悪意のある様子には見えない。

 悪意があるとわかればすぐさま通報してやるのに。
 ちょうど手の中には電話もある。さっきまで鷲津と繋がっていた携帯電話を、お守りみたいに握り締めていた。
 でも、鷲津から見た私も、こんな風に映るんだろうか。
 悲痛で、必死で、それでいて悪意はないように見えるから、扱いに困るんだろうか。

「帰って」
 私が告げると、佐山は苦しそうに眉を顰めた。
「でも、あんな切り方はあんまりだろ」
「何が? 着拒したこと?」
「ああ。俺だけじゃなくて、D組の奴ら皆だって聞いたよ。お前と連絡取れないって困惑してるのは俺だけじゃないんだ」
 あいにくだけど、全員じゃない。
 D組のたった一人だけは着信拒否をしていない。携帯電話の番号すら教えてもらってないけど、いつか聞けたらって思う。
「お前らしくないよ、久我原」
 佐山は案ずるように続けた。
「何かあったんだろ? だからこんなことするんだよな? 俺か、俺なのか? 俺、お前を傷つけるようなことしたか?」
 実際、心配はしてくれてるのかもしれない。
 だけど佐山の口調にはどこか病的な、執着めいた薄気味悪さがあって、私は春服の下で密かに鳥肌を立てた。

 どうしてそんなに自信が持てるんだろう。
 自分の存在がそれほどまでに私の中に残ってるって、そう思える根拠があるんだろうか。

 日が沈み始める頃、この住宅街はいつも静かだった。今も、お互いに黙り込むと不気味なくらいに静まり返った。もう五月だというのにやたら寒く感じる。
 私は身震いしながら仕方なく切り出した。
「この間、言ったと思うんだけど」
 佐山を睨むと、向こうは怯むように顔を強張らせる。
「私、好きな人がいるの」
 この間も告げた言葉を、再び口にした。
「信じてない? 好きな人がいるのも、卒業式の日にデートしたっていうのも本当だよ。それは佐山じゃない人だから」
 誰かは言えないけど。
 多分、鷲津も言って欲しくないはずだ。だから言わない。
「佐山が私をどう思ってるかは知らないけど、もし好きだって言うんなら今日ですっぱり諦めて」
 警告めいた、低くて重い声になった。
「私は絶対に、今の好きな人のこと諦めたくないから」

 絶対に。
 そう思えたのは鷲津が初めてだった。
 誰にも渡したくないと思うほど、独占欲が募ったのも。
 何を捧げたって惜しくないと思うほど、可愛いと感じられたのも。
 どんなことをされてもいとおしいと思うほど、愛する気になれたのも、全て鷲津だけだった。
 今までにはそんな相手いなかったし、これからもきっと彼以外にはいないだろう。
 鷲津じゃなくちゃだめだった。
 鷲津を捕まえて、閉じ込めておきたかった。他の誰にも取られないように。

「そういうわけだから、帰ってくれる?」
 言いたいことだけ言い切ると、私は佐山に促した。
 なのに佐山は硬い表情で、ぎこちなく口を開く。
「悪い。少しでいいから、俺の話も聞いてくれないか」
 嫌だと突き放してやりたかった。
 だけど不気味さの方が先立って、徹底的に拒むことはできなかった。
 連絡先を全て断絶したのは悪手だったかもしれない。それで家まで押しかけられたんだから、ちょっと考えるべきだったかも。今日のところはほんの少しだけでも話を聞いてやって、すんなり帰ってもらう方がいい。
「少しだけね」
 意外にも、私の声はかすれた。
 逆に佐山は微笑する。
「ありがとう」
 場違いなお礼を述べた後、声のトーンを上げ、彼らしいはっきりした語調で続けた。
「久我原が好きなんだ」
 そう言った。

 静かな道の真ん中で向き合って、待ち伏せしていた当の相手に睨みつけられ、他に好きな人がいると言われても、佐山はそう言ってきた。
 耳が悪いのか、頭が悪いのか、それとも異常なくらいに諦めが悪いのか。
 いずれにしろ、私のことを好きな割に私の言うことを聞き入れるつもりはないらしい。
 私がして欲しいことをしてくれるつもりだってないらしい。

 そんな横暴さで佐山は続ける。
「同じクラスになってからずっと好きだった。久我原はいつでも真面目ないい子だったし、それに他の子より表情や仕種が大人っぽくて、いつも目が離せなかった。久我原が笑ってくれるだけで、もっと話したい、時間が足りないって思うくらいだった」
 佐山が語るのは私が知らない私の姿だ。
 鷲津じゃない人からの愛の言葉は、ざらざらした砂の味に似ていた。
「今でも好きだ。卒業してからも、進学してからも忘れられなかった」
 佐山は必死に訴えかけてくる。
 熱に浮かされたように、陶然とした目を向けてくる。
「ストーカーみたいなことをして、ごめん。でも会いたかった。こんな一方的で、放り出されたような終わり方は嫌だったんだ。どうしても気持ちを伝えておきたかった。俺は今でも、久我原を気にかけてるんだって――」

 高校時代、佐山との思い出はそれほど多くない。
 友達、ではあったと思う。連絡先の交換はしてたし、宿題や翌日の持ち物について何度か聞かれたことがある。グループで繋がっていてもいつの間にか二人の会話になってることがあって、そういう時は決まって後から別の友達に冷やかされた。
 でも、それだけだ。
 彼が言うように『ずっと好きだった』『目が離せなかった』とまで想われていた実感はゼロだった。正直に言えばなぜそこまで、と冷めた気持ちになるほどだ。
 だとすると、佐山にもあったんだろうか。
 私が鷲津に惹かれた時みたいに、一瞬の姿に心を奪われてしまったことが。
 身体に電気が走ったような、鮮烈で即物的な衝動を、佐山は私に抱いたことがあったんだろうか。

 ――気持ち悪い。
 急に恐怖がせり上がってきた。

「久我原に好きな人がいるのは聞いた」
 身を震わせる私には構わず、佐山は尚も言い募る。
「でも『好きな人』なんだろ? 彼氏とかじゃなくて」
「……どういう意味?」
 かちんと来て、私の声は攻撃的に尖った。
 これこそらしくもない。どうでもいい奴に感情を掻き乱されるなんてもったいない、いつもの私ならそう思うはずなのに。
「彼氏がいるわけじゃないなら、まだ俺にもチャンスはあるだろ」
 佐山も、私の知ってる佐山らしくなかった。
 彼らしさを把握してるつもりもなかったけど、でもこんな横柄で身勝手な物言いを、高校時代の彼ならしなかっただろう。
「だってそいつより、俺の方が久我原を好きでいるんだからな」
 クラスの女子たちから評判のよかった、明るく爽やかな男子の面影はどこにもない。
 光をぎらつかせた眼差しは、真っ直ぐに私を貫いていた。
「待ってたっていいだろ?」
 もはや分別すらかなぐり捨てて、佐山は暴君みたいに宣言する。
「俺は久我原が好きだ。久我原を好きじゃない奴には負けないし、絶対に諦めない。俺の方が幸せにしてやれるんだから、俺を選べよ。後悔なんかさせないから」
 でもその物言いに、私はある種の既視感を覚えていた。

 吐き気がするくらい、佐山と私は同じ気持ちだった。
 私もそうだ。鷲津のことが好きだし、他の誰にも負けたくはなかった。私といる間は幸せだと思っていて欲しかったし、そうする為なら何でもできた。後悔をさせるつもりだってなかった。
 そういう気持ちを佐山が平然と、自分のものとして口にしたから、思いきりぶん殴られた気分だった。
 私もまた、鷲津にとっては身勝手な暴君なんだろうか。
 
 もちろん、独占欲も嫉妬もごく当たり前の感情だろう。
 程度の差こそあれ、恋をすれば誰もが抱く思いに違いない。
 でも、向けられてみて初めてわかった。ろくに知りもしない、好きでもない相手からそういう感情を剥き出しにされるのは恐ろしい。倫理観とか常識とかをすっ飛ばしてしまうほどに強い衝動を伴っている、その感情は恐ろしい。
 まして相手が、強引な手段さえも厭わないような人間なら尚更だ。

 私は、佐山がそんな人だとは思わなかった。
 鷲津もきっと、私がそんな人間だとは思わなかっただろう。
 それなら――鷲津が私を怖いと言ったのは、もしかして、こういう気持ちになったからだろうか。

 気づきたくないことに気づかされてしまった。
 私は思った以上に打ちのめされ、もう佐山の顔なんか見たくなかった。
「もう帰って」
 佐山にはそう告げるのが精一杯だった。もう睨みつける気力もなかった。こんな奴なんてどうでもいい、どこかへ行って欲しい。
「佐山なんか嫌いだから」
 八つ当たりみたいに告げたら、佐山は痛みを堪えるように顔を顰めた。
「それでもいい。俺のことを忘れないでいてくれるなら」
 それから踵を返し、私の前から足早に立ち去った。

 佐山がいなくなると急に疲れが押し寄せてきて、私はその場に膝を抱えてうずくまる。
 家はすぐそこだけど、歩き出す気力さえ奪われていた。
 忘れたいのに、わざわざ傷跡を残していって――本当に佐山なんて嫌いだ。大嫌いだ。好き放題言って、こっちの気持ちなんて何にも考えてない。
 鷲津が私を好きじゃなくても、私は鷲津のことを、ずっとずっと好きでいる。佐山を受け入れるつもりなんて絶対にない。今すぐ鷲津に会いたい、こんな重苦しい気持ちを吹っ飛ばしたい。

 でも、どうしても考えてしまう。
 鷲津はなぜ私を拒絶せずに受け入れてくれたんだろう。
 好きにはならなくても、たびたび会ってくれようとするんだろう。

 鷲津の声が聴きたいなと、ふと思った。
 そういえば電話も途中だ。掛け直してもらわないと。
 折れかけてた心が蘇る。私は立ち上がり、鷲津の為に自分の部屋を目指して歩き出す。
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