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小さな君へ(1)

 桜の花びらは四月のうちに全て散ってしまった。
 葉桜の季節を迎えても、私と鷲津の関係はそれほど変わっていない。

 私個人のキャンパスライフは概ね平穏といったところだ。交友関係はじわじわと薄く延ばされて、顔見知りの数が増え、携帯に登録した連絡先も増えた。
 広く浅い交友関係において一番厄介だったのは、プライベートに関する質問だった。こと彼氏の有無については、まるで挨拶みたいにしょっちゅう尋ねられた。
「聖美って彼氏いるの?」
「一人くらいは付き合ったことあるでしょ?」
 正直に答えるなら、今も昔も『彼氏』はいない。
 だけど好きな人はいる。
 そんな事実を浅い付き合いの友人たちに説明するのはすごく面倒だった。
 早く、彼氏がいるって言えるようになれたらいいのに。そう思いつつ適当にやり過ごしている。
「彼氏はいないよ。片想いはしてるけど」
 そしてそんなふうに答える時、私はいつも鷲津のことを思った。

 彼も通っている大学の友達にこんな問いをぶつけられたりするんだろうか。
 彼女はいるかと聞かれて、苦笑を浮かべる時があるんだろうか。
 鷲津にはどんな友人がいるんだろう。
 高校時代、あのクラスで孤立していた彼は、今はどんな人間関係を築いているんだろう。

 ――口を利いてくれる相手だって、お前くらいしかいないのに。
 先日のお部屋デートの時、鷲津は私にそう言った。
 それは私の独占欲を満たしつつも、同時に胸が締めつけられるような言葉だった。
 だけど残念ながら想像もついた。
 私の記憶にある限り、高校の教室の中にいた鷲津はいつもひとりきりだった。クラスメイトたちは鷲津を悪く言うことに良心の呵責を覚えないようで、彼の一挙一動に陰口を叩いていた。鷲津自身はそれを無視や寝たふりでかわそうとしていて、そういう態度が逆に皆の嗜虐趣味を加速させたのかもしれない。
 今はどうなんだろう。進学先でも彼は孤立して、周囲の人間を遠ざけたり、関心なさそうに無視を決め込んだりしているのかもしれない。だからこそ、私としか口を利いてないって言い切るのかもしれない。
 でも、鷲津は独り暮らしでもないのに――少し前から感じ始めている違和感に、胸がちくちくと痛かった。

 鷲津は、私に何かを隠してる。
 その隠し事が彼を、鳥かごみたいに捕らえてしまっている。
 当然ながら知りたかった。彼が私に感謝していると言ったその理由を、聞き出さなければいけないと思った。そして私そっちのけで囚われてしまうような隠し事から、彼を奪い取りたい。
 彼を捕まえるのは私だ。
 他の誰にも許さない。私じゃなくちゃだめだ。

 その鷲津から、葉桜の季節を迎えてすぐに連絡があった。
 以前のデートから二週間と経っていなかった。

『……今、大丈夫か?』
 電話越しの声は相変わらず無愛想で、でも口調はどこかたどたどしい。こちらの都合を気にしてくれているところも彼らしい。
 私はちょうど大学からの帰りだった。バスを降りて家へ向かおうとしたところで、彼からの電話を受けた。
「外だけど、一人だから平気だよ」
 私は携帯電話を片手に、オレンジに染まる道を歩き始める。
 自宅近くの住宅街は夕暮れ時になるとひと気もなく静かだった。こつこつと鳴る靴音と、私の声だけがひっそり響く。
『ならいいけど』
 鷲津は関心なさそうに言った。
 通話先の番号が自宅のものだから、彼は家にいるらしい。
「鷲津はもう帰ってるんだね」
 電話の向こうに告げると、少し不満げに鼻を鳴らすのが聞こえた。
『帰り早くて悪いかよ』
「そんなこと言ってないよ。私も今帰るとこだし」
『講義さえ受けたら大学になんて用ないしな』
 聞き出すまでもなく、彼が新生活をどう過ごしているかは察しがついた。
 この分だと、彼は私みたいに面倒な質問を受けたりはしてないんだろう。

 そういえば鷲津も携帯電話を持っていたはずだ。
 進学してから登録する連絡先が一気に増えた、なんてことも彼ならあり得ないのかもしれない――私はやっぱり複雑に思う。鷲津を独り占めできるのは、嬉しいことのはずなのに。
 でもそれなら、私の連絡先くらいは入れておいて欲しい。

「鷲津って携帯持ってたよね?」
 歩きながら尋ねたら、途端に彼は口ごもる。
『ある、けど』
「そろそろ番号教えてくれない? 家からかけるより楽でしょう?」
『いや、楽じゃない』
 鷲津はそう言って、私の提案を否定した。
 でも携帯より家電の方が楽なんてこと、あるだろうか。
「そうなの?」
 私が突っ込もうとすると、彼は少し慌てたようだ。
『まあ、な。とにかく俺のはだめだ、使えないもんだと思ってくれ』
「ふうん……」
『何だよ、連絡してやったんだからもっと喜べよ』
 そして話題を逸らすように言ってくる。

 もちろん、連絡をくれたのは嬉しい。
 だけど――。

 いや、追及しないでおこう。
 変なことを言って会ってもらえなくなるのは嫌だ。
「今回は割と早めに連絡くれたね」
 私は笑いながら、変わった話題に乗っかった。
 彼の部屋で長く、甘い時間を過ごしてから二週間弱。私にとってはちょっと長いくらいの間だったけど、鷲津にとってはどうなんだろう。少しは寂しがってくれてるといいんだけどな。
『そうか?』
 鷲津はぶすっと応じる。
『たまたま次の週末が空いてたんだよ。どうせ暇だし、会ってやろうと思って』
「嬉しいな、暇だと私に会ってくれるんだね」
『はあ?』
 私が喜べば、鷲津の声はたちまち刺々しくなった。
『お前って本当に可愛くないよな』
 いつもの台詞だ。
 でも彼に可愛くないと言われるのは嬉しい。彼の好みがどんな女の子か、薄々勘づいているからだ。
『そういう物言いがむかつくんだよ』
 ぼそぼそと鷲津が不満を唱える。
『こっちは会いたいなんて一言も口にしてないのに、まるで好きで会ってるみたいな言い方だ』

 会いたがってるんじゃないなら、この連絡は何だって言うんだろう。
 しょうがなく会ってやってるだけにしては、しっかり連絡をくれる彼がいとおしい。私のことが好きじゃなくても、とりあえず必要にはしてくれてるみたい。そのくらいは言ってくれたっていいのにね。
 挑発的な言葉が脳裏を掠めたけど、やっぱり告げるのは止めておいた。せっかくのお誘いをふいにしたくない。この二週間だって焦れてしまうくらい辛かったのに。

「ごめん。機嫌、損ねないで」
 一人の帰り道を進みつつ、私は電話越しにねだった。
「気まぐれで会ってくれるだけでも嬉しいよ、私はね」
 譲歩のふりでそう言ってあげる。
 答えの代わりに溜息が聞こえてきたけど、気にせず続ける。
「それで、いつなら会ってくれるの?」
『……土日は空いてるか?』
 鷲津が質問に質問で応じた。
 私は歩きながら頷く。
「両方空いてるよ。どっちでもいいけど」
『そうか』
「あと、どこで会う? また鷲津の家に行けばいい?」
『いや、だめなんだ。そうじゃなくて』
 彼の声がそこでためらった。

 どうやら彼の家はまずいらしい。
 となると、またホテルへ行くことになるのかもしれない。
 私はそれでも構わないけど、土日だと料金は割増だし、サービスタイムもないはずだった。必然的に会う時間は短くなりそうだ。残念。

「ホテル行こうか?」
 こちらから切り出すと、電話の向こうではもごもごと濁される。
『ああ、まあ……そういうことなんだけどな』
 やっぱりね。他に選択肢があるはずもない。
 私はにやりとしつつ、物わかりよく答える。
「わかった、いいよ。この間のところにする?」
『あ、うん、そうだな。前のとは別のところにしようと思ってた』
 ラブホテルと口にするのが恥ずかしいのか、鷲津は何だかぎくしゃくしている。
 言いにくそうな様子がおかしくて、私は笑いを堪えるのに必死だった。可愛い人。

 彼氏がいなくても、好きな人はいる。
 それだけで何となく幸せになれるものだってしみじみ思う。
 こういう関係だって悪くはない。そりゃ彼女にはしてもらいたいけど、鷲津を彼氏だって言えるようにもなりたいけど、今が不幸ってわけでもなかった。
 単純に、一層幸せになりたいだけだ。
 次に会う時は、今以上にもっと彼に近づきたい。

 意を決し、私は密かに微笑んだ。
 次こそは鷲津に好きになってもらう――そんな決意と幸せな思いを胸に秘め、意気揚々と視線を上げる。

 けれどその直後、私の口元が引き攣った。
 家路を辿る足はひとりでに止まり、目は道の向こうへ釘づけになる。
 道の先にはもう自宅が見えていた。見慣れた家の玄関が、高校時代と変わらない通学路に確認できた。一面が夕日の色に染まっていて、燃えているような景色なのもいつもと同じだ。
 それとは別に、見慣れない人影があった。
「――っ」
『その、久我原。実は週末のことで頼みがある』
 息を呑んだ私に気づかず、鷲津は話を続けている。
『お前の都合が悪くなければだけど、土日――』
 大好きな彼の声さえ遠退いて、私はその場に立ち尽くした。

 家の傍にある電柱の陰に、誰かいた。
 まるで私を待ち構えていたみたいだった。私の姿に気づくなり、電柱から離れて歩み出てきた。
 夕日をかわすように道端に立ち、どこか申し訳なさそうな顔をして立っている。
 気持ち悪いことに、その顔には見覚えがあった。

「……どうして、いるの?」
 目の前に立つ相手に対し、思わず私は声を上げる。
 だってびっくりした。家に招待したことはないし、住所を教えた記憶もない。住所を知られたからと言って、家まで押しかけてこられるとは普通思わない。
 普通なら。
『は? 何だって?』
 手にした電話からは鷲津の声が響いてくる。
 それで我に返った私は、とりあえず現実に立ち向かうべく鷲津へ告げた。
「ごめん、一旦切ってもいい?」
『……ああ、わかった。後で掛け直す』
「うん、ごめんね」
 早口気味のやり取りの後、私はやむなく電話を切る。
 そして待ち伏せをしていた相手に対し、恐る恐る尋ねた。
「佐山、私を待ってたの?」

 ゆっくりとした足取りで、佐山はこちらへ近づいてくる。
 私から一メートル置いたところで立ち止まり、ぽつりと答えた。
「ごめん」
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