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白い羽(7)

 夢中になった時間は、駆け抜けるように過ぎていった。
「や、ちょっと、力入んない……」
「ほら、手。掴まれ」
 夢中になりすぎたかもしれない。終わった後は机から降りるのもままならなくて、鷲津の手を借りるしかなかった。
 借りたと言うよりもはや抱えてもらったようなものだ。弛緩する手足は思いのほか言うことを聞いてくれなくて、彼に縋るしかなかった。鷲津の方も体力は残っていなかったのか、二人で床に崩れ落ちるように座り込む。
「私、重くない……?」
「重い。けど別にいい」
 お互いに問いかける呼吸が荒く弾んでいる。
 服を着ていない身体はどこもかしこもしっとりと汗ばんでいる。抱き合いながら浴びる鷲津の吐息は熱く、私のうなじに短い間隔で降ってきた。それも心地いいと思う。
 体重を預けるくらいに寄り掛かっても彼は文句を言わない。
 だから素直に甘えることにした。彼の胸にもたれて、皮膚の向こうにある鼓動を聞いていた。

 どのくらい、そうしていただろう。
「……寒くないか?」
 不意に鷲津が尋ねてきた。
 私は緩くかぶりを振る。
「ううん、まだ大丈夫」
 正直に言うと暑いくらいだった。
 今はちょうどお昼時だろうか、窓から射し込む陽の光が鷲津の部屋を暖めている。身体の奥底から滲んでくるみたいに汗が浮かんで、背筋や胸の谷間に伝い落ちた。
 暑い。
 熱い。
 でも、彼から離れたくない。
「風邪引かれると困るから」
 そう言うと鷲津は自分のベッドに腕を伸ばした。
 掛け布団を手ではねのけ、その下にあったタオルケットをぐいっと引っ張る。
 手元に引き寄せたタオルケットで私と自分自身をくるりと包んでくれた。
 温かい。
「ありがとう」
 お礼を言ってから目をつむる。
 燃え滾るような情熱をぶつけ合った後、こうして静かにぼんやりしているのもまた幸せだった。心が直前までの情景と充足感と、気持ちのいい疲労とで満たされている。このままふわふわとまどろんでしまいたいような、でも起きていないともったいないような、不思議な感覚だった。
 鷲津もあれきり黙っている。
 私を抱きかかえるようにして、支えてくれている。眠いのかもしれないし、疲れたのかもしれない。だけど私を離すことはせず、静かに座っていてくれた。

 私たちの間に、いつもより穏やかな時間が流れている。
 前からそうだった。普段の鷲津は刺々しいし、私は私で何か言う度に顔を顰められているのに、全て終えてしまった後に漂う空気は穏やかで、不思議なくらいに優しい。
 私たちが、本当の恋人同士だって錯覚してしまいそうなくらいに。
 肌を合わせたままでも鷲津は何も言わない。汗ばんでいる私の身体は決してきれいではないはずなのに、彼は文句一つ言わないで傍に置いていてくれる。そのことが不思議だった。
 ドラマなんかでは、終わってしまった途端に冷たくなる男の人がいたりするようだ。鷲津もその類だったら嫌だなと思っていたのに、そんなことはなかった。
 些細なことだけど、幸せだった。

「すごく、幸せ」
 声に出して呟く。
 すると鷲津はほんの少し笑ったようだった。
「幸せだって?」
「うん」
 私は顔を上げずに彼の胸元へ頬をすり寄せる。
 こんなこと、他の誰にもしたことない。だけど鷲津には自然と甘えられた。
「好きな人とこうしてるの、幸せに決まってるじゃない」
 恋をしてたら当たり前のことだ。
 だから私にはわかるけど、鷲津にはわからないのかもしれない。首を傾げてみせていた。
「お前のって安い幸せだよな」
「そんなことないよ」
 すぐさま言い返したけど、鷲津も冷静に反論してくる。
「他に、もっと幸せなこともあるんじゃないか?」
「そうかな。例えば?」
「この間も言ったけど」
 耳元には彼の心臓の音が聞こえた。まだ呼吸が整っていないせいか、どきどきと速い。
「お前のことをちゃんと好きな奴の方が、幸せにしてくれるかもしれない」
「また、その話?」
 いくら鷲津の言葉でも、その話にはうんざりだ。
 だって私には好きな人がいる。他の人なんてどうでもいい。
 だけど、鷲津は淡々と続ける。
「一般的に考えたら、自分が好きなだけの奴といるよりも、自分のことを好きでいてくれる奴といた方が幸せになれるもんだろ?」
「私はそう思わないけど」

 そこまで言うなら、鷲津には好きな人がいるんだろうか。
 鷲津にとっては好きな人でも、鷲津のことは好きになってくれなくて、幸せにもしてもらえなかったような――そんな人がいるんだろうか。
 考えたくなかった。

「無理して好きじゃない人といるより、好きな人といる方が絶対いいよ」
 私は手のひらで鷲津の裸の胸を撫でさすった。
 どきどきと音がする心臓ごと、いとおしむみたいに。
「俺といて、幸せか?」
 鷲津がそんな私の背中に手を添え、尋ねてくる。
 その感触に背を押され、もちろん即答した。
「うん。すごく幸せ」
「俺はお前のこと、好きじゃないのに?」
 その返しには一瞬、言葉に詰まった。
 でもなるべく間を置かず答える。
「それでも幸せ。だって、今も感謝はしてくれてるんでしょう?」
 そして視線を上げれば、ちょうど彼も私を見下ろしていた。
 目が合うと鷲津は気まずそうに逸らし、ぼそぼそと呟く。
「まあ、な」
「それなら今はそれでいいの。十分、幸せだよ」

 好きな人に必要とされてて、こうして会ってもらえて、そして感謝されてる。
 だから、今はこれだけでも十分だ。
 いつか絶対、本気で好きにさせてみせるから。

「というか、鷲津の理屈が合ってるなら、鷲津は幸せってことじゃない?」
 気づいて告げた私に、鷲津は訝しそうにする。
「俺が?」
「そう。私は鷲津のことが好きだし、幸せにしたいって思ってる。だったら鷲津は幸せになってなきゃおかしいでしょう」
「……そういえばそうだな」
 鷲津は思いがけなかったようで、いやに素直に頷いた。
 その後で不本意そうに顔を顰める。
「なんで納得させられなきゃなんないんだよ」
 文句を言う姿がおかしくて、私は思わず笑ってしまった。
「鷲津は今、幸せ?」
「考えたこともない」
「じゃあ考えて」
「無理」
 にべもなく答えた鷲津は、その後で私を目の端に見た。
 そして思い出したようにぽつんと言った。
「でも、俺を好きだって言うのはお前くらいだ」
 その言葉は嬉しかった。
 彼本人には申し訳ないけど、やっぱり嬉しい。ほっとする。
「そっか。ライバルがいなくてよかった」
 私が胸を撫で下ろせば、
「いるわけないだろ」
 鼻を鳴らして、言葉は続く。
「口を利いてくれる相手だって、お前くらいしかいないのに」

 ――それ、どういう意味?
 たとえ友達がいなくても、鷲津には家族が、親がいるはずなのに。

 意味を私が問う前に、鷲津は私を抱く腕を緩めた。タオルケットだけを私に押しやると、自分は散らばった服を拾い集める。
「喉渇いたろ? 紅茶、入れ直してくる」
 タオルケットに包まりつつ、とっさに答えた。
「え、いいよ。そこにあるので」
 机の上には放ったらかしにされた紅茶とコーヒーのカップがある。
 それに目を向けた鷲津は、呆れたように肩を竦めた。
「もう冷めてるだろ。少し待ってろよ」
「気を遣わなくてもいいのに」
 私はそう言ったけど、鷲津はさっさと服を着て、それから立ち上がった。結局手も付けられなかったトレーを持ち、部屋を出ていこうとする。
 戸口で一旦、振り向いた。
「お前、昼飯はどうする? 何か持ってくるか?」
「ううん。鷲津がいてくれたら十分」
 もちろん本気のつもりで告げた。
 でも鷲津はそこで笑った。
「何言ってんだ。菓子パンくらいしかないけど出してやる」
「いいの? 鷲津がお腹空いた時と一緒でいいよ」
「お前が食べてるの見たら腹も減ると思うし。持ってくるよ」
「……ありがとう」
 私のお礼を背に、鷲津は部屋を出る。
 階段を下りていく足音が遠くなって、部屋の中は急に静かになる。

 ずっと忘れていた春風の音が、その時ようやく戻ってきた。
 窓の外に広がる真昼の空はぼんやりと霞んだ青色だ。
 鳥の羽みたいな花びらは、今はどこにも見当たらない。鷲津がここにいないせいかもしれない、とおぼろげに思う。私はまだ、彼を閉じ込めてはおけない。
 どうしたら、ちゃんと拘束しておけるだろう。
 どうしたら、彼が私以外の他のことに、囚われずにいてくれるだろう。
 答えはまだ見えない。でも――諦める気はさらさらなかった。
 だって、好きだから。

 結局、その日は夕方まで鷲津の家にいた。
 二人でだらだらと過ごした。振る舞われた菓子パンを分け合って食べて、水分だけはたっぷり摂って、カーペットの上でも一度、した。
「親が帰ってくるかもしれないから」
 午後六時過ぎにそう言われるまで、ずっとふたりきりでいた。

 それだけ一緒にいても、彼は私のことがわからないと言っていた。
 私も鷲津のことがよくわからなかった。何に感謝されているのか、何を恐れているのか。私の知らないところで、鷲津はどんなふうに生きているのか。
 わからなくても好きだから、一緒にいれば幸せだから、別にいいのかもしれない。
 でも、私は知りたくなっていた。

 彼しかいない鷲津の家を出た後も、明かりのつかない二階の部屋を、しばらく振り返りつつ帰った。
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