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白い羽(5)

 ――感謝って、何のこと?
 好きにはなれないのに感謝してるって、どういう意味?
 私は呆気に取られ、鷲津が浮かべた不思議な微笑を見返していた。

「言いたいこと、それだけだ」
 疑問に思う私から、鷲津が身体を引いた。
 彼の首に巻きつけていた腕もすんなり外れ、私は放り出されたような気持ちになる。
「というか今の、聞き流してくれ」
 鷲津はそう言って、机の端に引っ掛けた私の膝に両手を置いた。裏側に手を入れて膝を立てさせた後、軽く力を込めてくる。私の脚は抵抗せず、ぐらりと膝頭が開いた。
「あっ」
 声を上げたのは条件反射みたいなものだ。
 鷲津が私の脚を撫でると、どこに触れられるよりも一番くすぐったい。でも、気持ちがいいのとは違う気もする。滑らかな指が私に溶け込むまで、じっくりと時間をかけて準備をするその過程が気持ちいい。
 だけど今、彼の手になぞられる身体は普段より鈍感だった。
 待ちかねていたはずなのに上手くのめり込めない。とろけ始めた頭の片隅に、場違いな不安が居座って出ていこうとしない。

「ね、鷲津」
 私は鷲津にそっと呼びかけた。
「何だよ」
 顔を上げない彼はくぐもった声を上げる。私の太腿を撫でながら、胸にも噛みつこうとしている。さっきまでは見向きもしなかった私の身体に、すっかり夢中になっているようだ。
 こっちはそれどころじゃないのに。
「感謝してるって、どういう意味なの」
 弾む吐息の合間に尋ねる。
 鷲津は答えなかった。ちらっとだけ視線を上げ、すぐに逸らす。
 その唇が胸を食むのを、妙に冷静に見下ろす私がいる。
「私、何か鷲津に感謝されるようなことした?」
 したような覚えはなかった。

 もしあったなら、是非知りたい。
 鷲津に感謝してもらえるなら何でもする。同じことをもう一回する。何度だってしてみせる。
 だから教えて欲しかった。
 私を好きになれないのに、それでも私と会ってくれるなら、せめて教えて欲しかった。

「した」
 深く息をつきながら、鷲津が答えた。
「感謝されるようなこと、したよ。お前は」
 その熱い吐息が私の肌をかすめて、私もつられるように息をつく。
「それって、何?」
「教えたくない」
 続いた回答は素っ気なかった。
 それで私は眉を顰める。
「どうして? 知りたい。教えてよ」
「聞いてどうすんだよ」
「また同じこと、するから。これからも鷲津に感謝してもらえるように」
 私にできることがあるなら、知りたい。彼に喜んでもらえること、彼に感謝してもらえるようなことをこれからもするから。何度でもするから。
 だけどその時鷲津は、弾かれたように顔を上げた。
「――お前、まさか」
 表情が強張っている。
 少し怯えたようにも聞こえる口調で、急き込むように告げてくる。
「もうしない。もうしないから、これ以上聞くな」
「え?」
「いいんだ、済んだことだから。そうだろ?」
 早口気味にそう繰り返す。
 悪いことをしてしまって、言い訳をする時みたいな態度に見えた。

 もちろん、私は何も知らない。
 彼が何に怯えているのか、何を『もうしない』のか、何が済んでしまったことだっていうのか。
 それなのに彼はびくびくしている。私を見て、なぜか恐れをなしたようだった。

「言いたくないなら、聞かないけど」
 私は、結局そう言った。
 本当は食い下がりたかった。でも鷲津は言ってくれないだろうと思った。
 教えてはくれないだろうし、知ったところで嫉妬に狂うだけだろうという気もしたからだ。私よりも強く鷲津を拘束している、虜にしている何かが絡んでいるんだろう。
 感謝されるようなこと、した覚えはないけどな。
 私はただ鷲津のことを好きになって、その気持ちの向くままに彼を追い落としてきただけなのに――そういう気持ちを感謝の一言で括られるのは、何だか、よくわからない。
「じゃあ、聞かないでくれ」
 あからさまにほっとした鷲津が、表情を少し緩めた。安堵を隠そうともしないそぶりがちょっと憎らしかった。
「鷲津、ほっとしてる」
「いいだろ、もう。ほら、続けるぞ」
 そう言って鷲津が私の肌に舌を這わせる。ぞわぞわするほど優しく舐める。

 でも私は、そういう気分じゃなかった。
 むしろ気が変わった。
 今日は彼の好きなようにさせてあげようと思ったけど、やめた。させてあげない。

 私は予告もなしに、彼の顎を片手で掴んだ。
 そのまま軽く引き寄せると、鷲津は気を抜いていたのか、ほとんど逆らわずに身体を傾げてきた。
「くがはら……っ」
 怪訝そうな声を遮って、不意打ちで乾いた唇に口づける。
 かさかさした唇を舌で割る。
「んうっ」
 ようやく気づいて鷲津が反応を見せたけど、もう遅い。
 その時にはもう、舌までしっかり絡めていた。

 思い知らせてあげる。
 私が、どれほどに鷲津のことを好きでいるか。
 私がどれだけ彼を愛せるか。
 離せなくなるほど焼きつけて、刻みつけて、いつか好きにならずにはいられないようにしてあげる。
 好きにはなれないかもしれないって彼は言ったけど、少し前までは私に感謝さえしなかったはずだ。そういう態度じゃなかったの、ちゃんとわかってる。だんだんと丸く、柔らかくなっていく彼を目の当たりにしているから。
 感謝してもらえただけでも大きな進歩だ。
 そのうちに、好きって言わせてみせる。
 自信があるわけじゃない。でも諦めるつもりはないし――そうだ、鷲津のことをずっと好きでいる自信はある。大いにある。
 だから。

 長いキスの後、私は上目の前に立つ彼の首筋に噛みついた。軽く歯を立てつつ、手ではシャツの裾を捲る。
 忍び込んた手で素肌に触れてみる。なめらかで、温かい。
「ひゃっ……」
 鷲津は声を上げていた。
 私の手が冷たかったからだろう。逃れようと身を捩りつつ、文句を唱えてくる。
「久我原お前、手冷たすぎ」
「だったら暖めて」
 ややぞんざいな物言いだと思ったけど、言い直す気にはなれなかった。
 今日はもう、好きなようにしてやるって決めたから。とことん意地悪にしてあげる。
「机の上、すっごく冷たいんだから」
 私は言うと、今度は彼の耳朶に噛みつく。わざと濡れた音を立てながら味わう。
 それほど激しくしないうちから、彼の身体から力が抜け、くたりとするのがわかった。
「そこは……耳は、止めろっ、て」
 彼の声は途中で引っ繰り返った。
「止めろ、立ってられなくなるから……」
 なら、立っていなければいい。
 緩む口元を隠しつつ、私は再び彼を引き寄せる。彼はほとんど倒れ込むようにして身体を折り、とっさに机についたその手が机上のトレーにぶつかった。また紅茶とコーヒーが波打ったようだ。もうどちらも冷めていて、湯気すら立っていない。
「お前……」
 私の背中に腕を回した鷲津が、諦めたような顔でこっちを見る。既に頬が上気して、睨む目は熱く潤んでいる。
「毎回、おとなしくしてる気ゼロだな」
「おとなしくしてなきゃいけない決まりなんてあるの?」
 挑発するのもためらわなかった。
「鷲津だって嫌じゃないんでしょう? まんざらでもないんでしょう?」
「……かわいくない奴」
 彼が呻いた。
 そういう言い方をされると、こっちだって引けなくなる。
「かわいい女の子は好きじゃないって、この間言ってなかった?」
 覚えてる。忘れられなかった。

 あれはつまり、ちょっとくらい生意気で、ラブシーンでも黙っていないような女の子の方がいいってことだ。
 それどころか鷲津を翻弄して、焦らして、いたぶって、抵抗できなくなるくらいにめちゃくちゃにしてくれるような女の子が好きだって、そういう意味だって私は解釈した。
 だったらそういう女の子になってあげる。
 徹底的に、めちゃくちゃにしてあげる。

「鷲津が望んでるような女の子になりたいの」
 耳元にそうっと息を吹きかける。
「だから耳はっ」
 彼がとっさに目を閉じる。
 濡れた唇が開いて、喉の奥から声が零れてくる。
「本当に怖いものなしなんだな、久我原」
 呆れたようにも、感心したようにも聞こえる言葉が聞こえる。
 私はそれには応じずに、まず彼の服を脱がすことから始めた。相手があまり協力的じゃないからシャツを剥がすのさえてこずった。だけどどうにか達成して、首と腕から抜いて、床に放り投げる。
 次に、ジーンズのベルトに手を掛けた。
 だけど彼は嫌がって、私の手を外してみせる。
「やめろよ、今日は自分でやるから」
 そのまま指を絡めて、ぎゅっと握られた。
 身体よりも先に繋がれた手に、私の身体の奥が痺れる。鷲津の白くきれいな手が、私の手を固く拘束している。合わせた手のひらが、温もりでとろけていく。
「手を繋いでくれたの、初めてじゃない?」
 私は思わず口にして、今度は彼から苦笑を貰った。
「お前ってよくわからないな」
「そう?」
「手を繋いだくらいでうれしがるくせに、人の服脱がすのも平気な顔でするんだから。まともなのかそうじゃないのか、判断に迷う」
 女の子ってそういうものだと思うけど。
 些細なことが嬉しい。でも『些細なこと』だけで満足できるわけじゃない。
 だから私は、鷲津が欲しい。

 むしろ鷲津の方こそ、よくわからないことばかり言ってる気がするけど――それも直に、どうでもよくなった。
 彼が自ら服を脱ぎ、現れた白い肌を目にしたら、わずかに残っていた疑問も不安も吹っ飛んだ。
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