白い羽(4)
「脱がしにくい服着やがって……」骨張った鷲津の手が、不器用に私の着ているものを剥ぎ取り始める。
もつれる彼の指先を、私はわくわくしながら観察していた。
四月だからか、鷲津の部屋からはストーブが消えていた。
下着だけになると少し肌寒いくらいだった。
だけどそれも少しの我慢だ。ひんやりする机に腰かけたまま、私は軽く目をつむる。
「ん……」
肩を撫でる鷲津の手を、皮膚感覚だけで味わった。
彼の広い手のひらは、彼の肌と同じようにすべすべしている。ちゃんと手入れをしているんだろうか、指先にはささくれもなく、爪も短く切り揃えられている。その手が私の肌を撫でる度、なめらかに熱を残していくのが気持ちいい。
「鳥肌立ってる。寒いか?」
ブラのストラップに指を差し入れた鷲津が、私の変化を見咎めたようだ。
「だったら早く暖めて」
そう囁き返したら、溜息をつかれた。
「今からやる。黙ってろって言っただろ」
「鷲津が質問したんじゃない」
「うるさい」
気がつけば鷲津は、服を脱がせる時に緊張しなくなったみたいだ。私を抱き寄せるようにして背中に手を回し、ブラのホックを十秒かけて外した。
「外されちゃった」
胸元で緩んだブラを見下ろし、私はうっとりと息をつく。
そして鷲津がそれを腕から抜き取るのを眺める。肌が粟立つのは寒さだけのせいじゃなかった。
床に、かさりと落ちる音がした。
それが合図になり、鷲津は私の首筋に口づけた。指先とは違って、かさかさに乾いた唇が触れてくるのがくすぐったい。
生温かいキスがゆっくり下りてくる。
首筋から鎖骨へ、鎖骨の次は肩へ。
彼のキスはまだたどたどしくて、時折物足りなくなる。
「焦らしてる?」
黙ってろと言われていたけど、思わず尋ねてしまった。
当然だけど鷲津は顔を顰める。
「何だよ」
「もっと強くしてもいいのに」
催促してみる。
私は今までそうしてきた。彼の肌に痕が残るように、刻みつけるように、強いキスばかりを繰り返してきた。
同じようにしてくれてもいいのに。
ううん、して欲しかった。同じように。痕が残るくらいに。
「痕、つけて」
囁く声で告げてみる。
鷲津は顔を上げ、目を瞠った。
「いいのか? だって……」
「いいよ」
頷く私を、彼は驚いた様子で見つめている。
「後で困るだろ? 残ってたら」
「ちゃんと隠すから。鷲津だって困ったことはなかったでしょう」
「俺はないよ。でも」
何か言いたそうにして、鷲津は途中で止めてしまった。
何が言いたかったのかわからないから、私はわざと彼をからかう。
「まだしばらくは寒いから、タートルネックを着てても平気だしね」
ちょうど、以前の鷲津みたいに。
そう口にしてみたものの、彼には通じなかったようだ。
「へえ?」
鷲津は困ったように眉根を寄せ、首を傾げた。
そんな反応の割に、その気にはなってくれたようだ。
「じゃあ痕、つけるぞ」
気負ったような宣言の後、鷲津のかさついた唇が私の喉元に押しつけられる。
唇の温度は淡く、温く、とろけるようで息が詰まる。
「もっと」
私がねだると、再びキスが下りていく。さっきよりも強く唇を押し当て、皮膚を舐め、吸い上げてくる。
彼が唇を這わせ、私に痕を残していくのを見下ろすのがたまらない。胸の上に残された赤い痣のような痕を数えたくなる。
「……怖いものなしって感じだよな」
ずっと見ていたら、不意に鷲津がぼやいた。
「私のこと?」
尋ね返した瞬間、剥き出しの胸に触れられる。
軽く手を置かれただけなのに身体が震え、私は期待感とくすぐったさから笑ってしまう。
「ふふっ……」
「ほら、笑ってる」
たちまち鷲津が声を尖らせた。
今の反応、気に入らなかったんだろうか。
彼は人に笑われるのが嫌らしいから――笑われてうれしいなんて人もそういないだろうけど、彼の場合は特にそれが顕著だ。私が笑うと、いつも機嫌を損ねた。
今も鷲津は硬い表情で私を見上げている。
机に座る私と向き合い、少し身を屈め、私の胸に手を置きながらもどこか不機嫌そうだ。
「ごめん」
とっさに私は謝った。
こんな状況で彼の機嫌を損ねて、途中で止められてしまうのは困る。
だけど鷲津には、すぐさまかぶりを振られてしまった。
「怒ってるわけじゃない」
意外にも彼はそう言った。
それどころか、少しだけ笑ったようにも見えた。
「怒って、ないから」
宥めるように繰り返し、私の胸から手を離したかと思うと、代わりに再び抱き寄せてくれた。
ただでさえ冷たい机の上、彼の温もりは春の日差しみたいに貴重だった。体温を分け合うような抱擁に、私は眩暈にも似た幸福感を覚える。
今日の鷲津は積極的だ――そしていつもより、優しい気がする。
私の為に紅茶を入れてくれたり、こうして抱き締めてくれたり。
「今日はどうしたの、鷲津」
その態度が不思議でしょうがなくて、私は彼の耳元に尋ねた。
途端に鷲津がこそばゆそうに身を捩る。
「ちょ、やめ……っ。ほら、そういうとこもだよ」
「だから、何が?」
「久我原に怖いもんなんてあるのか、って思う」
そう呟く彼の、シャツ越しの熱がもどかしい。
せっかくなら直接、その素肌で温めて欲しいのに、鷲津はそうしてくれない。
焦らしているのか、それとも――。
「最初に、この部屋に来た時だって」
鷲津は言いにくそうにしつつ、語を継いだ。
「お前は割と平気そうだった。俺のことも怖くないって言ったよな。お前見てると、何も怖いものなんてないように見えるんだ。そうなんだろ?」
「え……?」
すごく唐突で、すごく場違いな質問だと思った。
なんで今、そんなことを聞くんだろう。
ほぼ裸の、しかも好き勝手していい対象の女の子を目の前にして、彼だって少なからずその気になっているくせに、変なこと聞くなと思う。
大体、怖いものがないはずがない。そんな人間がこの世にいるだろうか。本物の吸血鬼だって、日光やら十字架やらと苦手なものがあるっていうくらいなのに。
「私、怖い話とかは苦手だけど」
おねだりのつもりで彼のシャツを引っ張りつつ、私は答えた。
「テレビの怪奇特集とかは駄目なの。眠れなくなっちゃうからすぐにチャンネル替えてる。あとは和製のホラー映画も苦手かな。外国のは怖くないけど、日本のはなんか真実味あってだめ」
答えてみれば何だか普通の、当たり障りない回答になった。
当然だけど鷲津も納得しなかったようだ。
「……人間なら?」
何もせずただ私を抱き締めながら、鷲津は尚も問いかける。
「人間?」
「お化けとかじゃなくて、生きてる奴で。親とか、きょうだいとか」
ムードのない会話だ。
誰が裸で抱き寄せられてる時に怖いものの話をしたがるんだろう。まして家族のことなんて考えたくもないのに。本当に、聞いてどうするんだか。
でも鷲津の質問だから答えた。
「私、一人っ子だし。親もそんなに怖くないよ」
素直に、できるだけ正直に。
「結構放任なんだ。よその親もあんまり知らないけど」
親からすれば私は『真面目な普通のいい子』らしい。
それは親に限った話じゃなく、教師にも、クラスメイトにもよく言われた。久我原は真面目だから、聖美はいい子だから――本当の私を知ってるのは鷲津だけだ。
「へえ。うちと同じだ」
鷲津の呟きには妙な親近感さえ窺えた。
そんなところが一緒でも運命は感じない。どうでもいい。
「ね、どうしてそんなこと聞くの?」
「気になったから」
「変なの。私に怖いものがあるかどうかなんて、今は関係ないじゃない」
もう遠慮する気も失せて、私は声を立てて笑った。
そんな私から身を離し、鷲津があからさまに不満そうな顔をする。
でも不満というならこっちだって、お預け食らったままムードのない会話をさせられているんだからお互い様だ。
私はほとんど服を着ていない。胸もはだけているし、腕も脚も全て鷲津の前に晒している。今は寒さのせいで鳥肌を立てていて、早く温めて欲しくてしょうがない。
なのに鷲津は私の顔を見つめている。
身体には興味もないみたいに、強い視線を向けてくる。
あっさり脱がしておいて見向きもしないなんて失礼だ。
それとも、私の裸なんかよりも気になることが、囚われてることがあるんだろうか。
浮かんだ疑問は形を変えて、私の口をついて出た。
「鷲津は?」
声を発した瞬間、私を捉えた彼の眼差しが揺らいだように見えた。
「鷲津には怖いものってある?」
普通そういうことを聞く人は、自分にあるから疑問に思うんだろう。
だって怖いものがない人は、他人に怖いものがあるかなんて気にするはずもない。
そこまで鷲津の心を捉えてやまない『怖いもの』って何なんだろう。私はそれが憎くて、妬ましくて苦しいほどだ。そんなものより私を見て――。
鷲津の乾いた唇は、その時ぎこちなく動いた。
「あるよ」
ぽつりと、彼は答える。
「一番は、久我原。お前が怖い」
「――私? どうして?」
即座に問い返す。
正直、全く予想外の答えだった。
だって私が怖がられる理由なんてない。私はいつだって鷲津が好きで、その気持ちを彼に伝えてきた。その気持ちに嘘はひとかけらもないし、未来永劫変わることがないと誓えるほどだった。
なのに。
「お前は何考えてるかわからないし、言ってることもどこまで本気か信用できない」
鷲津は抑揚のない声で言う。
「俺のことを好きだってのが事実だとして、いつまで好きでいて貰えるのかもわからない」
でもそれを聞き、私は何となく腑に落ちた気分になる。
ああ、なんだ、そういうこと。
私の気持ちがまだ信じ切れないってことなんだろうか。こんなにわかりやすく、愛情を示してるっていうのに。鈍感なのか疎いのか、全く困った人だ。
私は笑って、反論した。
「ずっと好きでいるよ、心配しなくたって大丈夫」
鷲津は、何も言わない。唇を結んでいる。
それなら畳みかけるまでだ。
「そんなに心配なら捕まえておいてくれたらいいのに。鷲津が私を好きになってくれたら、もっと確実かも。ね、そろそろ好きになってくれない?」
私は彼の首に腕を回し、甘えるように呼びかけてみる。
すると彼は私を振り払わず、大きな手で二の腕を撫でさすってきた。
まるでいたわるように優しい手つきだった。
「お前のこと、好きにはなれないかもしれない」
続けた言葉はどこか自信なさげだ。
「でも、感謝はしてる。多分」
それなのに私の腕を優しく撫で、少しうれしそうに微笑んでみせた。