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熱情(5)

 そうしてうつぶせの姿勢になった鷲津は、酷く無防備でしどけない姿になっていた。
 ホテルの部屋の柔らかい光の下、彼の素足が照らされている。腕や胸と同じように骨張っていて、痩せた細い脚だった。肌は日に当たったことがないように白く、透き通っている。
「鷲津って、あまりご飯食べない人?」
 骨が浮いたくるぶしに目をやって尋ねた。
 鷲津は声を尖らせる。
「何だよ。また痩せてるって言いたいのか?」
 どうやらそこは触れられたくない部分のようだ。
 それなら、彼が触れられたい部分だけ触ることにしよう。

 ごろりと、鷲津の身体を仰向けに戻した。
 彼は全てされるがままだ。唇を固く結んで、私をじっと見ている。

「痛かったら言ってね」
 私は声を掛けつつ、彼の右脚に触れた。
 軽く折るようにして膝を立てさせる。それほど力は込めてないのに、鷲津は全身を硬直させた。
「痛かったら蹴るって言っただろ」
 彼の答えた声に張りが戻っている。警戒心剥き出しだった。
「そっか、そうだったね」
「本気だからな、本当にやるからな」
「わかってる。だから、足からにしようと思って」
 言うや否や、私は彼の足先を両手で包んで持ち上げた。
 丸い親指の先端にそっとキスをする。
「な……」
 彼がうろたえたように足をびくつかせた。
「やめろ馬鹿、洗ってないのに!」
「気にならないよ」
「気にしろよ!」
 奉仕しろって言ったくせに、鷲津にはまだ覚悟と自覚が足りないみたいだ。私は鷲津のものなら汚いなんて思わないし、キスするのも舐めるのだって平気なのに。
 だったら今日はじっくり、たっぷり焼きつけてあげよう。
 私は鷲津の為なら、何でもできるんだって。

 だから私は足の指から足の甲まで、唇でゆっくり口づけていった。
 甲の次はざらついた踵、次は硬いくるぶし、それから骨ばった足首、かろうじて肉がついているふくらはぎまでキスで辿る。わざとらしく音を立てながら、時々ふうっと息を吹きかけながら、彼の右脚の反応をくまなく網羅する。
「くすぐった……っ」
 何度か、鷲津が吐息交じりの声を漏らした。
 最後に膝の裏を舌先でくすぐると、彼は堪らずといった様子で呻く。
「お前っ、何なんだよその技術……!」
「ネットで調べたの、どうしたら男の人に喜んでもらえるか」
 今は何でも調べられるから便利だ。本屋さんでおかしな本を買う必要も、友達に洗いざらい打ち明けた上で情報を得る必要もない。自分一人で片がつく。
 そうして大したリスクも負わず、鷲津の為だけに尽くせるのが嬉しい。
「こうされるの、好き?」
 尋ねながらもう一度、今度は左足の指先から始める。

 足の指、足の甲、かかと、くるぶし、足首、ふくらはぎ。全てを唇と吐息と舌で撫でていく。
 さっき反応がよかった膝の裏は刺激を強めにして、逆に無反応だった辺りは甘噛みしたり、もっと舐めたりとバリエーションをつけて、何度も何度も繰り返す。細くて白い脚はその度にびくびくと痙攣する。
 鷲津の返事は一向に聞こえない。
 ただ必死に押し殺した吐息だけが聞こえてくる。

「ね、どこが好き?」
 そろそろいいかなと、膝頭にも口づけてみた。
 無言のまま、鷲津の全身がびくっと引きつる。
 手のひらで太腿をさわさわ撫でると、何も言わない鷲津が手を伸ばして枕を掴んだ。上げた両腕で縋るようにぎゅっと握りしめている。可愛い。
「もしかして痛かった?」
 自分でも意地が悪いと思う質問を彼にぶつけてみた。
「馬鹿」
 返ってきたのは吐き捨てるような一言だ。
「枕握ってるから、しがみつくほど辛いのかと思って」
「お前、最悪だ。最悪の変態女だ」
「そうかもね。そういう女の子は嫌い?」
 問い返してみたけど、やっぱり答えはない。
 諦めた私が再度彼の足を持ち上げた時、ふと、鷲津が違うことを口にした。
「久我原」
 切羽詰まった声で私を呼んだ。
 私はかじりつこうとしていた足の指から唇を離し、彼の顔を見る。
 真っ赤に上気した顔と潤んだ瞳が、何かを訴えるようにこちらを見ていた。枕は両手で握ったまま、タートルネックのセーターははだけて薄い胸まで覗いている。素晴らしくあられもない格好だった。
「聖美って呼んで」
 せっかくだから催促すると、かすれた呻きがあった。
「うるさい。頼みがある」
「頼み?」
 何だろう。私に、具体的にして欲しいことがあるんだろうか。

 好きな人に頼られるのは嬉しいことだ。
 どんなことでも聞いてあげたいと思う反面、頼みの内容次第ではちょっと焦らしてやろうかとも思っている。そうされる方が鷲津の好みにも合うだろうし、私も楽しい。

「なあに。言ってみて」
 促すと、涙を湛えた鷲津の目が迷うように泳ぐ。
「う……その」
 視線は覚束なげに宙をさまよい、ためらっているのがありありとわかった。
「恥ずかしがらなくてもいいよ。私には何でも言って」
 私は重ねて告げる。
「ちゃんと二人だけの秘密にする、誰にも言わないから」
 むしろ鍵をかけてしまっておきたいくらいだ。鷲津について、私しか知らない情報があることが嬉しい。
 どんな顔をして、どんな姿を晒して、どんなふうにされるのが好きなのか――誰にも譲りたくない、宝物みたいな記憶だった。
「喋ったら、お前の変態ぶりも晒すことになるだろ」
 鷲津は脅すように言うと、辛そうに一度息をつく。
「……笑うなよ」
 そしてそう前置きした。
「え? うん、笑わないよ」
「じゃあ……」
 ごくりと白い喉が鳴り、喉仏がその部分だけ生き物みたいに動く。
 その後で彼は言った。
「悪い。――テレビ、点けてくれ」
 私にとっては、かなり意外な頼み事だった。

 鷲津の手が震えながら、ベッドから離れた位置に置かれたテレビを指差す。
 ソファーの真正面にある大きな画面は、誰もいない空間をうっすら映し込んでいた。もう少しこっちを向いていたなら、鏡の役割も果たしてくれたんだろうけど。
 視線を鷲津に戻し、私は聞き返した。
「どうしてテレビ? 観たい番組でもあるの?」
「そうじゃない」
 彼は力なくかぶりを振る。
 それで私は首を竦め、更に尋ねた。
「じゃあ、観ながらしたくなったとか? そういうこと?」
「馬鹿、違うよ」
「アダルトビデオを観ながらするのが好きな人もいるんだって。鷲津もそうなの?」
「違うって」
 鷲津はくたびれたような溜息をつく。
 それから目の端で私を見た。捨て猫みたいに健気な眼差しだった。
「声、聞くのが嫌なんだ」
 恥じらいを含んだ微かな響きが、そう言った。
「声?」
「……自分の声」
 意味を理解するのに少しかかった。
 ああ、と私が漏らすと、彼は悔しそうな顔をしてみせる。
「男の声なんて、気持ち悪いだけだろ」
「そうかな」
「そうだよ。だからテレビ点けてくれ。何でもいいから」
 ねだる口調で言われて、正直なところ心が揺らいだ。
 鷲津の望むようにしてあげたいと思った。

 でも――。
 それとは違う別の熱も、私の中で湧き起こった。
 もしも鷲津の言う通りにしなかったら。
 鷲津が恥ずかしい、耐えられないと思うことをもっとたくさんしてみたら、彼はどうなるんだろう。

「だめ」
 だから私は、きっぱり答えた。
 見下ろす顔が愕然と引きつる。
「何でだよ」
「鷲津の声、聞きたいから」
「なっ、この、変態!」
 彼は私を罵ったけど、私の心は既に固まっていた。諦めてもらうほかない。
「自覚はあるよ」
 とっさに彼の両腕を押さえつけると、その頬に唇を寄せてみた。
「嫌だ、俺の要求を聞け!」
 彼は私から顔を背ける。
 でも私の手は振り払わない。抵抗するのはいつだって、ほんの一部だけだ。
「鷲津の声を聞くのが好きなの」
 背けられた顔の横に覗く、ほんのり染まった耳を舐める。
 声を堪えるつもりか、鷲津が唇を噛み締めた。いい表情だった。
「好きな人の声だったら、聞きたくなるのが普通じゃない?」
「……お前は、普通じゃない」
「あ、そっか。でも私は、鷲津のことが好きだよ」
 何度でも言える。
 首筋にキスをしながら、肋骨を撫でながら、片手だけを指を絡めて繋ぎながら、何度でも言った。
「好きなの。だから、鷲津のことは全部受け止めたい」
 キスの度にわざと音を立ててみる。
 大仰なくらいに、鷲津の耳ごととろかすみたいに。
「好きだから、鷲津のすることは全部、何でも覚えておきたい。そういう声だって聞きたい。隠さないで、ちゃんと教えて欲しい」
 繋いだ手のひらは汗ばんでいる。
 私のものか、彼のものかはわからない。もう判断がつかないくらい混ざり合っていた。
「鷲津を、私が一番幸せにしたい」
 昨日の痕を残したお腹を撫で回す。
 骨が浮く真っ白なお腹は忙しなく呼吸を繰り返していた。
「私が一番気持ちよくしてあげたい」
 キスの痕に唇を重ねていく。
 次々と、ゆっくりと。
 そうして鷲津が声を零し、身を捩るのを楽しむ。
「だから声は聞かせて。隠したりしないで。して欲しいことは正直に言って」
 キスの合間に私はせがんだ。
「恥ずかしいからとか、自分の声が気持ち悪いとか、そんなこと私の前では思わなくていいから」

 私といる時が一番幸せだって、鷲津に思わせたい。
 だって私は鷲津のことが誰よりも好きだし、この先も誰より愛し抜く自信がある。
 たとえ今は利用されてるだけだとしても、鷲津が必要としてくれてるのには変わりない。そうしていつか、私なしではいられないようにしたい。身も心も全部。
 心よりも身体の方がほどきやすいんだって、昨日のことで思った。昨日もあれだけ躊躇しておきながら、最後には激情に任せてくれた。あの時の鷲津は感情にも、欲求にも素直だったと思う。
 だから今日も、そしてこれからも身体の方からじっくりとほどいてあげたい。
 彼を素直に振る舞えるようにしてあげたい。

「ね、お願い。隠そうとしないで」
 私は彼の胸に顎を乗せ、なるべく優しく笑いかけてみる。
 鷲津は苦しそうな顔をしていた。額に汗を滲ませ、眉間に深い皺を刻んで、絶え絶えの息で言ってきた。
「わかった、わかったから」
 懇願する口調でもあった。
「もうこれ以上焦らすな」
 そして今までで、一番素直な頼み事、だった。
「うん、いいよ」
 もちろん私に異論はない。鷲津が素直になってくれたんだから、これ以上は意地悪をする気にもならない。
「それとお前も脱げ。俺一人でこんな格好なんて、耐えられない」
「自分で脱いでいいの?」
 私はそう尋ねたけど、彼はもう余裕がなかったんだろう。すぐさま頷いてきた。

 だから私も、自分で服を脱ぐことにした。
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