熱情(1)
予想通り、卒業式当日は快晴だった。雲ひとつない空は気分がよく、晴れがましい思いで最後の通学路を歩いた。
高校生活に拘束されるのも今日で終わり、これからは私だけが鷲津を拘束していられる。
そんな願望を抱きながら式に臨んだ。
とは言え、式の間はずっと上の空だった。
送辞も答辞も来賓の長過ぎる挨拶も、まるで頭に入ってこない。ぼんやり聞き流していた。
考えていたのはもちろん鷲津のことだ。
鷲津との、昨日あった出来事だ。
私と彼との間には決定的な関係の変化が起きた。『ただのクラスメイト』では絶対にしないことをした。感情と欲求をぶつけあう、甘美で情熱的なひとときだった――私にとっては。
わかっている。鷲津は私を信用してくれたわけではないだろうし、一度寝たからと言ってそれだけで好きになってくれるはずもない。でも、今はそれでいい。身体だけでも繋がっていられるなら十分だった。
卒業式はほぼ滞りなく、穏やかに進んでいった。
卒業証書授与の段になり、うちのクラスに順番が回ってきた時も、私はやはり鷲津のことを考えていた。
鷲津が名を呼ばれ、ぴんと背筋を伸ばして壇上へ向かうのを、皆とは違う目で見ていた。
私はあの制服の中身を知っている。
彼が卒業証書を受け取る姿を眺めやりながら、想像の中で一枚一枚、剥がしていくこともできる。
ブレザーの潰れていないボタンを外し、袖を抜き、次に赤いネクタイを緩める。
それから音を立ててネクタイを抜き取り、その後はシャツの小さなボタンを外していけば、白い白い肌が覗くはずだ。
昨日の出来事が夢でなければ、そこにはたくさんのキスの痕が残っていることだろう。どんなふうに仕上がっているか、早く見てみたいと思う。
あとは、スラックスの下だけど――彼は昨日、全てを脱ぐことを拒んだ。どうやら恥ずかしかったらしい。気にしないのにと私は言ったけど駄目だったから、次こそは彼の全てを見たいと思う。
卒業証書を受け取った鷲津が、生真面目な動作で壇上から降りる。
相変わらずのくすくす笑いや陰口が漏れ聞こえる中、私だけが違うことを考えていた。
直に私の番が訪れた。
壇上に登った時はさすがに緊張した。それでも心の片隅では彼のことを考えた。鷲津は私を見ていてくれるだろうか、と思った。
見ていてくれたらいい。
昨日は制服で覆い隠していた全てを見てもらったから、今はまだ拘束されているこの制服越しに、本当の私を見ていてくれたらいい。
「卒業証書。三年D組、久我原聖美」
校長先生の声が響く。
卒業証書の文面を、他の生徒の時と同様に読み上げる。ルーティンワークの口述でもそれなりに心にも響いた。
卒業証書を受け取った瞬間、私は解放された喜びに笑いたくなった。礼を失しない程度に、ほんの少しだけ笑っておいた。
そんな私をどう見たか、校長先生も笑ったようだ。
制服で覆い隠された私の胸中は、当然知りもしないはずだった。
これからは私だけが、鷲津を拘束していく。
他の誰にも鷲津のことを笑ったり、馬鹿にさせたりはしない。他の誰にも触れさせたりしない。
あのすべすべした白い肌も、器用そうに見えるだけの指先も、かすれた呻き声も、熱いくらいに感じられた体温も。
身体の奥に大好きな人が入ってくるという、言葉にはできないような幸福感も。
込み上げる痛みと快感の中で見上げた、彼が必死に私を貪る表情も。
前髪をかき上げた後でこっそり舐めてみた汗の味も。
重ね合った時間の全てを――誰にも渡さない。
私だけのものだ。
彼を笑う人たちには一生理解できないだろうし、理解させてやるつもりもなかった。
卒業式の後、教室ではお仕着せのセレモニーが行われた。
担任の先生が花束を受け取るのを横目に見ながら、私は密かに計画を立てている。
帰り際、鷲津に声を掛ける機会はあるだろうか。昨日まではクラスメイトの目を避けてきたけど、もう避ける必要もないはずだ。最後くらいはせめて、堂々と話をしてみたかった。
思えば私たちの関係はこの教室から始まった。
窓辺に立つ鷲津に一目で惹きつけられてしまった日のことを、私はまだ鮮明に覚えている。
思い出の場所で、もう一度だけ話すことが叶うなら。
そう願うのは恋する女の子として普通のことのはずだ。
なのに最後のホームルームが終わった途端、鷲津は教室を飛び出していき――あわてて追い駆けようとした私は、別のクラスメイトに呼び止められた。
「久我原、ちょっといいか」
声を掛けてきたのは、佐山だ。
私が飛び出そうとした戸口に、行く手を遮るようにして現われた。
彼は確かサッカー部で、他の男子と比べても体格がよかった。たちまち廊下が、鷲津の姿が見えなくなる。
「佐山、何か用なの?」
私が愛想も作らずに聞き返せば、佐山はああ、と人懐っこい笑みを浮かべた。
思えば彼はこういうふうに笑う人だった。
クラスの中では誰とでも分け隔てなく話すような人で、だから私も話しやすいと思っていたし、話していて楽しいと思ったこともあった。少なくとも鷲津と話す時よりは会話が弾んだ。
だけど話したい相手じゃない。今となっては、もう。
「今日の夕方、空いてる? ちょっと出てこれないか」
にもかかわらず、佐山は気安く話しかけてきた。
その親しげな様子が、訳もなく不愉快だった。
「特に予定はないけど、どうして?」
途端に佐山の表情がぱっと明るくなる。
「卒業パーティやるんだ、クラスの連中で集まって」
「ふうん」
そんな話、初めて聞いた。いつ計画していたんだろう。
もっともここ最近は鷲津に夢中になりすぎて、友達の話すら上の空だった。既読がつかないとよく言われていたし、何もかも聞き流していたのかもしれない。
「急に決まった話で、来れる奴だけ誘うつもりなんだ。結構皆、集まってくれるみたいだけど」
佐山はそわそわと急くような口調で続けた。
「よかったら久我原もどうかな。あ、久我原と仲のいい子は、皆来るって言ってる。だから久我原も来てくれないか?」
楽しげに輝く表情を、私も場違いに冷めた気持ちで眺めていた。
急いでるのに。
鷲津を追い駆けなくちゃならないのに、何かと思えばこんなつまらない用事で呼び止めてきて。
きっぱり断ったらどいてくれるだろうか。面倒だ。佐山がもう少し小柄だったら突き飛ばしてでも飛び出していくのに。
私が苛立っているのを、逡巡していると捉えたんだろう。佐山は更に言葉を重ねてくる。
「久我原は、俺が誘いたいと思ってた」
何だかやけに思わせぶりな言い方だった。
「どういう意味?」
訝しさから聞き返せば、佐山は愛想よく答えた。
「ほら、卒業したらあまり会えなくなるし、俺たち進学先も違うだろ」
佐山も鷲津と同様に、私の進学先を知っていたらしい。
彼とは友達と呼べる間柄ではあったけど、進学先についてまで話した覚えはない。
鷲津が私の通う大学を知っていたのは、偶然聞こえたからだと言っていた。
さすがに教室で、筒抜けの声でべらべら喋ったことはなかったはずだけど――どうだっただろう。他人に無関心そうな鷲津が知っていたくらいだ、社交的な佐山の耳には、友達の進学先くらい呆気なく飛び込んでくるのかもしれない。
そう思い、私は自分を納得させた。
納得した上で、別のことを佐山に尋ねた。
「それってクラス全員に声を掛けたの?」
私にとってはそれが一番重要だった。
鷲津が来るなら、私も行く。でも彼なら来ないだろう。
「え?」
佐山は細い目を瞠り、その後で苦笑いを浮かべた。
「さすがに全員じゃないよ。誘っても来ないだろうなって奴もいるだろ。そいつには声掛けてない」
「ふうん」
来ない奴とは鷲津のことだろうと察した。
社交的な性格の佐山でも、鷲津みたいなタイプは苦手なんだろう。
「こういう言い方したら悪いけどさ、クラスの中には誘いづらい奴もいただろ。騒がしいのが好きじゃなさそうな奴とかは楽しくないだろうから、呼んでもしょうがないしな」
佐山の物言いは嫌味ではなく、むしろ悪びれた様子すらあったけど、それでも癇に障った。
思わず言った。
「悪いけど、私も騒がしいのは好きじゃないな」
告げた途端、佐山の顔色がさっと変わった。
「え……?」
と同時に、まだぽつぽつと居残りのいた教室の空気も変わったようだ。
皆が急に話すのを止めて、静かになる。私の言葉が響いた途端、ぴんと張り詰めたようになる。
皆、私たちの話を聞いていたんだろうか。
何の為に?
「でも久我原、来るんだよな? みんな行くって言ってんだぞ」
不安そうにする佐山に、私はかぶりを振る。
「ううん、無理みたい。約束があるから」
嘘をつく。
この後、嘘じゃないようにするつもりでいるけど。
佐山は細い目を張り詰めたように見開いた。凛々しいと言ってもいい顔立ちを誉める子もいたようだけど、私はもうこの顔に飽き飽きしていた。
眺めているなら鷲津の方がいい。
これは単に好みの問題。
「さっき空いてるって言っただろ、どうして――」
「これから約束するの。ごめんね、佐山」
引き止めるような言葉はすげなく断ち切った。
未練はなかった。このクラスにも、この教室にも。
呆然とする佐山を放って、他の誰にも声を掛けないまま、私は教室を飛び出した。
もう二度とここへは来ない。
飛んでいくのは鷲津のところだ。
私たちを拘束するものなんて、今となっては何もないんだから。
――俺、お前のこと好きな奴がいるの、知ってる。
廊下を走りながらふと、昨日の鷲津の言葉を思い出す。
鷲津はそう言っていた。あの直前、まるで悪いことでもするみたいに怯えた様子で告げてきた。
でも、私たちは悪いことなんてしてない。私は鷲津が誰よりも、堪らなく好きなのだから、彼を選び取るのは当然だ。
鷲津の言う男子が、佐山のことだったのかは知らない。さっきの佐山は思わせぶりな態度だったようにも思うけど、以前友達から勘繰られたこともあって、もう関わりたくないというのが正直なところだった。
彼自身のことはどうとも思わなかった。鷲津の言った相手が佐山でも、そうじゃなくても、鷲津の単なる思い込みでもどうでもいい。
私には鷲津がいればよくて、今は切実に彼が欲しい。
制服も要らない。卒業証書も要らない。クラスメイトと別れを惜しむ時間も要らない。
何も要らないから――。
祈る思いで生徒玄関に駆け込む。
すると靴箱にはまだ鷲津のスニーカーがあった。
思わず私はほくそ笑み、靴箱の陰で彼が来るのを待つことにする。
高校生活最後の日に、胸がときめくような待ち時間を過ごしていた。