熱情(2)
生徒玄関に足音が近づいてくる度、私は靴箱の陰からそっと窺った。卒業式には遅くまで残る子が多いようで、やってくるのは在校生ばかりだ。胸に造花を飾り、卒業証書を握り締めた卒業生の姿はなかなか現れなかった。
そうして何人かの在校生を見送った後、ようやく鷲津の姿を見つけた。卒業証書と鞄を携えた彼が暗い面持ちで生徒玄関へ歩いてくる。逃げるような早足でこっちに来る。
その瞬間、真っ先に口元が緩んでしまった。
「鷲津」
彼が玄関に飛び込んできたところで、そっと名前を呼んでみる。
たちまち鷲津はびくりとして、靴箱の影から顔を出した私を見つけた。一瞬困ったように目が泳ぎ、すぐに顔を無理やりしかめた。
それから辺りを見回し、周囲に誰もいないことを確かめた後でこちらに歩み寄る。
「馬鹿、学校では話しかけるなよ」
開口一番、随分なことを言われた。
もう卒業式も終わり、クラスメイトたちとも縁が切れるというのに、鷲津は何を恐れているんだろう。
私は不思議に思って言い返す。
「もうこの学校にも来なくていいんだし、気にすることなんてある?」
「……友達がいるだろ、お前には」
鷲津はぼそっとそう言った。
別段羨ましそうでもないその呟きを、私は笑っていなす。
「私は鷲津といる方がいいな」
「……何言ってんだ」
すると鷲津は、じろじろと遠慮のない視線を向けてきた。得体の知れないものでも見るような目だ。
昨日肌を重ねた時には、私から目を逸らしてばかりいたくせに。
ふたりきりの時間こそこんなふうに見つめてくれたらいいのに、彼と来たらどうでもいい時ばかり熱心だ。
今の制服を着込んだ私を見たところで面白くも何ともないはずだった。中身の方を想像してくれてるなら別だけど、そういう目ではなかった。
「大体、こんなとこで何してんだよ」
言いながら、鷲津が彼の靴箱を開けた。
外靴を一度ひっくり返してから放り、履いていた上靴は袋にしまって、鞄の横に提げた。外靴を履く手つきがどこかぎこちなく覚束ないのを、私は抜け目なく観察している。
「鷲津を待ってたの」
靴を履き終えたタイミングで答えると、鷲津がぽとりと卒業証書を落とした。
慌てて拾った彼は、振り返ってから私を睨む。
「勝手なことするな。何か用でもあったのか」
「何にも。最後の日くらい話をしたかっただけ」
「お前、ストーカーになりそうなタイプだよな」
鷲津が鼻を鳴らす。
その言葉、否定はしない。
私はわざわざ鷲津の隣まで近づき、真正面から彼の目を覗き込んだ。彼が慌てて視線を外した、そのタイミングで尋ねた。
「鷲津こそどこ行ってたの? 教室は一番に飛び出していったのに」
「別に」
鷲津がわざとらしく息をつく。
「職員室行って、先生方に挨拶してただけ」
「へえ、偉いんだ」
そもそもそんな考えもなかった私は、その生真面目さに驚いた。
だけど彼は吐き捨てるように続ける。
「ごますって来ただけだ、最後に心証よくしておこうと思って。まあ、揃いも揃って能無し教師ばかりだったから、どうともならないだろうけど」
靴箱の蓋が叩きつけられ、乱暴に閉ざされた。
「それだけだ」
鷲津が私をちらりと見る。
見ただけで声も掛けずに、一人きりで歩き出す。さっさと生徒玄関を出ていこうとする。
彼のいない校舎には用もないから、私もすぐに追い駆けた。
三年の時を過ごした場所から、何の未練もなく決別した。
校門に辿り着く前に追い着いて、私は鷲津の一歩後を歩き出す。
三月の風はまだ冷たくて、制服の上にコートを着てても肌寒い。
「ついてくるなよ」
先を歩く鷲津は振り向かずに言う。
それでも二人、ほぼ同時に校門をくぐった。
「ねえ、今日は会えない?」
鷲津を追う私は、彼の背中を熱っぽく見つめている。
コートの下に隠れているのは、見納めとなる制服姿だ。
でも惜しいとは思わなかった。
鷲津にはもっとよく似合う格好がある。窮屈じゃないはずの姿を既に知っている。
その彼が、校門を抜けた先で言いにくそうに口を開いた。
「お前さ、昨日のことで……」
やはり振り向かないまま、ぼそぼそと言う。
「その、責任取れとか、そういうこと言うんじゃないだろうな」
「責任?」
いきなり何を言うんだか。あんなこと、ふたりで一緒にしておいて。
「変なこと言うね、鷲津」
私は吹きそうになるのを堪える。それでも笑い出しそうなのがばれてしまったのか、鷲津がむきになったように足を早めた。
置いていかれないように駆け足になりつつ、彼の隣に並び、その横顔を愛を込めて見つめた。
「責任を取らなきゃいけないこと、したと思ってる?」
そう尋ねたら、鷲津は無言で勢いよく顔を背けた。
横にぴたりとついた私を引き離そうと、更にスピードを上げる。小走りになる。
「別に。だって同意の上だったろ」
私も早足でついていく。
「そうだよ」
「じゃあ責任とか何もないじゃないか」
「ないよ」
「だったら何でついてくるんだよ」
急に鷲津が立ち止まり、勢いづいていた私はつんのめりそうになった。転んだところで助けてくれるような人ではないとわかっているので、どうにか自力でバランスを取る。
それから振り向けば、鷲津は目の端で探るように私を見ていた。寒いせいか顔が真っ赤だ。
「さっき言ったじゃない」
私は苦笑いしつつ答える。
「ふたりで会いたいの。今日も会えない? 暇なら時間作って欲しいな」
「……昨日の今日で、か」
鷲津が奇妙なものでも見るような目を向けてくる。
そう言ったからには、彼も『会いたい』という言葉が額面通りじゃないことを察しているんだろう。
その言葉一つに含まれた、深くて甘い期待混じりの意味を、ちゃんと理解しているのだろう。
だったら話は早い。
「嫌なの?」
いかにも意味ありげに笑って、尋ねてみる。
「昨日、私と過ごしてどうだった? 結構楽しめたでしょう?」
「お前っ、こんな場所で!」
叫んだ鷲津の声が裏返る。
母校が遠く見える住宅街で、悲鳴みたいに甲高く響いた。残響すら恥ずかしいのか、彼はあたふたと目を伏せる。
「私、おかしなこと言った?」
わざとらしく聞き返す。
そんなにおかしなことは言ってないのもわかっている。
健全な恋人同士だって普通に交わしそうな会話だった。そこに深い意味が含まれていると気づけるのは、既に知ってしまった人たちだけだ。
そして私と彼はお互いに、それを既に知っている。
鷲津は私の問いには答えなかった。
代わりに素っ気なく言った。
「今日はだめだ。親が仕事休んでるから、家にいる」
「ああ、卒業式だから?」
「そうだ。だからお前は、家には呼べない」
怒ったように顎を逸らした鷲津が可愛いと思う。
つまり彼も、会うとなれば彼の家で、ふたりきりの時にと考えているらしい。そういう意思を示してくれるのは嬉しい。話が早いのも嬉しい。
「鷲津は暇なの? 予定ない?」
尋ねれば、彼は面倒くさそうに鼻を鳴らした。
「暇だけど。でも言ったばかりだろ、家には呼べない」
「家で会わなきゃいいんじゃない?」
「……何だって?」
鷲津が訝しそうな顔をする。
その表情に私は笑んで、更に続ける。
「違うところで会えばいいんでしょう?」
「外で会うのか? 人目があるだろ」
半分当たりで、半分外れだ。
人目を避けたいのは私も同じ。だって人目があったら、彼を脱がせたり、触れたりはできないじゃない。会うなら、ふたりきりになれるところがいい。
だから、私は言った。
「ホテルに行かない?」
瞬間、鷲津は呆気に取られたようだ。
思わぬ言葉を聞いたというそぶりで、乾いた唇が微かに開いた。捻じ込みたくなるような隙間ができた。
でもそこから、すぐにたどたどしい言葉が零れてきた。
「な……何言ってんだ、外泊なんてできない」
ホテルと聞いて、彼が真っ先に連想するのは普通のホテルだったようだ。
そういうところもすごく可愛い。
「泊まらないよ。休憩の方」
「休憩、って」
「だから、ラブホテル。鷲津も知ってるでしょう?」
「し、知って……そりゃ知ってるけど、行ったことはない」
横を向いた鷲津は、そのまま早口で語を継ぐ。
「大体、ああいうところは胡散臭いだろ。薄汚くて暗くて、いかにも犯罪の温床になってそうだし。隠しカメラがあるって聞いたこともあるし、まともな人間が出入りする場所じゃない」
「ネットで見たところは結構きれいだったよ。お風呂も広くて明るかったし」
私ももちろん行ったことはない。
でもこういう時の為に下調べはしておいた。今は何でもネットで調べられるから便利だ。ラブホに宣伝用のサイトがあったのは驚いたけど、料金からサービス内容、部屋ごとの内装の特色に至るまで微に入り細を穿ち記されていた。
目をつけたのは駅前付近にあるラブホテルだ。近年建ったばかりらしく、ネット上での評判もかなりよかった。
「料金もそんなに高くなくて、一室四千円からだって。平日のサービスタイムは午後五時までいられて、料金も変わらないそうだよ」
「……詳しいな」
鷲津が疑わしげに呻くので、私は思わず笑ってしまった。
「調べたんだってば。で、どうなの? 行く気ある?」
卒業式の後、コートの下に制服を着たまま、手には卒業証書を携えて、私たちはしばらく見つめあった。
この状況にも、往来で交わす会話としても、到底ふさわしいものではないはずだったけど――なりふり構っていられない。卒業パーティはふたりだけで開きたい。
私は卒業を、鷲津と祝いたい。
「行くだけ、行ってみてもいい」
無言の時を過ごした後、やっと鷲津はそう言った。
真っ赤な顔で、それでも精一杯虚勢を張って注文をつける。
「変なところだったらすぐに帰るからな」
「そんな、怖がらなくても大丈夫だよ」
だからつい、からかうようなことを言ってしまった。
「怖くないっ!」
鷲津はむきになって怒鳴ると、赤い顔をぷいっと背けて去っていく。
「なら平気だね。あとで会おうね、鷲津」
私はそのいとおしい背中に声をかけ、それから急いで家に向かった。
デートの為に、着替えをしなくちゃいけないからだ。