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忘れてしまえば良いのです(5)

 仰向けになって見上げた先に、鷲津の伏し目がちな顔がある。
 彼は自分のベルトにも手をかけて、少し腰を浮かせるようにして制服のスラックスを膝上まで下ろした。その下にはいていたのは安っぽいタータンチェックのトランクスで、少しイメージと違うなと思う。
 鷲津はトランクスも脱ごうとして、私の視線に気づいたようだ。きつく睨まれた。
「見るな」
「全部脱がないの?」
「放っとけよ。どうせまた痩せてるとか言うだろ」
「私は気にしないのに」
「いいから見るな」
「はーい」
 素直に従ったのは、今の流れに水を差したくなかったからだ。
 下着も下ろすのが衣擦れの音でわかった。その後で彼は何かを探すように床に手を伸ばす。目的のものはすぐに見つかったらしく、ひと呼吸置いてから聞かれた。
「財布、開けるぞ」
「いいよ」
 二つ折り財布のファスナーが開く音。
 そしてそこから、何かビニールで包まれた何かが引っ張り出される音がする。

 それは私が買ってきたコンドームだけど、私も使うのは初めてだった。全く知らないわけではないものの、保健体育の授業では名称やその重要性は教えてくれても、いざという時のつけ方は一切教えてくれなかった。
 だから鷲津が個包装の封を切った時、ほんのちょっと心配だった。鷲津はつけ方を知っているのだろうか。本人は『馬鹿にするな』と言っていたけど、彼だって授業では習っていないはずだし、自学自習するタイプにも見えない。練習していてくれたならそれはそれで、うれしいけど。

 私の期待をよそに、鷲津はコンドームをつけ始めたようだ。
 うつむき加減になると、垂れた前髪で彼の表情は見えなくなる。でも剥き出しの肩や胸がほんのり熱を持っている赤らんでいるのは見えていたし、息を詰めているのもよくわかった。何度か大きく吐き出した呼吸は震えていて、手元が見えなくても緊張感が伝わってくる。
「ああっ、だめだ」
 やがて鷲津はそう唸ると、ティッシュに何かをくるみ、ごみ箱へ放り投げた。
 それから別の個包装の封を切る音がして、つけるのに失敗したようだとわかった。
 鷲津が再挑戦する間、私は裸のままで床の上に寝転がっていた。でも彼が苛立たしげにふたつめのごみを放った時、つい声をかけてしまった。
「どうかしたの?」
 一瞬間があって、
「……ゴム、失敗した」
 ひどく言いにくそうに、それでも正直に彼は言った。
「全部?」
「いや、ふたつ。でもお前の買ってきたものだし……」
 申し訳なさそうにしている声がかわいい。私は起き上がって彼に告げる。
「箱で買ってあるから、大丈夫だよ」
 私の顔を見た鷲津はぎょっとした様子で、あわてて目をそらしてみせた。
「悪かったよ」
「いいったら。それよりもう一度試そうよ、私も手伝うから」
「は? 馬鹿、やめろよ見るな!」
 彼の制止は聞き流し、私はあぐらをかく鷲津の手元を覗き込む。
「――わ」
「……お前、見ておいてその反応はなんだよ」
「直で見たの初めてだから。えっ、内臓がはみ出てるみたい」
「感想言わなくていい」
「こんなのが身体についてて、日常生活に邪魔じゃないの?」
「言わなくていいって言ってるだろ!」
 鷲津の機嫌を損なうのはまずい。私も鑑賞はそこまでにして、コンドームの最後の一包を手に取った。開けようとしたけど包装は意外と硬くて、何度か試しているうちに鷲津に取り上げられてしまった。
「いいよ、自分でやるから」
「私にも手伝わせて」
「手伝うって、つけたことあるのかよ」
「ないよ。それどころか、この袋から出したところも見たことない」
「なら黙ってろよ」
 言い捨てて、鷲津が最後のコンドームの封を切る。
「でもネットでは調べたよ。上にかぶせて、ゆっくり下ろしていくんだって」
 私の言葉に彼の手がぴたりと止まり、引いたような眼を向けられた。
 その視線には構わず、私は鷲津の手元に再び視線を向ける。
「せっかくだから勉強させて。この次、私がつけてあげられるように」
「変態ここに極まれりって感じだな」
 毒づきつつも切羽詰まった様子の鷲津は、私と議論をする気もないようだった。見守る私を咎めもせず、今度は慎重に、コンドームをかぶせてみせる。
 先端に載せて、丸められたゴムをゆっくりと下ろしていく。筋張った手はやっぱり震えていたけど、表情は真剣だ。もう失敗はできないと思っているのかもしれない。
 意外と毛深い根元まで慎重に下ろしていくと、鷲津は詰めていた息を大きく吐き出した。
「こうなるんだ……。ね、触ってみてもいい?」
「だめだ」
 鷲津は私の視線すら拒むように、そして待ちきれない様子で、改めて押し倒してきた。

 無抵抗で床に転がる私の脚を、鷲津が割るように開く。
 押さえつけてくる彼の手は熱く、それだけで声が出そうなほど気持ちいい。
「ここ……か? うわ、とろとろだな」
 すぐに挿れられるのかと思ったら、鷲津は先に指を入れてきた。コンドームをつける時と同じように、ゆっくりと、慎重に。その優しさがもどかしくも、うれしくもあった。
「あ……なんか、変な感じ……」
「痛くないか?」
「全然。でも本当に変、鷲津の指が入ってるなんて……」
 あの筋張った男らしい指のことを思い出すだけでもどきどきするのに、それが私の身体の中にある。慣れない手つきでも気づかうように優しく動いてくれる。たまらなく幸せだった。
「あっ、あ……!」
「うわ……食い締めてくる……」
 指の動きに思わず腰を揺らすと、鷲津は驚いたように指を抜いた。その瞬間、焼けつくような物足りなさと物欲しさを覚えて胸が詰まった。
 もっと欲しい。
 痛くてもいいから。
「い、挿れてもいいか?」
 たどたどしく尋ねられ、私は頷く。
「うん、お願い」
 さっきまで指が入っていた辺りに、何かが押し当てられるのがわかった。その大きさを思い出して期待と不安を抱いたのも束の間、それは滑るようにそこから外れた。
「あれ、う、うまく入らな――」
 鷲津は私の太腿を持ち上げる。だけど何度試してもうまく入らなかったようだ。
「はあっ、こんな難しいのかよ、くそっ……」
 焦りからか呼吸が乱れる彼に、私は手を差し伸べる。
「手伝うよ」
「わ、やめろって、触るな!」
「こうしたほうが早いもの。ほら、ここ」
 自分の身体のことは自分の方がよくわかっている。私は根元を優しく握ると、場所を教えるように導いた。やがて指よりも質量のあるものが入ってきて、じわじわと押し広げてくる。
「う……」
 鷲津が声を漏らし、目をつむった。
 途中まで入ったところで手を放す。鷲津は入ってくるのをやめない。最初は痛くないと思ったけど、途中から重鈍い痛みがやってきた。でも絶対、顔には出すまいと思う。
「は……や、やばい……」
 ゆがめた表情の鷲津が息をついた。
「大丈夫?」
 私が尋ねると、彼はうっすら目を開けて応じる。
「お前が聞くのかよ……」
「私は平気。全然痛くないから」
「嘘つけ」
 どうして嘘だと悟られたのかわからない。でも痛がったら鷲津はやめてしまうような気がして――それが愛情から来るいたわりではないことも、両想いでも恋人同士でもないことだって重々承知の上だけど、それでも――やめてほしくなかったから、告げた。
「大丈夫だから、お願い。最後までして」
「本当に、いいのか?」
「よくなかったら家まで来ないよ。それに私、鷲津のことが――」
「あっ、ま、待て。あんまりしゃべるな」
 せっかくの愛の言葉を、鷲津はひどくあわてた様子で制してきた。
 私が口を閉ざせば、大きく息を吐いてうなだれる。
「お前、しゃべると、中に響く……」
「気持ちいい?」
「……動くぞ」
 質問に答えがないのにも慣れてきた。それに鷲津の顔を見れば、聞かなくてもわかることだった。
 見上げた先で、彼は目を開けない。開けられないようだ。少しも動かないうちに息が上がって、こらえようと必死になっても唇から声がこぼれる。
「は……はあっ、ぐっ……」
 唇をかみしめるその表情が凛々しくて素敵だ。
 きれいな額には汗が浮きはじめ、前髪が濡れて張りついている。色白の胸にも汗が伝い落ちて、午後の陽射しの中てらてらと光って見えた。閉じた部屋の中に汗の匂いが漂っている。
「う……ううっ……!」
 泣いているようにも聞こえるうめき声に、ゆがみきった鷲津の顔。苦しそうなのに動きは止められず、何度も何度も繰り返し打ちつけてくる。貪るように。
 ベルトのバックルが揺れる金属音が、声と共に部屋に響く。
「あ……鷲津……」
 彼の顔を見ているだけでも高揚してきて、私も荒い息遣いで彼を呼ぶ。
 無理やり押し広げられているようで痛みはあった。同時に言葉にできないような気持ちよさも感じていて、それが鷲津の顔を眺めることで何倍にも膨れ上がるようだった。
 鷲津は本当に気持ちよさそうだ。私の顔も見ず、悪態をつくこともできず、一心不乱に動いている。それだけでこの上なく満たされた気持ちだった。
 好き。
 鷲津が好き。
 だから私で気持ちよくなってくれてすごくうれしい。それだけでいい。
「うっ、あ……ああっ」
 ひときわ大きな声を上げた後、彼は身体を小刻みに震わせながら動きを止めた。びくびくと痙攣するように震えた後、急に力が抜けて、どっと覆いかぶさってくる。
 私に体重をかけないよう、ぎりぎりのところで肘をつき、身体を支えていた。
「はあ……は……っ」
 呼吸が整わずに苦しそうにする鷲津の前髪を、私はそっと手でかき上げる。
 すると彼が顔をしかめて私を見た。でも乾ききった唇はぜいぜい言うばかりで言葉が出てこず、私はその唇にそっとキスをする。
「大好き」
 改めてそう告げたら、鷲津はやっぱり何も言わず、流れてくる汗から逃げるように瞼を閉じた。

 呼吸が落ち着いた後、鷲津はコンドームを外して幾重にもティッシュで包み、ごみ箱に放り投げた。
 それから傍にあるベッドから布団を引きずり下ろし、自分と私の上に掛けた。
 私は服を着ていなかったし、鷲津も上半身は裸で、スラックスのベルトも緩めたままだった。だけど何を取り繕う余裕もなく、二人で黙って布団に包まる。
 身体を寄せても彼は嫌がらなかった。腕にしがみついて、私はしばらく彼の温もりを楽しんだ。
 痛かったけど、しみじみと幸せだった。

「本当、だったんだな」
 ふと鷲津が呟く。
 私が視線を向ければ、気まずげに逸らされた。
「何のこと?」
「何でもない」
 緩くかぶりを振って話を打ち切ると、彼は気だるげに目を伏せる。
 前髪が汗に濡れ、額に張りついていた。それなのに布団を被って暑くないんだろうか。

 私には布団のひんやりした感触も、鷲津の身体の温かさもちょうどいいくらいだった。
 でもあまりに心地よくて、危うく眠ってしまいそうになった。慌てて目を開ける。そろそろ帰らないとまずいかもしれない。
 見れば窓の外は既に暮れ始めていた。
 三月の空はきれいな茜色をしていて、何となく、今の気持ちにぴったりだ。

「私、そろそろ帰るね」
 そう告げると、鷲津は短く答えた。
「ああ」
 布団から腕を伸ばして、辺りに散らばった下着やら、制服やらを拾い集める。
 タイリボンは鷲津が拾ってくれた。裸の腕がぐいと伸びて差し出してくれるのを、くすぐったい思いで受け取る。
「ありがとう」
 私のお礼を、彼は鼻を鳴らしてあしらった。
 それから背を向けてきたので、私も布団から這い出て、手早く制服を身に着ける。
 この制服を着るのも明日で最後だ。そう思うとせいせいした。
「そういえば、鷲津って進学先はどこ? 大学?」
 ブレザーのボタンを留めながら私は尋ね、彼が舌打ち交じりに答えるのを聞く。
「お前とは違う大学」
 手が止まった。
 私は振り向き、剥き出しになった彼の、骨ばった肩へと尋ねる。
「鷲津、私の進学先は知ってたの?」
「偶然聞いた。聞こえた。だから知ってただけ」
 彼はこちらを見ない。その言葉のどこまでが本当か、私にはわからなかった。

 でもわかったとしてもどうなるというわけじゃないだろう。彼にとってはどうでもいい、些細な事実のはずだ。
 こんなきっかけでもなければ程なくして忘れてしまうような。

「卒業してからも会ってくれる?」
 制服を着終えた私は、彼の顔を覗き込もうと身を乗り出した。
 途端に彼はうつ伏せになり、カーペットへ顔を埋めてしまう。恥ずかしいんだろうか。それとも後ろめたいんだろうか。
「考えといてやる」
 くぐもった返事が聞こえる。
「ありがとう。前向きにお願いね」
 鷲津がこちらを見ないので、私は剥き出しの肩と背中に軽いキスをした。
 それから自分の財布と鞄を掴んで、彼の部屋を出た。

 外の風は思いのほか冷たかった。
 お昼ご飯を食べていないことを今頃になって思い出す。私は空腹の身体を宥めつつ、家までの道を辿り始めた。
 見上げれば、夕焼け空が一面に広がっている。
 明日の卒業式もきっといい天気だろう。そして私も鷲津も、明日はいい気分で迎えられるだろう。
 拘束が解かれる、とても晴れがましい日のはずだから。
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