君のものなら何でも欲しい(2)
鷲津のものなら、何でも欲しい。何でもいい。全て欲しい。
冷たい視線も、怯えの色も、恥じらいも。侮蔑、嘲り、罵りの言葉も。赤らむ頬も白い首筋も震える身体も。吐息も涙も、何もかも全て。彼に向けられる悪評も、彼の存在そのものも、全て私のものにしたかった。
そう思うのもきっと恋だ。
変態じみていても。真面目ではなくても。
「もうすぐ、卒業でしょう?」
鷲津に覆い被さったまま、私は彼に打ち明ける。
「早く出ていきたいって、鷲津はさっき言ってたけど、私は嫌。卒業なんてしたくない」
この学校に、あるいはクラスに未練があるわけじゃない。
でも卒業したら鷲津とは会う機会がぐっと減る。毎日のように会える幸せを、もっと早くに実感しておけばよかった。
「せっかく自分の気持ちに気づけたのに、欲しいものができたのに――」
卒業を控えた二月になって、気づいてしまうなんて。
「鷲津ともう会えなくなるのは嫌。絶対に嫌なの」
私がそう告げた時、鷲津の顔がショックを受けたように引きつった。
思いがけない様子で、半ば呆然と言われた。
「う、嘘だろ、そんなの……」
「嘘をつく理由なんてある?」
「やっぱり、俺をからかおうとしてるとか――」
言いかけた蒼い唇に、私はもう一度指先で触れる。
そしてその指で自分の唇を、柔らかい感触の記憶を伝えるようになぞった。
「からかいでこんなことできないよ」
もし他のクラスメイトみたいに、鷲津のことをよく思っていないなら、こんなことはしない。
そもそも押し倒すような真似だってしなかっただろう。
「じゃあ……」
何か言いかけて、鷲津は言葉を呑み込む。
喉を鳴らす音の後、恐る恐る続けた。
「い、一応聞くけど。からかいじゃないっていうなら、久我原さんの目的は何?」
その問いに対する答えは、私の中に既にある。
鷲津を私のものにする代わりに、私は鷲津のものになりたかった。
鷲津の為なら何もかも捧げる気でいた。
卒業しても鷲津の傍にいられること、今は何よりその保証が欲しい。
「鷲津を、私にちょうだい」
だから私は、改めて彼に告げた。
言いながら再び顔を寄せると、今度は鷲津も逃げなかった。瞬きをしない瞳が影の中でぎらりと光り、近づく私を見つめていた。
「拘束させて。卒業しても、一緒にいられるようにさせて。そうしたら――」
至近距離で互いの吐息が混ざり合う。
どちらのものかわからない熱が、唇に触れてきた。でも熱だけじゃもう物足りない。その唇にキスしたいと思う。
込み上げてくる衝動をぐっと堪えて、私は懇願する。
「鷲津にも、私をあげる。何もかもあげる」
私には、鷲津以外に欲しいものなんてない。
だから何だってあげられる。この身体さえ惜しくない。
「私のこと、好きにしていいから」
むしろそうされたいから、言った。
「好きにって……」
鷲津が目を見開く。
その目が私の顔を見つめ、次に制服を着た胸に動いた後、慌てたように逸らされた。
「ほ、本気で言ってるのか」
「もちろん、本気だよ」
「俺がめちゃくちゃなことを言ったらどうする?」
「めちゃくちゃなことって?」
わからなくて聞き返したら、鷲津は目を合わせないままもごもごと言う。
「例えば……今ここで、その、服を脱げとか」
「なあんだ。その程度ならいくらでもするよ」
鷲津も私に少しは興味を持ってくれてる、そう思っていいんだろうか。嬉しくなって頷いたら、彼はむしろ慄いたようだった。
「どうして君は、そこまで言えるんだ」
怯え始めた彼に、私は優しく打ち明ける。
「鷲津だからだよ。他の人には、こんなこと言わない」
すると少しは納得したんだろうか。鷲津が考え込むように唇を結んだ。
私は彼が答えを出すのを待つ。
もうあと数センチ、ほんの少し近づいたら触れ合えるくらいの距離で、焦れる思いまで味わうようにじっくり止まっていた。
彼が目を閉じ、私を受け入れてくれるのを、ただひたすらに待っていた。
二人きりの教室は静かだ。
風の音と、外界の音しかしない。
新鮮な空気が絶えず入り込んでくる室内は、なのに次第に濃密になっていく何かに満ち満ちていた。ふつふつと煮詰められていくように、私たちの間にある『何か』が質を変えていく。色づいていく。
硬く冷たい教室の床が、だんだんと温くなっていくようだった。私たちの体温で溶けてしまうかもしれない。普段は同じ制服の人間ばかりが詰め込まれている教室が、柔らかく溶けて、私たちを包んで、尚もどろどろに溶けてしまうかもしれない。
目の前に鷲津の美味しそうな唇がある。乾いて、かさついていて、皮の剥けかけた、色の悪い唇がある。そのくせ彼の頬は熱を持ち、赤々としている。首筋は白くて、これも酷く美味しそうだった。
お預け状態の私は、それでも待った。待ち続けた。
不安はなく、期待だけがあった。欲求もあった。鷲津のことが好きだった。
こんなふうに思うのは恋だ。
恋じゃなければ、一体何だと言うんだろう。
結局、鷲津は目を閉じなかった。
疑うように、見張るように薄く目を開けたまま、ぎこちなく顔を近づけてきた。
唇がぶつかる。
初めてのキスは、がつんと硬い音がした。
だけど唇は柔らかくて、その瞬間、私はよくわからない感情に打ち震えた。精神的な幸福感と身体的な快感、そのどちらもがこんなごくわずかな接触で得られるなんて不思議だ。もっと、もっと欲しくなる。
私の渇望をよそに唇は、ほんの数秒で離れた。
そして鷲津は息を乱しながら声を発する。
「……本当、に?」
吐息交じりのその口調がたまらなく色っぽい。
「本当に、君をくれるのか」
鷲津が、喘ぐように問う。
「うん」
私は頷く。迷わず、強く。
それで彼は瞳に鋭い光を宿らせた。その瞬間にいろんな考えが彼の胸を過ぎったように見えた。
だけど口ぶりは淡々と、平静を装うように続けた。
「飽きたらすぐに放り出すぞ」
震える声で虚勢を張っていた。
「俺は、拘束されるのは嫌いなんだ。面倒になったら振ってやる。それでもいいなら」
「させないから、そんなこと」
根拠もなく私は言い切る。
でも本当にさせないつもりだった。飽きさせないし、振らせない。拘束し続ける。この気持ちが胸にあるうちは絶対に、永遠に。
鷲津は言葉を遮られて不満げだった。かさかさの唇が尖り気味に動いた。
「どうだか。そうやって言われること自体、気分が悪い」
どうやら私との関係においては主導権を取りたいようだ。クラスではおとなしい鷲津に、そんな一面があるのは意外だった。あるいはそれも男心というやつなんだろうか。
察した私は、逆に意地悪をしたくなる。
ちょうど、まだ至近距離にいた。少し身動ぎをすれば唇が触れ合う近さにいた。
「ねえ、鷲津」
「何だよ」
「キスしていい?」
尋ねた途端、虚勢を張ろうとしていた鷲津の表情が崩れた。うっと詰まるのも聞こえた。
「さっきは聞かなかったじゃないか」
責める口調で言われたから、言い返してやる。
「さっきは、鷲津がしてきたんでしょう」
「違う、あれは――あれじゃなくて、その前だ。首に、してきた時は」
「唇にしたいから聞いてるの」
これは、嘘かもしれない。しようと思えばいくらでもできた。さっきだってそうだ。
だけどあえてしなかったのは、鷲津の答えを聞きたいからだ。
虚勢でも何でもない、本当の答えが聞きたかった。
鷲津はしばらく私を見ていた。
狼狽がありありとうかがえる眼差しが、忙しなく動いて私を観察していた。そうして何かを思ったのだろう、繊細な少年の顔で答えた。
「……今更だ。好きに、すればいい」
本当の答えは、虚勢の裏に見つかった。
だから私は顔を彼に近づける。
「好きにするね」
宣言してから、吸血鬼の気分で彼の唇を味わうことにした。
冬の風が吹き込み続ける教室はすっかり冷え切り、外気と変わらないほど寒い。
けれど私は寒さを感じていなかった。そんな感覚も放り出して、今の幸せと、鷲津との時間を楽しんでいた。彼の唇は柔らかく、心地よい温さで、何度キスを繰り返しても飽きることはなかった。
鷲津はどうなんだろう。私を拒むことはなかったし、キスの合間に薄目を開けて窺えばすっかり酔ったような顔をしていた。とろんとした目がいとおしく、もっと欲しくなる。
さすがに教室でそれ以上は拒まれたけど――。
「ここじゃ、だめだ」
制服のボタンに手をかけた私の手を押し返し、鷲津が荒い呼吸で訴える。
「今度――声をかけるから。呼んだらすぐ来い、わかったな」
命令の口調に慣れていない不器用さが覗いていた。
でも私は素直に頷く。
私は欲しいものを手に入れた。
この先も、いくらでも手に入るとわかって、そのことにとても満足していた。