人形の夢と目覚め(1)
朝、上靴に履き替えようとして、違和感に気づいた。中に何か入っている。
指を差し込んでみると、小さな、硬く尖ったものに触れた。引っ繰り返したら転がり出てきた。――極限まで小さく丸められた紙切れだ。
随分と念入りに折り畳んである様子を見て、私はある人の顔を思い浮かべた。
確証はないけど多分、彼だ。
紙切れはコートのポケットに隠して、何食わぬ顔で上靴を履く。
教室へ辿り着いてすぐ、私は鷲津の顔を探した。
卒業まであとわずかという時期にもかかわらず、私は鷲津が教室の、どの席に座っているのかさえ知らなかった。昨日の放課後まではまさにそういう存在だった。
そして鷲津はいた。廊下側の前から三番目の席で本を開いていた。朝の教室で参考書を見ているのは彼くらいのもので、喧騒の中、見るからに浮いていた。
私が登校してきたことには気づいていないようだ。気づいたとしても、笑いかけてくれるとは思えないけど。
「聖美、おはよう」
「……あ、おはよう」
友達に名を呼ばれて、私はそちらに向き直る。
クラスにも仲のいい子は数人いた。登校していくと声を掛けてくれて、それなりに楽しい話も、ある程度重い相談もできるいい友達だ。
だけど、彼女たちに昨日の出来事を打ち明けようとは思わない。鷲津の評判がどんなものかは知っている。うっかりばれようものなら、鷲津に迷惑を掛けてしまうだろう。
コートのポケットの中身が気になる。
昨日のことを思い返すと、自然と喉が鳴った。
「ねえ聖美、昨夜既読つかなかったけど忙しかった?」
友達が話しかけてくる。
上の空で私は答える。
「ごめんね、ちょっと忙しくて電話開けなかった」
嘘だった。
電話を開かなかったのは本当だ。でも忙しくはなかった。家に帰ってからはほとんど何も手につかず、メールの返事をする気になれなかった。
昨日の夜はずっと鷲津のことを考えていた。
鷲津に関わらない事柄は何もする気が起こらず、ひたすら鷲津との、放課後の教室でのやり取りを反芻していた。夜も寝つけないほど彼に夢中だった。
「ああ、いいよ。別に大した用じゃなかったし」
何も知らないその子は笑っている。
「ただ佐山が気にしてたよ。あいつ本当に聖美のことばっか気にしてるからさ」
話の内容が頭の中を上滑りしていく。
それでいて彼女が見せる無邪気な笑顔に、胸がざわめいて仕方なかった。
昨日の出来事を彼女は知らない。彼女どころか、この教室の中で昨日の出来事を知っているのは私と鷲津の二人きりだ。秘密の共有というフレーズが脳裏を過ぎり、いてもたってもいられなくなる。
自分の席に鞄を置くと、低い声で友達に告げた。
「ちょっと、保健室行ってくる」
「え、どうしたの? 具合悪いの?」
「起き抜けからずっと頭痛かったの。薬貰ってくる」
我ながら大仰な嘘だと思った。トイレに行くと言えば済んだかもしれないけど、それだと彼女らについて来られそうで困る。今だけは困る。
「久我原、どうかしたのか?」
別の友達の声が割り込んできた。
「あ、佐山。聖美が頭痛くて保健室行くって」
「なら俺、ついてくよ。一人だと心細いだろ」
佐山の申し出にもひやりとしたけど、平静を装って断った。
「ホームルームに間に合わなかったら悪いし、いいよ。心配しないで」
出来る限り力なく笑った。
心配そうな視線を振り切り、わざとらしく額に手を当てながら教室を後にする。
出て行く直前、鷲津へ視線を送ってみたけど、彼はやはりこちらを見ていなかった。
保健室へは行かなかった。
まず、屋上へ続く非常階段へと逃げ込んだ。
最上段に腰を下ろし、コートのポケットから例の紙切れを取り出す。開こうとすると指先が震えた。動悸の激しさも自覚しながら、紙切れの中身を検める。
皺くちゃの紙の中、整っているけれどどこか神経質そうな字が覗いていた。見たことのない筆跡だった。
文面に視線を落とせば、知らず知らずのうちに口元が緩んだ。
『今日の放課後、学校裏手にあるコンビニ前へ来い。都合が悪ければ放課後までに、この手紙と同じ方法で連絡しろ』
愛想のかけらもない、ぶっきらぼうな手紙だった。
それでも、抱き締めたくなるほどに嬉しくて、いとしい手紙だった。
私には確信があった。間違いない。鷲津だ。
また彼と繋がりが持てる、そう思った途端、喉が音を立てて鳴る。
こんなに早く連絡をくれるとは思わなかった。
教室では口も利いてくれないだろうと踏んでいたので、最悪卒業まで待つ必要があるかと覚悟もしていた。なのに昨日の今日でコンタクトを取ってくれるなんて、嬉しい。鷲津も昨日の出来事を、多少なりとも印象深く感じてくれたのだろうか。
そうだとしたら。
二月、教室の外は指先がかじかむほど冷え込んでいる。屋上へ通じる扉は寒風にがたがたと揺れ、隙間風も酷かった。
なのに私は頬の火照りを覚え、しばらく階段から立ち上がれなかった。指先で手紙の皺を伸ばせば、紙の白さが鷲津の首筋を連想させて、つい舌なめずりをしてしまう。
早く、放課後になればいいのに。
退屈な時間をやり過ごし迎えた放課後、私は一人で学校を出た。
仲良しグループの中でも、私だけがバス通学だった。だから一人きりになるのはたやすかった。念の為に遠回りのルートで、約束のコンビニへと向かう。
鷲津は既に、そこにいた。
コンビニの前ではなく、駐車場のある側壁の前に立っていた。
私が足早に歩み寄るまでじっとこちらを見ていた。そのくせ、目の前に立つと視線を逸らされた。
「お待たせ」
私は思わず笑んでいた。
あの手紙の送り主がやはり鷲津だったこと、こうして会えることに堪らなく幸福を感じていた。
「別に」
呟きほどの微かな声で鷲津が応じてくる。
心なしか、白い吐息まで震えているようにも見えた。
「別に待ってない。それより、本当に来るとは思わなかった」
言葉の厳しさとは裏腹に、ぎこちなく私を見てくる。目が合うとすぐに逸らす。白い頬が赤らんでいるのは寒さのせい、だけだろうか。
地味な黒のコートを着込んだ姿を間近で眺め、改めて思う。
とても好き。鷲津が好き。
「来るよ。当たり前じゃない」
私の声も震えているのか、それとも浮ついているのかわからない。高揚しているのは確かだった。
「鷲津の誘いなら断るはずないもの」
告げると、鷲津は硬い動作で首を竦めた。
「どうだろうな。俺はまだ、お前のことを信用した訳じゃない」
その言葉を聞いた途端、私の唇からはほとんど意識せずに笑いが零れた。ふふっと声を立ててしまって、鷲津に睨まれる。
「なぜ笑うんだ」
「だって、『お前』って呼んでくれたの、初めてでしょう?」
昨日までは『君』と呼んでいたのに。
まるで本当に鷲津の所有物になってしまったみたい。そんな気がして、嬉しい。
彼自身には、随分疎ましそうな顔をされてしまったけど。
「勘違いするなよ。『君』と呼ぶのさえ馬鹿馬鹿しいからそう呼んだだけだ」
「ふうん」
「というか、あの手紙が俺からだって確信でもあったのか」
蔑むような眼差しを作る鷲津に、私はすぐに頷いた。
「そんな気がしたの。あなたからの手紙だろうって」
「怪しまなかったのか。俺が例えば、君――じゃない、お前に復讐を企んでるとか、そういうふうには思わなかったのか」
「ううん、ちっとも」
復讐されるようなことをした覚えはない。かぶりを振れば、鷲津はやがて溜息をついた。
「さっきも言ったけど、俺はお前のこと、信用してるわけじゃないからな」
「どうして?」
昨日あれほど言ったのに、まだ私の気持ちを疑っているらしい。今日も言い聞かせる必要があるだろうか。それなら、頑張ろう。
「いたずらの可能性もあると思ってる」
鷲津の目つきが、少し変わった。値踏みするような目。
「他の連中と結託して、俺をからかう為にあんな真似をした。……どうだ? いい読みだろ?」
「ちっとも。疑り過ぎだよ、鷲津」
誤解を解こうと私は笑った。出来る限り軽く言ってあげたつもりだったけど、かえって鷲津は腹を立てたようだ。ふんと鼻を鳴らされた。
「とにかくだ。俺はお前を信用してない。だから学校の中では絶対に口も利きたくないし、外で会う時も他の連中の介入できないような場所だけを選ぶ。当然、指定するのは俺だ。お前に選択権は認めない」
「それでいいよ」
即座に頷いた私を見て、鷲津が息を呑む。
だけどすぐに眉を顰めて、こちらを睨みつけてきた。
「本当に俺を陥れようとしてるなら、今のうちに帰れよ。どっちにしたってお前のいいようにはさせないけどな」
「そこまで疑うなら、どうして私と会ってくれたの?」
てっきり昨日のことで、警戒されてしまうんじゃないかと覚悟していたのに。
まして本人が、復讐云々と言い出すくらいだから、昨日のことはよい記憶とはまだ思ってくれていないようだ。
だから鷲津の方からコンタクトを取ってくれるとは予想していなかった。
そうして会ってくれようとしたのは、なぜ?
「勘違いするな」
念を押すように彼は言う。
「お前を利用してやろうって決めたんだ。散々好きに扱ってやって、飽きたら放り出してやろうって、そう思ってるだけだ。笑っていられるのも今のうちだけだからな」
悪ぶった台詞は言い慣れていないのか、声も吐息も震えていた。精一杯虚勢を張っているのがわかって、むしろいとおしくなる。
彼はどうしてこんなに可愛いんだろう。
彼の可愛さに、どうして昨日まで気づけなかったんだろう。
「鷲津の好きにしていいよ」
そう答えた私を、鷲津はきっと睨んだ。
その後で踵を返し、コンビニの側壁から離れようとする。
「待って」
すかさず呼び止めた。
「どこへ行くの?」
「俺が決めるって言ったばかりだろ。黙ってついてこいよ」
立ち止まりも振り返りもしない鷲津。仕方なく、急いで追い駆ける。
「じゃあ、所要時間だけでも教えて。遅くなるようなら家に電話しないと駄目だから」
私の言葉に、彼は少しの沈黙の後、答えてくれた。
「徒歩で七、八分。目的地は俺の家」
閑静な住宅街を、私たちは縦に並んで歩いた。
鷲津は私よりも先に進んで、時々ちらちら振り向いてくれた。だけど声を掛けてくることはなく、お互いに無言のままでいた。
空っ風の冷たい日だった。
それでも寒さは感じなかった。頬の火照りと胸の高鳴りを、私は正直に自覚していた。