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君のものなら何でも欲しい(1)

 床にへたり込む鷲津に、私はすかさず覆い被さった。
「く、くがはらさ――」
 私を見上げる鷲津が声を震わせる。
 その隙に細い両脚の間に膝を割り入れ、閉じられないようにした。同時に肩を挟むように両手を床につき、彼が身動きできないように閉じ込める。肩まである私の髪が鷲津の頬に触れ、彼が身震いをするのがわかった。
「な、何だよこれ、どういうことか……」
「わからない?」
 私は、私の影に覆われた鷲津を見下ろしている。
 こうして光が遮られると、鷲津の色の白さは一層際立って見えた。透けるような肌がなめらかで、きれいで、触ってみたくて仕方がない。
「押し倒してるの」
 だめ押しで告げると、鷲津は目を白黒させた。
「ど、どうしてだよ」
「どうしてって、言ったばかりでしょう。鷲津を拘束したいから」
 私は逸る気持ちを抑え込むように、まだ制服を着ている彼の胸に触れた。
 剥ぎ取ってみたい、直に触れたい衝動を堪えながら軽く撫でる。私のものとは違う、薄くて硬くて、服越しにも骨の形が感じられるような胸だ。
 見てみたい。触ってみたい。

 ずっと、男の子に興味がなかった。
 一緒にいて楽しい子や、ずっと話していたくなるような子はクラスにもいた。でも恋愛的な意味で興味があるかといえばそうではなくて、そういう男子とキスしたり、触れ合ったりする可能性を考えると気持ち悪くてしょうがなかった。
 かと言って同性に興味があるというわけでもなく――性的な話題を毛嫌いしている私のことを、友達はピュアだ、純情だと言ってからかった。私自身、潔癖症のきらいがあるんだと思い込んでいた。
 でも違った。
 そういうものに興味がなかったのは、それだけ惹かれる相手に出会ってなかったからだ。
 鷲津とは、そういうことをしてみたい。
 飢えと渇きに衝き動かされるように、私は思う。

 だけど鷲津は、白い首筋を震わせ呻いた。
「変態」
 非難がましい言葉とは裏腹に、湯上がりみたいに火照った顔をしている。目も潤んで、きらきらと美しく揺れている。
 ネクタイを首からぶら下げて、シャツから伸びる首筋も、喉仏も無防備に晒したままだ。
 そして一向に立ち上がる気配がない。私をはねのけようと思えば、できないはずがないのに。
「君みたいな女を、シキジョウマって言うんだ」
 詰るような口調で鷲津は言い放つ。
 彼の唇はかさかさに乾いて、薄皮が剥けかけていた。水分が必要だ、と私は思う。

 それにしても、シキジョウマって。
 色情魔、と漢字に変換されるのに、三秒のタイムラグがあった。
 生まれて初めて言われた。色情魔。ふうん。
 言われたところで、それが自分自身に正しく当てはまるのかどうかわからなかった。好きな人を感情の赴くままに押し倒しただけだ。誰にでもこんなことをするならそう呼ばれても仕方ない、でも私は鷲津だけだ。
 どうしても、鷲津を拘束したかった。されたかった。
 そう思うのは変態的だろうか。

「嫌?」
 聞き返す私の声が、やけにはっきりと響いた。
 窓が開いた教室は、風の音以外は驚くほどに静かだった。お互いに黙ると、遠くから車のクラクションや鳥の鳴く声が聞こえてきて、その音のせいで場違いな穏やかさに支配されていた。
 鷲津が乾いた唇を動かす。
「い……嫌に決まってるじゃないか」
 微かに触れる吐息が熱い。
「誰がこんなこと、こんな、ところで、したがるって言うんだ」
 彼は言葉に迷うような、ためらう仕種を見せている。
 自分が押し倒されて、何をされようとしているのかわかっているくせに、それを言及することは恥ずかしいみたいだった。
 そんな鷲津の姿に、私の心は再び打ち震えた。
 こういう時は恥ずかしがるんだ。鷲津の知らない一面を見られてすごく嬉しい。もっといろんな顔を見てみたい。
「どうせ、からかってるんだろ」
 私の高揚とは裏腹に、鷲津は冷たくこちらを睨む。
「他の連中と一緒になって、俺をからかって、笑ってやろうって魂胆だろ。どっかに誰か隠れてるんじゃないのか。知ってるんだからな、お前らがいつも俺をどう言ってるのか――」
 まくし立ててきたけど、続く言葉は継がせたくなくて、私は彼に顔を近づけた。抵抗さえされなければそのまま唇を塞ぐつもりだった。
 だけど彼が、ひゅうと喉を鳴らして身を引いたので、私の企みは実行されなかった。
 乾いた唇が遠ざかる。彼の紅潮した顔は、まだ眼下にある。

 鷲津がクラスでそういう扱いを受けているという噂も、確かに耳にしていた。
 協調性に欠け、クラスで浮いた存在の彼をからかってやろうという男子は多かったようだ。一度、偽のラブレターを送りつけられ、教室のゴミ箱に破り捨てる鷲津の姿を見たことがある。それを動画で撮って回してきたから、私は黙ってそれを消した。
 私にとっての鷲津は、昨日までは本当にどうでもいい存在だった。他の男子と同じで興味もなかった。友達が公然と陰口を言うのさえ聞き流してきた。
 でも、その彼が今日、どうでもよくない存在になった。

 初めてだった。
 こんなふうに、人に惹きつけられるのは。
 初めてにもかかわらず、私は興奮の中でもどこか冷静だった。自分が何をしたいのかもよくわかっていたし、どうすればいいのかも知っていた。潔癖症だと思っていた自分に、真っ当な性欲があったことをすんなりと受け入れていた。
 それでいて衝動は強く、理性では抑えきれそうにない。
 今すぐにでも拘束したかった。何もかも、鷲津の全てを。

「からかってなんかいないのに」
 私の声は震えていない。
 震えているのは心だけで、声はひたすら真っ直ぐに響いた。堂々としていたかったし、いられたと思う。この想いは真っ当でも、真面目でもないだろうけど、でも――本当だ。嘘じゃない。
「私、本気なの」
 そう告げると、鷲津の目がゆっくり見開かれた。
 ぎょっとしたように私を注視して、静かに熱い息を吐く。私の髪の先が震えた。
「本気って言ったのか?」
「うん、本気」
「何を、言ってるんだか……」
 わからない、と言いたげに首を横に振る。
 その後でまた、鷲津は私を見つめる。
 今度は何かを探るようだった。私の心を、覗きたがっているようだ。

 見せてもいい。
 見られてもいい。
 私はいつでも曝け出す用意があった。初めてのことなのに、そうしたいと思った。

 鷲津が考えを巡らせるように、長い睫毛を伏せた。
 何を考えているのかはわからない。覗けるのなら覗いてみたい。たとえその胸の中、私への悪口や罵りの言葉や、冷たい気持ちがいっぱいに詰め込まれているのだとしても、知りたかった。
「久我原さん、君は――」
 呼吸ごと震わせて、鷲津は言葉を続けた。
 触れる吐息が本当に、焼け焦げるみたいに熱い。くすぐったくて身を捩りたくなる。
「君は、誰にでもこういうことをするのか」
 喘ぐようなリズムで彼が言う。
「そんな子じゃないと思っていたのに――そんな、君は、そういう子じゃ」
「ううん」
 私は待ち切れなくなって、素早く答えてしまった。
「違うよ。誰にでもじゃない。鷲津だけ」
「でも、他の奴にもそう言うんだろ」
 鷲津は精いっぱいの嘲りを込めてきた。
 むしろそうすることで、普段の彼らしさを保とうとしているように見えた。それはきっとただの虚勢だ。虚勢だと気づけたのは、恋愛感情ゆえだ。
「他の奴って誰?」
 問い返したら何だか笑えてきた。

 おかしかった。今まで、いちクラスメイトの私を真面目な子だと捉えていたくせに、一息に飛び越えて変態だの、色情魔だの、他の奴にも同じことを言うだのと。
 鷲津の中で私の印象が変貌を遂げていくのが、面白くて堪らない。

「笑うな」
 咎める声が上がったので、私は笑うのを止めた。
 でもおかしい気持ちは変わらずに、明るく言ってみた。
「本当に鷲津だけなのに」
「まだ言うのか。こんなふうにされて信じられるはずがないよ」
「本当だってば。私、初めてだから」
 初めて。
 様々な意味で、何もかもが初めてだった。
 そう口にした時、鷲津が身体をびくりと震わせた。何か気まずそうな顔をして、それでもまだ疑わしげに言い返してくる。
「嘘つけ」
「嘘じゃない。私、こんなふうに誰かに惹かれたこと、なかった」
 なかった。本当に。

 今までにしてきた恋は偽物なんじゃないか。
 そう思うくらい鮮烈で、激しい感情だった。
 当たり前のようにただ思った――鷲津が欲しい。拘束したい。されてしまいたい。お互いに。
 拘束したい。その為になら私は何でもできそうだ。今まで誰にもしたことのない行為ですら。

 例えば今みたいに、手を伸ばして、彼の白い首筋を指先でなぞることとか。
「や、止め……」
 鷲津の喉がひゅうと鳴る。
 隆起が上下する。噛みつきたくなるような、白い、本当に白いその部分。
「初めてなの」
 私は指先を、彼の顎まで運んだ。
 それでまた鷲津がびくりとしたけど、気づかないふりをしておいた。
「一目見ただけでその人に、強く惹きつけられたのも。その人を拘束して、自分のものにしたいと思ったのも。その人に拘束されて、ずっと傍にいられるようになりたいと思ったのも」
 顎の上には唇がある。
 私の指先が下唇に辿り着く。柔らかいけどかさかさしたその部分は、教室に吹き込む風のせいか色が悪い。
 色づけてあげたいと思う。
 そして許されるなら、潤してあげたいと思う。
「鷲津の全てが欲しいと思った。鷲津のものなら何でも欲しい、と思った。全部初めてのことだよ。今日が、今が初めて」
 指をつうっとすべらせる。
 触れてみた上唇の中央はほんの少し尖っていた。
 私の指がそこを撫でると、鷲津はまた身体を震わせた。
「やめっ……」
 呻く彼の目尻に涙が滲んでいる。
 そういう仕種の一つ一つが、いとおしかった。
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