Tiny garden

世は全てこともなし

 駅の改札を抜けると、すぐに鳴海先輩の姿が見えた。
 今日は黒い長袖シャツとベージュのチノパンという服装で、改札前に姿勢よく立っている。私がそちらへ駆け出すと、読んでいた本を肩掛け鞄にしまい、ほんのちょっとだけ微笑んだ。
「おはよう」
「おはようございます、先輩!」
 清々しい気分で挨拶を返せば、先輩はさっきよりもわかりやすく笑ってくれた。
「朝から元気だな。通学にはもう慣れたか」
「はい。と言っても、高校と路線変わりませんからね」
「それもそうだ。慣れるも何もないな」
 私たちは並んで歩き始め、まずは混み合う駅の出口へと向かう。
 見慣れた駅のコンコースは学生や会社員と思しき人たちで混雑していて、ぼんやり歩いていると駆け足の人に衝突しそうになる。そのせいか、鳴海先輩はいつも私の手を握ってくれる。
「あっ、ありがとうございます」
 手を引かれながら私がお礼を言うと、目だけでこちらを向いた先輩が淡々と応じた。
「駅を出るまでだ。外に出たら離すぞ」
「はい」
 指のきれいな、器用そうな先輩の手を握り返して、私は喜びを噛み締める。
 このままずっと駅の中にいたい――なんてことをうっかり口にしようものなら先輩に叱られてしまうだろうから、言わないけど。
 同じ大学に通うことになったからこそけじめをもって私と接したい、というのが鳴海先輩の考えなのだそうだ。その為、こうして一緒に通学する間も必要がない限りは手を繋がないし、腕を組むなんてもってのほからしい。私としてもオンオフを弁えて接するのは大切なことだと思うから異存はない。正直、鳴海先輩と同じ大学に通っているというだけで十分すぎるほど嬉しく、幸せだった。

 今年の四月、私は晴れて大学生となり、再び鳴海先輩の後輩になった。
 新生活は意外と穏やかに幕を開けていた。何せ通学に使うのは高校時代と同じ電車だし、降りる駅も同じだ。制服がなくなったことで毎朝何を着ていこうか悩むのではないかと思っていたけど、先輩に会うのだと思えば意外とすんなり決まるものだった。講義室で受ける授業にも慣れつつあり、既に何人か、連絡先を交換し合う友達もできた。これから新歓シーズンもたけなわという時期だけど、鳴海先輩を心配させない程度に、控えめに楽しもうと思っている。
 そして大学生活が始まってからというもの、予定が合う日の朝はこうして、鳴海先輩と待ち合わせをしている。初めは私が先輩のアパートまで迎えに行くと言ったのだけど、鳴海先輩が『どうせ時間に余裕があるから』と駅まで来てくれることになった。わざわざ駅まで来てもらうなんて大変じゃないかと私は恐縮したけど、こういう時に気を遣うと先輩はかえって嫌がるし、私としても先輩と少しでも長く一緒に歩ける方が嬉しい。だから結局、お言葉に甘えてしまった。
 高校時代は一度としてできなかった二人一緒の登校を、こうして実現できたのは嬉しい。
 さすがにこれから毎日一緒というわけにはいかないけど、それでもできる限りは一緒に通えたらなと思っている。

 駅を出た後で、先輩は宣言通りに私の手を離した。
 手を繋げないのは寂しいけど、最近の鳴海先輩は歩くペースを合わせてくれる。おかげで私も息を切らさずついていくことができた。
「授業の方はどうだ。もう慣れたか」
 歩きながら先輩が尋ねてくる。
 真面目な人だけに、毎朝の通学中の話題はほとんどが大学のことばかりだ。それだけ新入生である私を気にかけてくれているのだと思う。
「何とかやっていけてます。先輩のおかげで履修登録も済みましたし」
 私の答えを先輩は満足げな顔で聞いている。
「助けになれたなら幸いだ。困ったことがあったらいつでも言うといい」
「ありがとうございます」
 今更言うまでもないことだけど、鳴海先輩は非常に頼りがいのある人だ。スタートしたばかりの大学生活が平穏そのものなのも、先輩という優秀なアドバイザーがいるおかげだと思う。もしも先輩がいなかったら、私は星の数にも匹敵する履修科目に目が眩んで、一人でまごまごするばかりだったに違いない。
「では今度、大学をあちこち案内してもらえませんか」
 せっかくなのでねだってみたところ、先輩は二つ返事で了承してくれた。
「そうしよう。近いうちに時間を作る」
「嬉しいです」
「さすがにあれだけ敷地が広いと、新入生は迷いやすいだろうからな」
 そう呟いた先輩が、ふと何かを思い出すような顔になる。すぐに笑いを堪え始めて曰く、
「身近にかつて、構内で遭難しかけた奴もいることだ。お前も早く覚えてしまうといい」
「が、頑張ります」
 私は慌てて顎を引く。
 実際、大学の敷地面積は途方もなく広大で、慣れない新入生なら迷ってしまうのも仕方のないことだろう。大槻さんが鳴海先輩と出会った時の話はずっと前に聞いていたけど、私も大学に入ってみて、これなら遭難しかけるのも頷けたし、そこで出会って助けてくれた人とはいい友達になれるだろうなと思う。
 そんな話を続けているうち、道の先に大学の広大な敷地の一端が見えてきた。
 二人で歩いていると大学までの道のりもあっという間だ。高校時代はできなかったことを実現させている、朝のささやかな時間だった。

 しつこいようだけど大学は広い。入学して一ヶ月未満の私にとっては手の込んだ迷路のように思える広さだ。
 おかげで鳴海先輩と、構内でばったり顔を合わせるという機会は稀だった。先輩に会いたければきちんと約束をして待ち合わせなければならない。
 今日はお互い時間が空いていたので、昼休みを一緒に過ごすことにした。学食で落ち合い、二人でご飯を食べる。
 学食に到着したのは私の方が先だった。先輩が言うには、春先の食堂はとても利用者が多いらしい。今日も食堂内は学生たちでごった返していて、私は空いてる席を探すのに一苦労だった。
 どうにか二人分の席を確保した五分後、鳴海先輩は早足気味に学食へとやってきた。
「遅れて悪かった。待たせたか?」
 私の顔を見るなり気遣わしげに聞いてくる。
 そんなに待ちくたびれた顔をしていただろうか。私は苦笑しながら首を振る。
「いいえ、大丈夫です。ご飯にしましょうか」
「ああ」
 私たちは代わる代わる席を立ち、昼食を購入した。
 うちの大学の食堂はよくあるタイプの食券制で、券売機から希望のメニューの食券を購入し、注文時に手渡すシステムだった。価格はどれも町中のチェーン店など比較にならないほど安く、その上とても美味しい。
「それは、オムライスか?」
 私がテーブルに持ち帰ったトレーを見て、先輩は興味深げな顔をする。
 鳴海先輩はこういう洋食の定番メニューをあまり知らない人のようで、例えばカレーは給食くらいでしか食べていないという話だし、自分で作ることもないらしい。澄江さんのお歳を考えれば当然のことなのかもしれない。
「何か無性に食べたくなっちゃったんです。よかったら、先輩も一口どうですか」
「いいのか? では交換ということにしよう」
 そう言って、先輩も自らのトレーを指し示す。今日のメニューは肉豆腐定食のようだ。
「先輩は、お昼はいつも和食派なんですね」
 何度か学食で一緒に食事をしたけど、先輩はいつも白いご飯の定食メニューを選んでいる。私の指摘に鳴海先輩は当然のような顔をする。
「ご飯の方が腹持ちがいい」
「確かに麺類だと消化がいいのか、すぐお腹空いちゃいますよね」
「そうだな。腹が減ると午後の講義に差し障る」
 真面目に答える先輩は相変わらず痩せてすらりとしている。そのスタイルの維持に和食が一役買っているというのであれば、私も明日から三食全てを和食にしてもいいくらいだと思う。
 もっとも今日のところは既に注文してしまったから、私のお昼ご飯はオムライスだ。すごく食べたかったのも事実だし。
 私は先輩にオムライスを分けてあげた。代わりに先輩からは肉豆腐を味見させてもらって、二人で楽しくご飯を食べた。
「そういえば、うちのサークルでも新歓をやるらしい」
 食事をしながら、鳴海先輩が私に言った。
「来週の金曜だ。もし空いていればお前も顔を出すといい」
「はい、是非空けておきます。楽しみです!」
 鳴海先輩は大学の文芸サークルに所属している。大学のサークル活動というと大人数で和気藹々、事ある毎に会合を持つ密な集まりという勝手なイメージがあったけど、件の文芸サークルは年に数回集まる程度で、飲み会以外はサークル室に好きに出入りして創作をするような活動ぶりらしい。皆が集うのも同人誌を製作する時期くらいのもので、そもそも現在のサークルメンバーが何人いるのか、鳴海先輩はおろかサークル長に当たる人すら把握しきれていないのだという。だからお前も気楽に参加しろ、というのが鳴海先輩の私に対する勧誘の言葉だった。高校時代の先輩なら決してこんなことは言わなかっただろうな、と私は思う。
 私も鳴海先輩と同じサークルがいいと思っていたから、参加することはもう決めてしまっていた。とは言え話に聞いただけではわからないものだし、一度雰囲気を見るという意味でも新歓に呼ばれていくのはいいことだろう。
「でも、新歓ってどんなことするんですか? 何か持っていくものとかあります?」
「皆で集まって食事をするだけだ。新入生からは金を取らない。代わりに勧誘をする」
 私の疑問に先輩は、実に簡潔に要点だけを答えてくれた。楽しそうに説明を脚色するそぶりもないところが先輩らしい。
「なぜか知らんが、大槻も来たがっている。あいつは新入生ではないからきっちり金を払わせるつもりだが」
 鳴海先輩はそう続けた後、なぜか苦い表情をして額を押さえた。
「あいつが来ると喧しいし、酒が入ると妙なゲームを始めたがるから困る」
「何ですか、妙なゲームって」
「割り箸をくじにして、当たりを引いた者が周囲に罰を科すという実にくだらん行為だ」
「……もしかして、王様ゲームのことですか」
 私が言い当てると、先輩はにわかに眉を顰めた。咎めるようにこちらを見る。
「まさか雛子、やったことがあると言うんじゃないだろうな」
「いえ、ないですけど……知識としては知ってます」
 大学生の飲み会にはつきものだ、というステレオタイプな知識はある。やってみたいとは思わないけど。
 そして王様ゲームに興じる鳴海先輩は断じて想像できないけど、大槻さんならちょっとだけ、失礼ながら、想像できてしまうから困る。
「あんな醜悪な遊びにお前を巻き込むわけにはいかない。できればその目に触れさせたくもない」
 先輩は険しい顔つきで呟くと、決然と私に向き直って言った。
「だが心配するな。仮に大槻が乗り込んできて妙なゲームを始めようと、俺はお前を守り抜いてみせる」
「え、あの……ありがとうございます……」
 真剣な眼差しを向けられてどきっとしたものの、先輩がそこまで言うなんて、過去に余程のことがあったのだろう。まだ見ぬ新歓に思いを馳せ、私は複雑な心境だった。
 でも大槻さんも最近は髪を黒く戻したりしてとても真面目そうに見えるし、三年生にもなった今、さすがにそういうことはしないんじゃないかと――できれば、思いたいところだけど。

 大学の授業は高校と違ってクラス単位では決められておらず、人によってまちまちだ。当然、下校時刻も各々違う時刻になる。
 鳴海先輩と一緒に帰るのは、一緒に登校するよりも至難の業だった。
 まるまる一コマ分の時間をどうにかつぶした後、私は講義を終えた先輩を迎えに行った。廊下の窓から見える空は茜色に染まり、強い春風が葉桜を揺らしている。
「先に帰ってもいいと言っておいたのに」
 迎えに出向いた私を、鳴海先輩は嬉しさと申し訳なさが入り混じった顔で見つめた。
「今日は先輩と一緒に帰りたかったんです」
 私が打ち明けると、肩を竦めて溜息をつく。
「今日も、の間違いじゃないのか」
「……そうですね」
 思わず私ははにかんだ。
 鳴海先輩と帰りたくて、既に何度かこうして待ってみたことがある。こんなことができるのも今のうちだけだと先輩は言うけど、だからこそ今は待っていたかったのだ。
 二人で大学を出て、駅までの道を歩き出す。次第に暗く暮れていく空の下、遠くで水銀灯が点り、先輩が私の手を握る。暗くなったからよしということなのか、単に繋ぎたくなったからそうしたのかはわからない。先輩の手は大きくて、少しだけひんやりとしていて、触れているだけで幸せだった。
「一緒に帰ってくれて、ありがとうございます」
 手を繋いだままお礼を言うと、先輩が横目で私を見る。
「礼を言うのは俺の方だ。だがあまり無理はするなよ」
「わかりました」
「新生活は意外と心身を疲れさせる。くたびれたと思ったら早めに帰って休むことだ」
「そうします。でも、今のところは大丈夫です」
 正直、くたびれたと感じる暇さえない。大学生活は平穏で、幸せに満ちていて、高校時代にできなかったことをいくらでもやり直すことができる。
 先輩と一緒に登校し、先輩と一緒にお昼ご飯を食べ、先輩と一緒に帰る。
 言葉にしてしまうと些細なことかもしれない。でも私にとっては意味のあることだ。ずっと、そうしたいと望み続けてきた。
 大学生活はまだ始まったばかりだけど、今の平穏と幸せが、いつまでも続けばいいと思う。
 星が瞬き始めた空を見上げていたら、ふと先輩が私の顔を覗き込んできた。私が本当に疲れていないか、気になったのかもしれない。
 私はその優しい表情を見て、思わず呟いた。
「世は全てこともなし、ですね」
 たちまち先輩は眉根を寄せて、訝しそうな顔をする。
「急に何だ」
「いえ、いい大学生活を過ごしてるなって思ったんです。平穏で、幸せで、心配事もあまりなくて……」
 私が万感込めて語ると、先輩はどこか呆れたように目を伏せた。
「それは結構なことだ」
 その後で少しだけ、諭す口調になって続ける。
「だが、大学生になって一ヶ月も経っていない人間が言うには、いささか気の早い言葉だな」
「かもしれませんね」
 そこは素直に認めておく。これは物語の終わり、エピローグ辺りで締めくくるように呟かれるから意味深いのであって、幕を開けたばかりの新生活に身を置く私が呟いたところで場違いなだけかもしれない。
 けど、そう言いたかったのだ。
 始まったばかりの大学生活を過不足なく言い表せる言葉だった。
 そしてこれからもずっとそうであるように、願いを込めたくなる言葉でもある。
「じゃあ、いつまでもそう言えたらいいですね」
 私は隣を歩く先輩を見上げながら、より適切に言い直してみる。
 先輩が私に視線を返し、表情をゆっくりと和らげた。
「そうだな。お前の大学生活が平穏であればいいと思う」
「もちろんそれもそうですけど」
 その返答は少しだけ不満があった。私だけじゃない。そう思った。
 私の平穏は鳴海先輩の平穏でもあるはずだし、鳴海先輩の幸いは私にとっての幸いに違いない。
 だから、
「これから先、何年、何十年経っても」
 まだ大学生活すら始まったばかりの、十代の私が言うのも変かもしれない。
 でも未来のことは考えている。いつまでも鳴海先輩と一緒にいたい。
「世は全てこともなしって、二人で、言えたらいいですね」
 私がそっと続けると、先輩は黙って眉を持ち上げた。
 それから大きく息をついて、ふと柔らかい表情になって笑んだ。
「言えるだろうな。俺は、お前がいれば」

 もちろん私だってそうだ。先輩がいてくれたらいつでも言える。
 だから新生活の幕開けを飾る言葉にしても、ちっともおかしくはないだろう。
 世は全てこともなし。
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