Tiny garden

あの頃の君がいる

 女の子は脆くて、儚くて、壊れやすいものだと思っていた。

 雨の夜になると思い出す。
 高校生の頃、理緒と夏祭りに行った。彼女は朱色の、蝶の柄の浴衣を着ていた。普段は下ろした髪を二つに結んでいて、でも化粧は一切していなくて、その素朴さも何もかもがすごく可愛いかった。なのに素直な誉め言葉が出てこなくてもどかしかったのも覚えている。
 祭りの最中に雨が降った。俺と理緒は慌てて帰ることにしたけど、すぐに土砂降りになってしまって仕方なく雨宿りをした。
 帰り道の途中にあった、シャッターの閉まった店の軒下に逃げ込んで、二人で雨が止むのを待った。
 理緒は雨に打たれたせいで、前髪からぽたぽた雫が落ちていた。小鳥の模様のハンカチで額や頬や首筋を拭いていた。女の子らしい小さな手、傷一つないきれいな額、走ったせいでほんのり赤くなった頬、対照的に真っ白な首筋――俺は思わず自分を拭くことも忘れて、傍らの彼女に見入っていた。
 あの頃、女の子は壊れ物だと思っていた。
 理緒に触れたくてしょうがなくて、だけど同時に触れるのが少し怖かった。俺の無骨としか言いようのない手で触ったりしたら、すぐに壊れてしまうんじゃないかと思っていた。俺と理緒は体格差があったから余計にそう感じたのかもしれない。
 雨に閉ざされた世界で、すぐ隣にいる理緒を見つめていることしかできなかった。

 あれから八年が過ぎた今でも、雨が降る夜には必ず思い出していた。
 おまけに今日はあの日みたいな、何の予告もない突然の土砂降りだった。職場に置き傘をしておいたから助かったものの、理緒は大丈夫かなと心配になる。今夜は俺の方が早い退勤だったようで、彼女から家に帰ったという連絡はまだない。
 息が詰まるような大降りの中、二人で住んでいるアパートまで帰り道を急ぐ。
 後から帰ってくる理緒の為にタオルと風呂を用意しておこう。そう思いながら歩いていると、不意に背後から足音が近づいてきた。雨のせいで水浸しの道を、しぶきを跳ね上げながら誰かが駆けてくる。
 ふと気づいて振り返ったのと同時に、白いブラウスの小さな姿が傘の下へ飛び込んできた。
「彰吾くん、入れて!」
 その声を聞くまでもなく、理緒だとわかっていた。
 彼女は驚くほどずぶ濡れで、白いブラウスは水を吸って身体にぺったり張りついていた。俺を見上げて苦笑する顔も、まるで泣いているみたいに雫が伝い落ちている。
「ずぶ濡れじゃないか。傘は?」
 驚きつつ尋ねると、彼女は鞄と共に抱えていたこうもり傘を見せてきた。
「それが壊れちゃってるのか、上手く開かなくて」
「連絡くれたら迎えに行ったのに」
「そんな、悪いよ。遠回りになっちゃう」
 理緒はそう言うけど、俺としては奥さんに風邪を引かせる方がよほど嫌だし困ることだ。そのくらい、言ってくれればいくらでもやるのに。
「でも彰吾くんに会えてよかった」
 すっかりびしょ濡れなのに胸を撫で下ろす理緒を、俺も苦笑しながら見下ろした。
 十代の頃は、壊れ物みたいだって思ってた。雨に降られた夏祭りの夜、雨宿りの為に軒下に駆け込んだ後、理緒を雨で濡らしてしまったことを悔しく思っていた。こんなにか弱い女の子に冷たい思いをさせる自分が許せなかった。
 だけど理緒はあの頃から、雨に打たれても泣き言なんて言わなかった。
 今なんて笑ってさえいる。俺の心配をよそに、どこか開き直ってさえいるように。
「帰ったらお風呂入ろう。身体冷やすとよくないよ」
 俺の言葉にも笑顔で答える。
「夏だからあんまり寒くないよ」
「その油断が風邪の元だ。ちゃんと温まらないと駄目だよ」
「うん。彰吾くんは心配性だね」
「愛妻家だからな」
 理緒がからかってきたので、俺も半ばおどけて応じておいた。
 もちろん冗談でも嘘でもない。今でも理緒が大切で、壊したくないものであることに変わりはなかった。

 風呂でゆっくり温まって、ようやく人心地ついた。
「酷い雨だったね」
 濡れた髪にバスタオルを被った理緒が、今更のようにそう嘆いた。
 外はまだ雨が降り続いていた。バスルームにいる間も窓に叩きつけられる雨の音がうるさいくらいだった。今も雨脚は弱まっていないようで、リビングにも激しい雨音が響いている。
「髪、拭いてあげるよ。おいで」
 ソファに座って手招きすると、理緒はタオルを被ったまま俺の膝の上に座った。
 それからちらりと振り返り、子供みたいにはにかむ。
「ありがと、彰吾くん」
「どういたしまして」
 俺も笑い返して、それからタオルで理緒の髪を拭き始めた。
 彼女に触れるのが当たり前になってから随分経つ。俺の手はあの頃と同じように無骨なままだけど、理緒を壊さない、傷つけないやり方は熟知している。昔思っていたほど女の子は脆くも、儚くも、壊れやすくもなかった。
 そして、触れてみてわかった。壊れ物ではなくても大切にしたくなる。触れれば触れるほどいとおしさが込み上げてきて、俺が守るべきものなんだと改めて思う。
「正直に言うとね」
 髪を拭かれる理緒はうっとりと目をつむっている。幸せそうに続けた。
「さっき、雨の中で彰吾くんの背中が見えた時、すごくほっとしたの」
 八年の間に、理緒はすっかり変わっていた。実家にいた頃は厳しく躾けられていたようで化粧もパーマも禁止、服装だって地味だったけど、今では当たり前のように化粧をするし髪だってよく巻いている。手足の爪にはピンクのネイルを塗っているし、身体つきも昔よりずっと女らしい。背は伸びていないけど。
 でも、化粧を落として髪を下ろした時、ちょうど今みたいな風呂上がりの時には、昔の理緒の面影を見つけることがあった。
「傘壊れてて、しょうがないって走ってきたけど、雨どんどん強くなってくから……もう少し待ってから帰るべきだったかなって不安になってて」
 理緒が目を開ける。
 もう一度振り返って俺を見上げる。長い睫毛と上目遣い、どこか不安げで、でも俺を信頼してくれている温かな微笑み。化粧を落とした彼女の額は傷一つなくなめらかで、頬はほんのり赤く、首筋は白い。そして小さな手をしている。
「だから彰吾くんに会えて本当によかったよ」
 その言葉を、俺はしみじみと噛み締める。
 俺も理緒と会えてよかった。理緒が言ったのとは違う意味合いかもしれない、でも理緒がいなければ知らなかったことがたくさんある。今、ここにある幸福は理緒がいて、俺がいるからこそあるものだ。
「だけどよく俺だってわかったな、違う人の傘に入ってたら大変だった」
「わかるよ、彰吾くんだもん」
 まるで『間違えるはずがない』と言わんばかりの口調だった。
 確かに俺も、理緒なら後ろ姿でだってわかる。小さい背中と細い肩、それに些細な仕種や歩き方をずっと見てきたんだから。愛妻家として。
「昔から彰吾くんはよく目立ってたからね」
「背が高いからだろ。スカイツリーみたいなもんだ」
「スカイツリーは高いから目立ってるわけじゃないと思うよ」
 そう言うと理緒はくすくす笑って、
「彰吾くんと同じで、格好いいからだよね」
 と付け加えてくれた。
 膝の上で微笑むその表情。大人になってはいるけど、懐かしいあの頃の理緒だった。
「今日、昔のことを思い出してた」
「昔のことって?」
「夏祭りに二人で行って、雨に降られたことあったろ」
「ああ、あったね。あの時も結構酷い雨だったよね」
 あの頃は理緒の髪を拭くことなんてできやしなかった。
 でも今ならできる。俺の手で理緒を安心させてやることができる。
「理緒、あの頃とあんまり変わってないよ」
 俺が言うと、理緒は少し心外そうに拗ねた顔をしてみせた。
「高校時代から? それはちょっと複雑かも……」
「もちろんきれいになったよ。大人にもなった」
「彰吾くん、ちょっと慌ててる?」
「慌ててない。本当にそう思ってる」
 からかうような理緒の言葉にかぶりを振って、俺は彼女の小さな肩を抱き締める。
「でも面影あるよ。今でも時々思い出すんだ、理緒に触れられもしなかった頃のこと」
 腕の中に閉じ込めた彼女の身体は温かい。小さくても十分柔らかくて、幸せな気持ちが満ちてくる。
「あの頃だって幸せだったけど、今の方が幸せだ」
 俺は彼女の耳元に、唇を寄せて囁いた。
「……私も」
 理緒が俺に頬を寄せ、そっと囁き返してくる。
 その時湿り気を含んだ彼女の髪が俺に触れ、それが冷たく感じられたから、俺は抱き締める腕の力を緩めた。
「ドライヤー取ってくるよ、一旦下りてもらっていい?」
 そう尋ねると、理緒は高校時代と同じ上目遣いで俺を見た。
「もうちょっとだけ、こうしてたいな……」
 でもあの頃の理緒は、こんな言葉は口にできなかっただろう。
 やっぱり今の方が幸せだよなと、俺は喜んで彼女を抱き締め直した。
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