Tiny garden

閉じ込められて、二人きり

 ぽつん、と不意に、頭に当たった。
「……あ」
 思わず立ち止まって空を見上げる。すっかり雲に覆われた空は、黒ではない、不気味な色をしていた。
 まずいなと思った拍子、もう一つぽつんと落ちてきた。
「降ってきた」
 理緒に告げると、彼女も空を見ているところだった。
「本当……急ごうか、彰吾くん」
 浴衣を着て下駄を履いた理緒を、急がせるのは気が引けた。だけどずぶ濡れになるのはもっとかわいそうだ。楽しかったお祭りの帰り道、お互いの家まではもう少しある。もたもたしていると家に着く前に本降りになるかもしれない。
 俺は慌てて、ずっと避けてきた彼女の手を取る。小さな手は握るのも気が引けるほどだったけど、今はそうも言ってられない。細い手首からぶら下がったヨーヨーが大きく跳ねた。
「あ、ごめんね」
 すかさず理緒は、俺を見て言う。反応の速さに驚かされる。
「え? な、何が?」
「ヨーヨー、ぶつからなかった?」
 理緒がはにかむように笑った。
「大丈夫」
 俺も笑い返そうとしたけど、そうするよりも先に。
 雨の冷たさよりも、ざあっという音の方が早くに来た。
 アスファルトの上がたちまち白っぽい雨粒に覆われる。水銀灯の光の中、降ってくる雨の真っ直ぐな筋が見えた。
「わっ、急に来ちゃった」
 理緒の声が遠く聞こえた。雨音に閉じ込められて、傍の声さえよく聞こえない。
 俺は辺りを見回して、シャッターの閉まった商店の、暗い軒先を発見する。雨宿りするならそこくらいしか見当たらない。家まで走っていくのは厳しい。選択肢は一つきりだった。
「理緒、あそこへ行こう」
 彼女の手首を握って、その商店まで駆けていく。理緒はよろけながらも転ばず、ちゃんとついてきた。雨をしのげる軒先へ飛び込むと、お互いに溜息が出た。
「酷い降りになっちゃったな」
「うん。弱まるまで、雨宿りしていこう」
 前髪から雫を落として、理緒が頷く。結局濡れてしまったなと、どうすることも出来ないくせに申し訳なく思う。

 ざあざあと派手な音を立てて、雨はしばらく降り続いていた。
「彰吾くん、これ使って」
 理緒が差し出してきたのは、子犬の柄のハンカチだった。俺が一瞬ためらうと、彼女はすかさず言い添えてくる。
「私、もう一枚持ってるの」
「じゃあ、借りるよ」
 ハンカチを受け取って、俺は雨を浴びた腕や顔を拭く。青いTシャツは水分をたっぷり吸っていて、色が変わったようになっていた。ジーンズが重い。髪まで拭くのは気が引けて、ハンカチを折り畳みながら理緒の様子を見遣る。
 理緒は小鳥の柄のハンカチで、丁寧に額を拭いていた。そこが終わると頬へ、その後は首へとゆっくり降りていく。押さえるような拭き方が、何となく彼女らしいと思う。思わずぼんやり見守ってしまう。首を拭いたハンカチが、次に辿り着くのはどこだろうと思いながら。
 途端、くるりとこちらを向いた。
「……どうかしたの?」
 俺の視線に気付いてか、理緒が小首を傾げてきた。大急ぎで目を逸らす。
「いや、何でも……」
 何でもなかった。本当に。ただぼうっと、眺めてしまっただけだ。
 でもまさか、眺めてたなんて言えない。
「彰吾くん、髪拭いた? 前髪からぽたぽた落ちてるよ」
 こちらの態度に不審を抱かなかったのか、理緒がそう言ってきた。
「拭いてない。ハンカチ、汚れるだろ?」
 つい正直に答えてしまったけど、そう答えたら理緒が首を横に振ることくらい、わかっていた。
「そんなこと気にしなくてもいいのに。少し拭いた方がいいよ。風邪引いちゃう」
「大丈夫だって、夏なんだから」
「駄目だよ。ね、屈んで」
 理緒の言葉を聞いて、俺は畳んだハンカチを手渡した。そして渋々といったそぶりで身を屈める。うれしいのにどこか気の引ける、複雑な気持ちでいっぱいだった。
 小さな手が握るハンカチは、彼女の身体を拭いていた時と同じように、丁寧に俺の髪を拭いてくれた。あまり優しいのでくすぐったいくらいだった。壊れ物みたいな理緒とは違うから、俺のことは乱暴に扱ってくれてもいい。理緒にはきっと、そんなことは出来ないだろうけど。

 雨のせいで視界が悪かった。すぐ先の道さえ見通せないほどだった。雨音も強く、絶え間なく続いている。
 この狭い軒先だけが、雨から切り離され、隔離された空間だった。
 よくある洋画で見るような、鉄格子みたいな雨だと思う。閉じ込められた俺たちは、なかなか外へ出られない。時間ばかりが過ぎていく。
「寒くないか、理緒」
「うん、平気。彰吾くんは?」
「大丈夫。理緒に髪、拭いてもらったから」
 むっと篭もる空気のせいか、寒さはそれほど感じなかった。雨を浴びながら帰ったら案外気持ちいいかもしれない。理緒がいなければ、やるんだけどな。
「せっかくのお祭りだったのに、最後の最後で降っちゃうなんて」
 理緒は心配そうに、雨空を見上げていた。
「ね、彰吾くん。縁日で出てたお店の人たち、大丈夫かな」
「どうだろうな……結構、店じまい始めてる人もいたし、降り出す前に帰れたんじゃないか?」
「だといいな。こんなに降られたら大変だもんね」
 呟く彼女が優しいなと思う。雨に降られて散々で、俺は理緒を気遣う余裕さえなかったっていうのにな。
 俺ももう少し、理緒に優しくなりたい。優しい言葉を告げられるようになりたい。いつでも自分のことだけで精一杯で、なかなかそうはなれないけど――。
「空、明るくなってきたね」
 彼女のそんな言葉を聞いて、安心よりも先に寂しさが過ぎった。
 だからつい、言ってしまう。
「でも、もう少し待とう」
「もう少し?」
「うん。もうちょっと、雨脚が弱まってから」
 雨に閉じ込められていたいとさえ思ってしまう。
 帰らずに済むなら、理緒と二人きりでいられるのなら――そんなことを考える時点で、俺はちっとも優しくなかった。
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