Tiny garden

序章

 上郷の山も、春の色をしていた。
 若葉が芽吹く季節を迎えると、この小さな山もたちまち賑わいを増してくる。
 あちらこちらで木々の葉が、吹き下ろす風にさざめいた。ざわざわと葉擦れの音が鳴る。枝葉と影と、隙間から零れる光とが、茂る草の上に揺れている。
 上郷は美しい村だった。まだ手付かずの自然が残っている。山の緑は広い空によく映えて、空の青さをも引き立てた。
 雪が溶け、ひとたび春が訪れると、山の呼吸が聞こえるようになる。
 下りて来る風はまだ冷たい。しかし柔らかな陽の匂いがした。ざわざわ、木々を心地良く鳴らした。

 小さな山を賑わしているのは草木ばかりではなかった。
 頂よりもやや下方、日なたで伸びる木の一本に、少年の姿があった。
 堅い幹に手足を掛け、しっかりとした枝を掴み、少年は難なく木を登っていく。木の軋む音も物ともせず、慣れた様子でするすると登る。そして辺りが見渡せるほどの高さに辿り着くと、枝の付け根に腰を据えた。
 見回す眼差しの先に、上郷村の風景が広がる。
 田畑の間にぽつぽつと、赤や青の屋根が見えている。
 少年は目を眇めた。舗装されていない道の奥、この山と向き合う位置に小高い丘がある。その麓に一つ、それから丘の上にもう一つ、建物があるのを捉えていた。麓の建物は古びた、ごく小さなものであるのに対し、丘の上には大きな建物の骨組みがあった。今まさに築かれようとしている、村で一番大きな建物。少年の目には、そこで慌しく動き回る工事車両も映っていた。
「見える?」
 不意に足元、木の根の方で声がした。
 少年の登った木の周囲を、数人の子どもたちが取り囲む。小学生くらいの子ばかりがあどけない顔を揃えている。皆、少年を見上げてその答えを待っていた。
 木の上の少年は、答えずに視線を巡らせる。
 目で、上郷村を走る道を追っていた。ぐねぐねとうねる舗装のされていない道は、工事用車両にとって大変困りものらしいと聞いていた。その道の一番広いものをひたすら追い駆けていくと、やがて県道に辿り着く。ようやく、そこからアスファルトで舗装されている。ずっと遠くへと伸びていく灰色の道が、少年には眩しかった。
「雄輝くん、見える?」
 再び声がした。
 木の根元に立つ華奢な少女が、おずおずと尋ねたのだ。
 雄輝、と呼ばれた木の上の少年は、短く刈り込んだ髪にがりがりと爪を立てた。そして苛立たしげに顔を顰め、低く応じた。
「待って」
 それで細い少女は首を竦め、彼女を含めた、地面の上の子どもたちは口を噤む。少年は県道の伸びる先を見つめ続ける。
 木々を軋ませる春風にも動じなかった。木々と一緒に揺られながら、ひたすら県道を注視していた。

 ほとんど車の通らない道。
 山の緑を突っ切っていく、灰色の線。
 ややあってからそこに、午後の陽光を弾く車の姿が現れた。遠くからでもわかる銀色の車体。見覚えがあった。
「来た!」
 少年は叫んで、指を差した。
 車は県道を走り、上郷村へと近付いてくる。こちらへと向かってくる。
 間違いなかった。あの人の車だった。
「来たぞ!」
 威勢のいい声を上げると、少年は身軽に木から飛び降りる。
 そして取り囲む子どもたちに向かって、拳を掲げて気炎を吐いた。
「今日こそはあの人に聞いてやるんだ! 行くぞ!」
 地面に下り立つと、少年の体つきは大きく見えた。他の子どもたちよりも上級だからだろう。顔立ちはまだあどけないものの、今のようにはつらつとした表情が浮かぶと、他の子たちには頼もしげな印象を与えていた。
 少年は先陣を切って、山を下り始める。
「待って!」
 先程の少女が声を上げたが、振り向くことも、気にするそぶりさえない。敏捷な動きで駆け下りていく。
 その後に他の子どもたちも続いた。華奢な少女が一番後ろから、山の風を背に走り出す。生い茂る背の高い草を掻き分け、木々の間をすり抜けていく子どもたち。山のざわめきが一層強くなり、春の賑わいを増していた。

 上郷の春は美しい。
 しかし今年はいつになく落ち着きのない春を迎えていた。
 騒々しさを連れてきたのはあの銀色の車と、あの人だと、子どもたちは皆思っている。

 子どもたちが山を下っている頃、銀色の車は上郷に入り、山の真向かいにある丘へと辿り着いていた。
 丘の麓には古い公民館が、丘の上には建て始められた新しい公民館があった。
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