Tiny garden

軌道(1)

 古い方の公民館の駐車場に、シルバーのマスタングが停まっている。
 そしてその車内で、早良は難しい表情をしていた。
「今、出先だ。またにしてくれないか」
『でも、そう言っていつも来てくれないでしょう』
 手にした携帯電話から、大学時代の同期、志筑史子の声が響いてくる。
 女性にしては控えめで、穏やかな声だったが、早良にとっては頭痛の種にしかならない。
『卒業してからもう二年経つのよ。皆、早良くんにも会いたがっているの。ねえ、一度でいいから顔を出して貰えない?』
 史子の誘いは、同窓会についてだった。
 同窓会と言っても本格的なものではなく、友人の友人がついでに誘われてくるような、言ってみれば体のいい飲み会だ。付き合いのいい史子は常に誘いを受けているらしいが、いつもそこに早良を引っ張り込もうとするので厄介だった。
 早良は一度としてその場に足を運んだことがなかった。家業である建設会社に就職したのをいいことに、隙のないように仕事を詰め込んでいる。煩わしい飲み会に足を運ぶくらいなら、仕事をしている方が余程よかった。
「これから仕事なんだ」
 早良は言い、ちらと車のウィンドウ越しに外を見遣った。
 ヘルメットを被った現場主任が、手持ち無沙汰な様子でうろうろしている。
 あまり待たせておく訳にはいかない。一刻も早く通話を終えてしまいたかった。
『じゃあ、今すぐ答えなくてもいいから、考えておくだけでもしてくれない? お願い』
 史子もなかなか諦めようとしなかった。
 理由は早良にもわかっている。
『早良くんも覚えてるでしょう。同期の水野さん。彼女が早良くんにすごく会いたがっていたの』
「……ああ」
 頷いたものの、水野と言う女性の顔はおぼろげにしか浮かんでこない。早良にとってはその程度の相手だった。
『それとね、同じサークルだった川上さんも。皆で集まる度に早良くんどうしてる、会いたいなって言ってるのよ。皆、早良くんを待ってるんだから』
 史子の口調に熱が篭るのを聞き、早良は舌打ちしたい衝動に駆られた。川上という女にもやはり、漠然とした記憶しかない。なのに史子と来たら、まるで長らくの付き合いでもあるかのように名を連ねてくる。
 彼女は人が好過ぎた。学生時代から、誰かに何かを頼まれれば断れない性格をしていた。水野やら川上やらは史子のそういう面に付け込んで、早良を何とか引っ張り出そうとしているのだろう。

 確かに早良は、人を惹き付ける容貌をしていた。端整ですっきりとした目鼻立ち。結ばれがちな唇は薄く、双眸は常にきりりとしていて、眉の形もいい。凛々しい面立ちは微笑みよりも、物憂げな思案顔の方が似合っていた。程好く均整の取れた体つきも学生時代から変わらず、その頃からずっと、多くの女性たちを惹き付けてやまなかった。
 その上、早良には年相応の青年らしい即物的な面がなかった。物腰が柔らかく、誰に対してもとりあえずは穏便な接し方をする。特に女性に対してはストイックで控えめだった。
 特定の恋人が一向に現れなかったこともあり、そのポジションを狙う女性は次から次へと現れた。そして直截的なアプローチがまるで通じないとわかると、史子のような、割と近しい相手を通して何とか近付こうとしてくるのだった。
 しかし――現実には早良は、数多くの女性たちが思い描いているような理想の男ではなかった。

 史子に見えないのをいいことに、早良はそっとかぶりを振った。
 それから答える。
「その日は用事がある。悪いが、どうしても無理だ」
『二ヶ月先の話なのに、もう用事が入ってるの?』
「忙しいんだよ。済まないな」
 早良は電話の向こうの史子に、本音を内包した、ごく穏やかな声で告げた。
 携帯電話を持ち直す、たったそれだけの動作が様になる。振る舞いは常に優雅で、礼儀作法も身につけている。全て早良が幼い頃から叩き込まれてきた、言うなれば処世の術だ。
『そう……皆寂しがるわね。本当に早良くんに会いたがっていたのに』
 史子は溜息をついた。早良が行けないことよりも、水野や川上への弁解を憂鬱がっているように、早良には聞こえた。苛立ちを押し隠しながら反論する。
「仕事だから仕方がないんだ。理解してくれないか」
『ええ、わかってるわ。皆にもそう、伝えておくから』
「頼むよ。皆によろしく」
『ええ……』
 史子の声が、そこで残念そうに落ちる。完全に諦めたようだ。
 すかさず早良は言葉を継いで、
「じゃあ、俺はこれから仕事だから。失礼する」
 素早く挨拶を告げ、通話を打ち切った。
 電話の向こうで史子がどんな顔をしているか、考えもせずに。

 早良はストイックさこそ持ち合わせていたが、それ以上に冷たく、排他的な人物だった。
 物腰柔らかにあしらう術を身につけているだけだ。
 早良にとって親しい相手はいない。友人として認識している相手も、一人としていなかった。その心底には深い、他者への不信感が横たわっている。
 知っているのだ。自分に近寄ってくる、擦り寄ってくる連中の思惑を、二十四年の人生のうちで十分に悟れるようになってしまった。
 皆、有名企業の社長の息子と言う、早良の身の上をありがたがっている。祖父の代から続いている建設会社は、このまま行けば間違いなく早良が跡を継ぐことになるだろう。皆が早良を持て囃し、距離を詰めてこようとするのは、早良に与えられた決まりきった未来のお零れに与りたいからだ。
 女は特に、信用ならないと思っていた。直截的なアプローチを受けても、その心底が見え透いているようで、早良が心動かされることは一度としてなかった。実際に金目当てだと女に告げられたことはなかったし、早良のことを、身の上をさて置いても本気で好いていた者もいたのかもしれない。だがそうだとしても、それを知ったとしても、心を許すことは出来ない。最早、信頼出来る相手は一人としていないと思い込むようになっていた。
 大学時代の同期で、周囲からは仲が良いと思われているらしい史子にも、早良は疎ましさだけを感じている。だが、彼女については切ろうにも縁を切れない事情もあった。

 溜息をつくと、疲労感が湧き起こる。
 だが早良は再び携帯電話のフリップを開いた。外で待つ現場主任の、所在無げな姿を横目で窺いながら、素早くキーを操作する。
『――はい』
 若い男の声がした。
 秘書の内田だ。苦い感情が込み上げてくるのを堪えながら、早良は出来る限り平坦な声で言った。
「内田さん。今、志筑さんから電話がありました」
『ええ。取り次ぎましたとも』
 年上の秘書はさも当然だ、と言うように答える。
 早良はこめかみを指で押さえた。
「前にもお話したかと思いますが、今回は泊まりの出張です。仕事に関する連絡以外は取り次がないようにしていただきたいものです」
『いや、お言葉ですがね』
 電話の向こうで、内田の品のない笑い声が聞こえた。
『志筑嬢のお誘いを蔑ろには出来んでしょう。橋渡ししなきゃならないこっちの身にもなってくださいよ。早良さんのお父上からもこっそり言われておりますし――おっと、失礼』
 わざとらしく口の端に乗せた内田を、早良はこの上なく不快に思った。
 早良の父親は、息子を社会に出して早々に醜聞で汚したくないと考えたのだろう。用意したのは男の秘書、それも縁故で採用されたと専ら評判の、品性に欠ける男だった。無能ではなかったが、向上心にも乏しく、仕事をする上で優れたパートナーとは言い難かった。
 おまけに内田は早良よりも、早良の父親の言うことをよく聞くようだ。本人の与り知らぬところで何らかの耳打ちをされているらしく、例えば史子のことも、こうして仲を取り持とうとしてくる。
 史子は、国会議員の娘だ。志筑議員と言えば建設業界に顔の利く存在で、当然の如く早良の父親ともごく親しかった。そのせいか近い将来、早良の結婚相手には史子を――と言う暗黙の了解が、やはり早良の知らぬうちに交わされているようだった。
 冗談ではない、と思う。
「ともかく、困ります」
 語気を強めて、早良は訴えた。
「この出張中だけでもよろしくお願いします。志筑さんからの電話も、他の、仕事とは関わりのない相手からのものも、一切取り次がないようにしてください」
『……了解しました。お父上にもよろしく言っていただきたいですがね』
 内田は皮肉っぽい言葉をくれてきたが、それは取り合わず、早良は仕事の連絡を一言、二言告げ、すぐに通話を打ち切った。
 この秘書とは余計な話をしたくなかった。『余計な話』が出来る相手が他にいる訳でもなかったが。

 それからもう一度息をつき、ようやく車の外へ出た。
「お待たせして申し訳ありません」
 現場主任に声を掛けると、ヘルメットを被った初老の男は愛想のいい顔を左右に振る。
「いえ、とんでもない。お忙しい中、上郷までご足労いただいて、本当にお疲れ様です」
「仕事ですから。冨安さんこそお忙しいのに、本当にお待たせしてしまって」
 早良は控えめに、だがきっぱりと応じた。
 身の上で特別扱いをされるのは嫌だった。嫌悪感を面に出すほど幼くもなく、表向きは微笑を返したが、内心では慣れた様子で不信と諦念を飼い慣らしている。
 信じられる相手は誰もいなかった。誰一人として。
「では早速現場までご案内しましょう」
 主任の冨安は人懐っこい笑顔を浮かべた。
 それに礼儀正しく応じながらも、早良の眼は笑顔の裏を見据えようとしている。
 誰が何を思っているかなどわかったものではない。だが、誰も信頼出来ないのだと言うことだけは判然としている。
 早良には、全ての笑顔が偽りのものに見えていた。
 自らと同じように、皆がその表情を偽っているのだと思っていた。
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