Tiny garden

終章(1)

 上郷の山も、夏の色をしていた。
 陽射しの強い時期になり、あらゆる色彩が鮮明になった。空の青さも山の緑も、その緑が作り出す影も全て。辺り一面、眩しいくらいの鮮やかさに満ちていた。
 吹きつける風も汗を振り払うにはやや温い。それでもざわざわと鳴る葉擦れの音は、耳には涼しく聞こえてくる。枝葉の影の中はこの季節でも居心地よく、緑と陽射しのよい匂いがした。

 頂よりもやや下方、陽の当たるところで伸びる木の一本に、少年の姿がある。
 堅い幹に足を掛け、がっしりとした手で枝を掴み、少年は難なく木を登っていく。昔よりも大柄になった少年は、昔よりも大きく木を軋ませた。その音も物ともせずに慣れた様子でするする登る。そして辺りが見渡せるほどの高さに辿り着くと、枝の付け根に腰を据えた。
 カッターシャツの一番上のボタンを外し、風を仰ぎ入れる。それから一つ深い溜息をついた。視線を遠くへ投げてみる。じっと見回す眼差しの先に、上郷村の風景が広がる。田畑の間にぽつぽつと、赤や青の屋根が見えている。
 少年は目を眇めた。舗装されていない道の奥、この山と向き合う位置に小高い丘がある。その頂に一つ、それから麓にも一つ、建物があるのを捉えていた。丘の上にあるのは白亜の、立派で美しい建物。対して麓の建物はごく小さな、古びたものだった。一昨年改修を終えてペンキも塗り直したので、旧公民館の方もどうにか悪くない見映えになっている。
 今日の上郷は騒がしい。いつかの春先よりもずっと賑やかで、心をざわめかせる日だった。少年は人だかりの出来ている丘の麓を見遣り、また一つ嘆息する。
 あの日、六年前の三月。上郷には春が来た。
 そしてこの夏、八月。少年の姉はいなくなる。
 かつて上郷に春を連れてきた人が、今日、姉を連れて行ってしまう――その事実は少なからず少年の心をさざめかせた。寂しいとは思わなかった。ちっとも寂しくないはずだった。どうせ大学時代から家を出ていた姉だから、いようがいまいがさほど違いはしないと思っていた。
 なのにどうしてか複雑な思いがしていた。あの公民館の中にいる姉と義兄となる人のことを考えれば、憎まれ口の一つも叩きたくなる。素直に祝ってやる気もなくはなかったが、やはり複雑さの方が大きい。あの姉に限って嫁に行くなんてことはまずないと思っていた。
 今更、反対する気もない。そもそも自分一人が何か言ったところでどうにもならないのもわかっている。姉が幸せになるのはいいことだと思うし、あんなおてんばな姉と上手くやっていけるのは、あの人くらいしかいないだろう。あの人が嫌いな訳ではなく、上郷に春を連れてきてくれたことも、あの日、自分の子どもじみた主張に耳を傾けてくれたことにも感謝していた。それでも少年は、決して寂しくはないものの、複雑に思う。
 失われないものなど何もない。そんな当たり前のことを、少年は今日、思い知る。いつまでも変わらないと思っていた姉が家を去り、そして自分も次の春には上郷を出ていく。変わらないものは一つとしてない。その事実がなぜか、少し痛む。

「――雄輝くん」
 不意に足元、木の根の方で声がした。
 少年の登った木の傍らに、いつの間にか少女が立っていた。華奢なその少女は高校の制服を着ていて、木の上をじっと見ている。目が合うと、気遣わしげな微笑を浮かべてきた。
「あのね、おじさんに言われてきたの。もうすぐお姉さんの着替え、終わるだろうから、呼んできてって」
 少女はたどたどしくそう言った。雄輝が黙って見下ろしていれば、更に一言添えてくる。
「だから、そろそろ行こうよ」
「……うん」
 雄輝は一つ、頷いた。
 だがそれだけだった。木から降りる気分にならず、そのまま枝の付け根でじっとしていた。この木から見下ろす上郷の景色は好きだった。たとえ六年前と違うところがあったとしても。
 山の風は強く、音を立てて吹き抜けていく。木々は軋み、枝葉は揺れ、少女の灰色のスカートもはためいた。それでも雄輝は動じずに、黙って景色を眺めていた。
「雄輝くん」
 また少女の声がする。
 ためらいがちな間の後で、彼女から、
「やっぱり寂しい?」
 おずおずと問われた。
 視線を向けると、彼女の方が僅かに逸らした。
「お姉さん、お嫁に行っちゃうから」
 言い足された内容に雄輝は顔を顰めた。否定したくなる問いだった。目を逸らしてしまった少女の心配そうな横顔が、余計に気恥ずかしく感じる。だから絶対に認めるものかと思う。
 やおら枝の上に立ち上がる。そして深く息を吸い込むと、精いっぱいの口調で答える。
「全っ然」
 全然、ちっとも、絶対にそんなことはなかった。
 寂しい訳がない。今日は晴れの日だ。皆がうれしそうにしていて、上郷は賑やかで、あとでごちそうも出ると聞いている。空は雲一つなく晴れ渡り、夜には流星群が見える予定だ。そんな日に寂しい気分になるはずがなかった。
「どうせ仕事でしょっちゅう来るって言ってるし」
 むしろぼやくように言ってみる。全く会えなくなるなら寂しくもなるだろうが、どうやらそうでもないらしい。
 大学を卒業した姉は観光プランナーの職に就いた。そして上郷に関わる一番最初の仕事を、この夏から始めることになっていた。『星空の下で思い出深いウェディングを』、そんなありふれた謳い文句も上郷の星空なら十分な魅力になる。そのプランのモデル利用者として、姉自身が立候補したのだから、今日の上郷の騒々しさと言ったらなかった。結婚式の参列者のみならず、近隣町村の観光課から旅館関係者、雑誌の記者に至るまで大勢の人間が訪れている。
 そんな落ち着かない結婚式で、果たして本当にいいのだろうか。一生に一度のことなのにと雄輝は思うのだが、姉が自ら言い出した話だ、当人に不満があるはずもない。となれば気懸かりなのは義兄となる人の反応だが、あの人が文句を言うこともないだろうと思っている。とても優しい人だから。
「雄輝くん」
 もう一度名前を呼ばれて、ようやく決心がついた。
「今行く」
 素っ気なく答えた後、雄輝は木から飛び降りる。
 地面に降り立つと、背が伸びたのが自分でもよくわかった。見上げれば首が痛くなるほどだったこの木も、そういえば登ったのは久し振りだった。次は、いつになるだろう。
 痩せた少女は雄輝の行動を、首を竦めて見守っていた。何か言葉を掛けようとしてためらうそぶりもうかがえた。まだ雄輝が姉の結婚を寂しがっていると思っているのだろうか。だとしたらとんだ誤解だ。
 だから、威勢のいい声を上げた。
「ほら、行くぞ!」
 叫ぶなり雄輝は先陣を切り、走り出す。
「あ、待って!」
 少女が呼び止める。それを、少し進んでから立ち止まり、雄輝は渋い顔で振り返った。生い茂る背の高い草に足を取られている彼女。動作のもたつくところは昔と変わらない。
 駆け戻り、少女の手を取る。
「もたもたするなって」
 舌打ち交じりの言葉を告げて、もう一度地面を蹴る。
「ご、ごめんなさ……きゃっ」
 腕をぐいと引っ張られ、少女は小さく悲鳴を上げた。その声と山の風を背に、雄輝は敏捷な足取りで山を下り始めた。木々の間をすり抜けていく二人。山のざわめきが一層強くなる。温い風が吹いてくる。

 丘の上の公民館が六度目の夏を迎えていた。
 ペルセウス座流星群の頃、今年の夏も、上郷は美しかった。
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