Tiny garden

終章(2)

 早良はうろうろしていた。
 あまりに落ち着きなく辺りを歩き回っていたので、史子に呆れられていた。
「動物園の熊みたいね、早良くん」
「……酷い言い種だな」
「そう思うなら、少し落ち着いて待っていたらいいのに」
 苦笑する史子の声を聞き、すかさず早良の父親も言った。
「人生の大舞台という時に、じっとしていられないような余裕のない男に育てた覚えはないぞ。克明、座っていなさい」
「ほら、あなたのお父様もおっしゃってるわよ」
 一方的に言われて、早良はぐうの音も出ない。
 しかし落ち着かないものは落ち着かないのだからやむを得まい。自分はタキシードなどという着慣れないいでたちだし、笑ってばかりの史子はともかくとして、父親ぶろうとする父親も、その隣でよそ行きの笑みを浮かべている母親も、まるで見たことのないものだ。こんな晴れの日を、一応は家族らしく迎えようとしていることに、早良はいささか戸惑っていた。
 もちろん、一番戸惑っているのは違う事柄についてだが。
「早良さんにしては珍しい方ですよ。落ち着きのないところを一枚、記念に撮っておきましょうか」
 カメラを手にした内田が飄然と言う。
「止めてくださいよ」
 早良はむっとしたが、すかさず史子が面白がった。
「確かに記念にはなりそうね。あかりさんにも見せてあげたいくらいよ、今の早良くん」
 当然、早良が見せたいと思うはずもない。あかりが現われるまでには落ち着いておきたい、と呼吸を整えてみる。それでも心は相変わらずそわそわとしていた。
「まあ、こういう場合は仕方がないですよ。誰だって緊張くらいしますもの」
 あかりの母親がそう言って、場を取り成そうとする。今日のような日でも堂に入った態度はあかりと似通ったところがあった。
「しかし時間の掛かる着替えだなあ。克明くんがそわそわするのも無理ないよなあ」
 と呟くのはあかりの父親。こちらは早良に負けず劣らず落ち着かない様子でいた。公民館の階上で、娘が花嫁衣裳に着替えているともなれば、父親としては落ち着いてもいられないものなのだろう。新郎だってこれっぽっちも落ち着いていられないくらいだ、恐らく無理もない。
 そこへ、公民館の扉を開けて、雄輝が息せき駆け込んできた。早良の知らない女の子を連れている。
「こら、雄輝! こんな時にどこへ行ってたんだ」
 父親に咎められようともどこ吹く風で、雄輝は早良へと尋ねた。
「姉ちゃんは?」
「まだ着替え中だ」
 早良が答えると、安堵したように息をついた。
「そっか、じゃあまだ余裕じゃん」
「全く、お前という奴は……」
 眉を顰める父親を見ても、全く動じる様子がない。早良が初めて出会った頃よりもぐっと大人になった雄輝だが、中身の方は相変わらずのやんちゃ坊主のようだった。

 六年も経てば何もかもが変わる。それも当然のことで、早良も三十になっていた。六年前と比べればいくらかは丸くもなったようだし、今日のような賑々しさにも大分慣れてきた。
 ただ、あかりに関わる事柄についての面映さは、六年前とさして変わらず早良の心の中にある。そして、彼女に対する想いもまた、深さこそ違えど存在している。相変わらず、早良の心の向かう先を左右している。
 六年が経ち、周囲の人々もまた変わった。
 史子は近頃とみにきれいになったようだ。家を出てからというもの彼女の変化は目覚ましく、いつよりも幸せそうにしている。秘書の内田はあれ以来、割と真面目に仕事をするようになった。もっとも、早良の目につくところでおかしなふるまいをしなくなったというだけだが、それだけでも気分よく仕事が出来た。日々激務に付き合わせてやっているのも変わりない。早良の父親は皺が増え、もうじき定年を迎えようとしているが、精力的な仕事ぶりは一向に衰えを知らない。早良の母親は表向き変化のないように見えたが、父親のいない時には早良に対し、あかりのことをぽつぽつと尋ねてくるようになっていた。そうして両親のどちらもが、この度の結婚を遂に認めてしまった。六年という年月の間、ごく自然に続けてきた関係は、思いのほか静かに実を結んだようだった。
 その彼女は、あかりは、六年経った今でも出会った頃とそう変わりない。化粧を覚えたせいか垢抜けたようではあるし、たとえ野暮ったいままでも早良にとっては可愛いに違いないのだが、外見上の変化は内面ほどには大きくなかった。社会人になった彼女は実に落ち着いていて、心身共に早良を支えてくれている。そして六年経ってもなお、今のところ、プロレス技を掛けられるという事態には陥っていない。仲睦まじく今日に至る。

 あかりの関節技の強さを知る、恐らく唯一の人物が、早良に対して声を掛けてきた。
「姉ちゃんの様子見に行こうよ、早良さん」
「着替え中だったら悪いだろ」
 らしくもない口ぶりで遠慮した早良に、雄輝は茶化すような笑いを浮かべる。
「なら、ドア開ける前に一声掛ければいい話。行こうよ」
「しかし……」
「見に行っていらっしゃいよ。奥さんだって早良くんが来てくれるの、待っているかもしれないじゃない」
 口を挟んできた史子が、あかりのことを慣れない形容で表したので、早良は余計に面食らった。
 見知らぬ女の子の手を離した雄輝が、今度は早良の腕を引く。軽く引っ張られただけでもふらつきながら、早良は古い公民館の軋む階段を上がっていく。

 陽が傾き始めていた。差し込む光に照らされて、階段はつやつやと輝きながら階上に繋がっていた。よく磨かれた木造の床は美しい光沢を放ち、二つある会議室の片方へと早良たちを誘う。
 会議室は既にドアが開いていた。真っ白なウェディングドレスの裾がちらと覗いている。
「いた! 本当に着てるよ、早良さん」
 まるで珍しい生き物でも見つけたように、雄輝が早良へと告げてくる。
 早良はますます落ち着かなくなって、意味もなく深呼吸を始めた。
「……雄輝?」
 会議室の方から、あかりが弟の名前を呼んだ。声を聞きつけ、存在を察知したのだろう。呼ばれた方は早良の腕を引きながら、一気に会議室へと飛び込んでいく。
「姉ちゃん、入るよ」
「どうぞ。ちょうど着替えも終わったから……」
 会議室に置かれた大きな姿見の前、白いドレス姿のあかりがこちらを向く。
 既にベールを被った彼女は、振り向きざま大きく瞠目した。どうやら早良まで来ているとは思わなかったらしい。目が合うと、とっさにはにかみ笑いが浮かんだ。
「あ、克明さん。お待たせしちゃってすみません」
「いや、別に……ちっとも待ってない」
 こんな日にまで舌が縺れることもないだろうに。そう思いつつ、早良はしどろもどろに応じる。六年経った今でも、彼女にはうろたえさせられることが多い。せめて今日くらいは落ち着いていたいと、自分でも考えていたのだが。
 早良は開け放たれた戸口に立ったまま、雄輝へと視線を向けた。彼が何か気の利いたことを言って、この空気を混ぜっ返してくれたらいいと思った。
 なのに――花嫁の弟は、難しい顔つきで呟いた。
「馬子にも衣装って言ってやろうかと思ってたけど、止めた」
 そうして早良の腕を解放し、くるりと踵を返してしまう。
「俺、やっぱ下で待ってる」
 言い残すと雄輝は、階下へと戻っていった。早良が呼び止める暇もなかった。
 室内に視線を戻せば、あかりも怪訝そうにしている。
「あの子、珍しい。憎まれ口の一つも叩いていくかと思ったのに」
 それでも、早良にはわかるような気がした。眼前にいるのは花嫁衣裳を身にまとったあかりだ。花嫁の装いも美しさも、きっと花婿の為にある。彼女に近しい人々には申し訳なく思いつつも、今日は誰より彼女を独占していたいと思う。
 花嫁は、誰よりも花婿のものだ。
 早良は、だから微かに笑んだ。六年間の記憶の中で、一番美しく、一番いとおしい彼女に対して、控えめに告げた。
「きれいだ、すごく」
「ありがとうございます」
 小首を傾げて、あかりも微笑む。その後で彼女は尋ねてきた。
「何だか騒がしい結婚式にしてしまって、ごめんなさい。克明さん、落ち着かないでしょう」
「そうでもない」
 かぶりを振って早良は答える。落ち着かないのは参列者の多さや、人々の注目を集めているせいではなかった。人に見られることはとうに慣れていたし、早良にとっては多数の視線よりも、たった一人の眼差しの方がよほど、どぎまぎする。
「それに、賑やかなのも嫌いじゃないからな」
 早良がそう言い添えると、あかりは意外そうな顔をして見せた。
「そう、なんですか? 克明さん、無理してません?」
「してない。……最近、好きになったんだ」
 その言葉は照れながら告げられて、新郎新婦は揃ってはにかむ。


「よくお似合いですよ、お二人とも」
 冨安の言葉が、古い公民館から出てきた花嫁と花婿を出迎えた。
 公民館の外は白いユリの花で一面に飾られていた。その花を並べるのを手伝ってくれたのが冨安たち、公民館の工事に携わった面々だ。レイアウトの美しさにかけては文句の付けどころもない。
「わあ、きれい!」
 花々を目にした史子が声を上げ、他の参列者たちも後に続く。
「絵になりますね」
 内田が言いながらカメラのシャッターを切り、その横で雄輝が、花が何本あるのかを数え始めている。
「七本、八本、九本……数え切れないよ。おじさん、この花何本あるの?」
「いっぱいだよ。君のお姉さんたちの、これからの幸せの数だけだ」
 雄輝の問いに答えた冨安が、早良とあかりに向き直る。そして、告げてくる。
「素晴らしい結婚式のお手伝いが出来て、光栄です」
「こちらこそ、ありがとうございます」
 早良が頭を下げる。こんな時でもやはり、気の利いたことは言えそうになかった。隣であかりもお辞儀をしている。
「こんなにきれいにしていただいて、とってもうれしいです」
「喜んでもらえてよかった」
 胸を撫で下ろす冨安。それを見て、早良の父親が口を挟む。
「見事なものだ。こうも立派に飾ってもらえれば、贈り主も喜ぶだろうな。――そうだろう、史子さん?」
 水を向けられた史子が、照れたように笑った。
「ええ、後で話します。きっと喜んでくれると思います」
 式を彩る花を贈ってくれたのは、史子の父親だった。ただ純粋に祝いたいんですって――そう父親の言葉を代弁した時の史子が、実にうれしそうだったのを早良は記憶している。

 年月は全てを変えてしまう。
 六年も経てば、何もかもが少なからず変わる。
 美しい花々の中、すらりと立つ花嫁も存分に美しかった。晴れの日の、花婿の為の装いでは、もう既に少女とは呼べない面差しをしていた。花婿が手を差し伸べればそっと、指先を絡めるように繋いでくる。そして、微笑む。
 二人は参列者たちに見送られ、ゆっくりとした足取りで歩き出す。沈み始めた陽の光に導かれるように、丘の上へと続いていく道を登っていく。緩やかな丘の上には天文台のある公民館が、星の見える夜と新しい夫婦とを待ち構えている。雲一つない空、今夜も流星が望めそうだった。
 温い風が吹き、丘を覆う草を撫でていく。波打つ斜面には二人の影が伸びていた。手を取り合い、歩調を合わせて丘を登る、早良とあかりの影が映っていた。
 白いベールも風になびいて、その下にある笑顔を覗かせる。あかりは笑っていた。この上なく幸せそうに笑っていた。笑いながら早良の手を握り締め、共に丘の上を目指していた。
 早良も笑って、花嫁の肩とベール越しに、上郷の景色を眺め遣る。

 夏の色をした風景は、花嫁ごととても美しかった。
 もうすぐここへ、ペルセウス座から星が降る。
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