Tiny garden

私のスーパーヒーロー(1)

 その昔、宮下あかりにとってのヒーローはプロレスラーだった。
 リングネームは知らない。フィニッシュホールドも知らない。むしろ技をかけているところを見たって名前がわからない。活躍をずっと追い駆け続けるということもなく、一度きり試合を見ただけのその人を、あかりは心の奥でヒーローだと信じていた。

 早良が聞いたらまさかと言うかもしれないが、あかりにも一応、真っ当な反抗期が存在していた。中学時代は家業を手伝うことに鬱屈とした思いがあり、弟が小さいうちは自分ばかり借り出されていたのも手伝って、ちょっとした不満をすぐ口にしては両親にぶつけていた。両親はその度に『中学生になったんだから』『お姉ちゃんなんだから』と宥めるにしても逆効果なことを言い、あかりの反論を封じてしまった。お蔭であかりはいつも不満を抱えていたし、些細なことでいらいらしていたし、時々小さな弟が羨ましくて、泣きたくて堪らなかった。
 プロレスを観に行ったのはちょうどそんな頃だ。夏休みだというのにどこにも連れて行ってもらえず、ぶつくさと掃除をしていたあかりを見かけた近所のおじさんが、隣町に興行が来てるからと言って連れ出してくれたのだ。上郷は小さな村だから、当時はそういうイベントさえ縁がなかった。雄輝と一緒に軽トラックの助手席に乗って、あぜ道を抜け、隣町の体育館まで炎天下の下を出かけた。
 蒸し暑い体育館の真ん中には青いシートのリングが設営されていて、それをパイプ椅子の集団がぐるりと囲んでいた。客入りはあまりよくなく、お菓子持参の子どもはちらほらいたが、女子中学生はあかり一人だった。あかり自身、いくら何でも十代の女の子をプロレス観戦に誘うのはどうかと思っていたし、だけど両親ならともかく近所のおじさんには反抗する気になれなかったし、興味のない試合をどうやり過ごそうかとずっと考えていた。そのくせいざゴングが鳴ったらあっさり惹きつけられてしまった。
 名も知らないレスラーは、田舎町の体育館にはもったいないくらいドラマチックな活躍を見せた。
 敵に打たれることを恐れず飛びかかり、その度に蹴りを食らっても、時にマットが波打つほど投げつけられても立ち上がった。照明にきらめく汗を撒き散らし、咆哮しながら孤軍奮闘、見事な試合ぶりを見せた。最後はてこずりながらも関節技に持ち込んで、もがく相手を力ずくで沈め、レフェリーに腕を取られて勝ち鬨を上げる姿を、あかりは二十歳になった今でも思い出せた。
 あの頃は、強いことこそ正しいと思っていた。
 自分もあのレスラーと同じように、強くいなくてはならないと思った。中学生だから。お姉ちゃんだから。お父さんとお母さんが旅館の仕事で大変なのはわかっているし、雄輝はまだ小さいし、だから――これからは、強くなくちゃいけない。意地を張ったり、子どもっぽくかんしゃくを起こしたり、感情的に振る舞って泣いたりするのは絶対、駄目。
 あかりはその日から、ごく一般的でごくささやかだった反抗を止めた。強くあろうと思うようになった。そして多少かぶれはしたらしく、雄輝に見よう見真似で関節技をかけて泣かしたことは数知れずあった。こればかりは延々と言われ続けているし、早良の耳にもとうに入っている。

 その早良は今、あかりを注視していた。
「……その服、似合うな」
 彼が自分に目を留めてから、ためらいがちな言葉が切り出されるまで、ゆうに三分はかかっていた。だから照れやうれしさよりも安堵が先立った。似合わないと思われているのではと、三分間は気が気じゃなかった。
「よかったです。克明さんの見立てがいいからですね」
 そう口を開けば、抑えた照明の下で早良の表情が解ける。
「俺は君に着せたい服を贈ってるだけだ。――その、君は嫌いじゃないか、そういうのは」
「はい。暖かくて、着心地がいいです。それに大人っぽくて素敵です」
「よかった。本当に、似合うと思う」
 ワンピースが好きだと、彼は以前言っていた。
 だからか、今日の為にと見立ててくれたのもニット地のワンピースだった。春先の気候によく合う暖かさで、落ち着いた色調のボーダー柄とも合わせて、あかりはとても気に入っている。
「うれしいです。克明さん、ありがとうございます」
 改めてお礼を言う。彼が服を贈ってくれるのは今回が初めてではなく、むしろ節目ごとに買おうとしてくれた。あかりからすれば決して安価ではない品ばかりだし、その度に恐縮もしているのだが、早良は遠慮をさせてくれない。
 仕送り生活のあかりは自分で服を買い揃えるにも限度があった。一方、早良はずっと年上で、おまけにどんな服装もさらりと着こなせる容貌の持ち主だった。今も薄暗いバーの店内、早良の顔をちらちら窺う女性客が数人いる。彼と同じテーブルに着いている自分がいつものような『動きやすい格好』ではよくないことを、あかりもしっかり理解している。彼の贈り物は、つまり彼からの優しさと気配りだった。
「ああ。誕生日だからな」
 早良が頷いた時、テーブル席にはグラスが二つ、運ばれてきた。ジントニックとファジーネーブル。品名は一度聞いただけでは覚えられなかったが、どちらが自分の注文だったかは色でわかった。オレンジジュースの色をしているのが、あかりが頼んだカクテルだ。
 小さなテーブルを挟んで、二人は互いにはにかみながら乾杯をする。
「誕生日おめでとう、あかり」
「ありがとうございます。お蔭様で、二十歳になりました」
 上郷を離れてから、二度目の誕生日を迎え――この三月、あかりは二十歳になった。大学に入りたての頃と比べても気持ちに余裕が出てきたし、こちらの生活にもすっかり慣れ、とうとうバーなどという、上郷にいたら絶対に縁のない場所へ足を踏み入れるようになっていた。そんな自分が不思議にも、特別驚くことではないようにも思う。
 そもそもこのバーに行くことを望んだのはあかりの方だった。早良と史子とが行きつけにしている店があって、とても静かで雰囲気のいいところだからと聞いていたから、あかりにはそれがすごく大人っぽい、憧れの象徴みたいに思えて、一度行ってみたいと思っていたのだ。ノンアルコールのカクテルもあるからと助言する史子をよそに、生真面目な早良はあかりが二十歳になるまで首を縦には振らず、こうして誕生日を迎えて初めて、連れてきてもらうことが叶った。バーに来るのも初めてなら、酒をちゃんと飲むのも今日が初めてだ。
 初めて飲んだファジーネーブルは、覚悟していたほどきつくなかった。むしろ口当たりがよく、果物のいい香りもした。美味しかった。
「あ、美味しい」
 思わず声に出すと、途端に早良がうれしそうな顔をした。
「口に合ったか」
「はい。ジュースみたいですごく飲みやすいです」
 あかりは頷いてから、そっと尋ね返した。
「克明さんも一口、飲んでみますか?」
「え? あ……貰ってもいいのか?」
 早良の表情が一転して、緊張に引きつる。彼は育ちのいい人だからか、飲み物や食べ物を分け合うということに抵抗を覚えるらしい。それでもあかりに対しては頑なに拒むという訳でもなく、悩みに悩んだ末、一口貰っていくというのがいつものパターンだった。
 あかりは弟がいるせいか、美味しいものは人と分け合って味わうのが好きだった。だから早良の反応を見つつ、たまに勧めてみる。
「嫌じゃなければ、どうぞ」
 そう告げると、答えは間髪入れずにあった。
「嫌じゃない。ちっとも」
 それであかりはファジーネーブルのグラスを勧め、早良は手早く受け取って、一口飲んだ。飲み終えた後の表情はどことなくくすぐったげだ。
「確かに飲みやすいな」
「そうですよね。もっと苦いかなって思ってたんですけど」
 あかりは一種類だけ、酒の味を既に知っていた。正月に飲むお神酒を、水と間違えてがぶっとやってしまったことがあった。あの時は苦くて、辛くて、酷い思いをした。
 テーブルの向こう側では早良が、ジントニックのグラスを手に一瞬だけためらった。すぐに、
「君も、よかったら一口。嫌じゃなければ、だが」
 もちろん嫌ではなかったが、他の気がかりがあった。とっさに聞き返す。
「苦くないですか」
「少し苦い。でも気になるほどじゃない、甘みもあるし、それにほんのり苦いくらいが美味しいんだ」
 早良が真面目に主張するので、あかりはとりあえずグラスを受け取り、恐る恐る口をつけてみた。味よりも、少し風変わりな匂いが印象に残った。苦味は言われた通り気になるほどでもなく、何も知らずに飲んでいたらびっくりしたかもしれない、その程度。
「こっちは本当に、お酒っぽいですね。慣れたら美味しく感じそうです」
 感想を言いながらグラスを返す。早良はもう一度、うれしそうな顔を浮かべてみせた。
「じきに慣れる。これからは君を飲みに連れて歩けるからな」
 その後でやはり、くすぐったげな照れ笑いが滲む。
「俺もこういう風に酒を飲むのは初めてだ。悪くないな」
 剥き出しのコンクリートの壁に、幸せそうな呟きが染み込んでいく。
 バーの店内はごく静かで、空気はずっと穏やかだった。大人っぽく憧れだった空間は、思っていたほど気取った雰囲気もなく、不思議と居心地がいい。

 それは、大人になることと似ているような気がする。
 大人になるというのは背伸びをしたり、肩肘を張るのとは違う。誰もがなろうとしてなる訳ではなく、いつの間にか、自然となってしまう。強くなくても、弱いままでも大人になれてしまう。そして弱さを持っていることが正しくない、訳でもない。強くありたくてもなれない人もいる。その弱さを隠さず、明かしてくれる人もいる。
 あかりにとってのヒーローは、かつては強靭なプロレスラーだった。
 今は違う。小さなテーブル越しに見つめる、とても不器用で、でもそれ以上にとても優しい人が、心の奥底にいつも存在していた。
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