Tiny garden

私のスーパーヒーロー(2)

 酒を飲むペースは、早良の方が速かった。
 あかりはとても慎重になっていた。いくらファジーネーブルが飲みやすいからと言っても、それこそジュースのように飲むのは危険だ。現にジュースとは違い、三分の一ほど飲んだ辺りで胃の辺りが熱くなってきた。だからちみちみと、用心深くグラスを傾ける。
 そうこうしているうちに早良のグラスが空になる。お替わりを頼むのかなと見守っていれば、彼もちょうどこちらを見た。
「……あ」
 早良が小さく声を漏らす。
 二人でいると目が合うのはよくあることで、もう一年以上もこんな時間を過ごしているのに、彼はその度にいちいちうろたえ、視線を逸らそうとする。自分みたいな、ついこの間まで未成年だった女の子に動じる彼を、あかりは不思議にも、面白くも思う。少なくとも決して悪い気はしない。
 あかりは、今のような早良の顔が好きだった。
 端整と言って差し支えない面立ちは、確かに多くの女の子たちを惹きつける。バーの淡い照明の下ではその陰影が際立って、彼をより印象深く見せる。だが彼の本質は、端整さの奥に潜んでいる。言葉に迷ったり、無理に取り繕おうとしたり、素直にうろたえたりする時の表情が、好きだった。
「お替わり、するんですよね」
 こちらを見ていない顔に、あかりはそっと尋ねてみる。自分のことならお構いなくと伝えたかったのだが、早良はと言えば相変わらず慌てた様子で答える。
「いや、もう少し後にする。飲みすぎるのはよくない」
 それから、重大な決意でもしたような長い長い間の後で、あかりの前に置かれたグラスへ目を戻した。
「君は随分とゆっくり飲むんだな。……あ、別に咎めている訳じゃない。好きなペースで飲んでくれていい、でももし、酒はもういいと思ったらノンアルコールのメニューもあるから、無理はしないでくれ」
 慌てた時、早口気味になるのが彼の癖だった。どうも慎重なペースのあかりを気遣ってくれたらしい。ただこれは別に、慌てて言うことでもないのに、とは思う。
「わかりました。酔っ払わないよう、気をつけます」
 あかりは笑いながら、しかし半ば本気で答える。
 それで早良は何か言いたそうに唇を開きかけたものの、結局一度、閉ざした。すぐに言葉を継ぐ。
「君が楽しんでくれるのが一番だからな」
「はい。お酒にはまだ慣れていませんけど、初めてのことばかりで、とっても楽しいです」
 本心から頷けば、彼はたちまち安堵したようだ。口元が緩む。
「よかった」
 そしてしばらくしてから、一向に減らないあかりのグラスを気にしつつも二杯目を頼む。
 新しいカクテルの名前はモスコミュール。やはり一度では覚えられなくて、今度は彼に笑われた。楽しそうな笑い方をされると、ちっとも嫌な気分にならない。
 それどころか、時々思う。
 歳の差を感じない。彼といると、時々、同い年くらいの男の子と話をしているような気分になる。

 当然あかりにも、早良との歳の差を意識する機会が幾度となくあり、かつてはそのことを思い悩んだりもしたのだが、今となっては些細な差だった。
 早良の弱さに惹かれていた。歳の差を飛び越えられるほどに強い共感と、優しい気持ちを抱いた。
 昔は、強いことこそが正しいのだと思っていた。あの夏に観たプロレスラーのように、打たれても打たれても立ち上がってくる強靭さがなければいけないのだと。だからあかりは強くありたかったし、弱くはありたくなかったし、上郷を離れてホームシックらしきものにかかっても、絶対に泣くまいと決めていた。泣くなんて弱い人間のすることだと決めつけていた。
 でも、とうとう泣いてしまった。
 そしてその時、早良は自分を、酷く不器用に抱きしめていてくれた。
 強い人だと思っていた。早良のことを上郷の大人たちは皆、仕事熱心な青年だと口々に誉めそやしていたし、生意気な弟でさえ彼のことは高く買っているようだった。あかり自身、初めて会った時は皆と同じように思った。強くて、立派で、あの夏のプロレスラーみたいだと思った。
 なのに早良は、十代の女の子を慰めるのさえ不器用だった。食事に誘う時は変に大人ぶった、命令みたいなことを口走った。ちっともそういう風に見えないのに冗談を言うのがすごく下手で、むしろ彼が真顔で言うことがあかりにはおかしかったりして、それで笑ってしまうと子どもみたいに拗ねてもみせた。ちょっとしたやり取りでとても慌てたし、あかりの一挙一動を気にしては、わかりやすい余裕のなさも晒していた。風邪を引いたあかりの見舞いに来た時は、アイスクリームを、一人暮らしの冷凍庫に入りきらないほど買ってきてくれた。あたふたと大荷物で駆けつけた早良を見た瞬間、申し訳なさや驚きよりもずっと強く、優しい気持ちを抱いた。
 君に信じていて欲しい――そう訴えた早良の、ぴんと張り詰めた表情もずっと覚えている。
 強い人の顔ではなかった。だから、いいのだと思った。
 もちろん、強くあれたならそれが一番いい。強靭な人はそれだけで立派に生きていける。だが世界の全ての人が強い訳ではなく、強くありたいと願ったところで強くはなれない、とても不器用な人がたくさんいる。
 弱くて不器用な人が、それでも弱さを隠さずに精一杯向き合おうとする姿を、あかりは印象深く、そして素敵だと思う。
 早良の弱さを知ると同時に、一人じゃなかった、と初めてわかった。ホームシックでめそめそ泣いているような、強くなれない人間は自分だけではなかった。彼のように、プロレスラーみたいにはなれなくても、弱さを恥じず、隠さずに、いろんなことに立ち向かっていきたかった。彼の言葉をひたすら信じて、深く深く信じて、傍にいようと思った。
 あかりにとってのヒーローはもう、あの夏のプロレスラーではない。

「……どうして、黙るんだ」
 テーブル越しに声がして、はたと我に返る。
 差し向かいの早良はモスコミュールのグラスを手に、困ったようにこちらを見ていた。あかりが思わず瞬きをすれば、早口言葉のスピードで続ける。
「君が黙っていると、何だか気になる。どんなことを考えているのか、話しかけても差し支えないのか、それとも黙っている方がいいのか、わからなくなるから。考え事をするなとは言わないが、その、時々は俺のことも考えてくれないか」
 その口ぶりが心底困った様子だったので、あかりはすぐに詫びた。
「すみません。克明さんのことを考えていたんです」
 考えてくれと言ったのは早良のはずなのに、答えた途端、彼は凍りついた。呼吸ごと全部止めてしまったようだったので、急いで付け加える。
「本当ですよ。……初めて会った時から今日までの克明さんを、ずっと考えていました。いろんなこと、ありましたよね」
 彼は即答せず、ぎくしゃくした動作で酒を一口飲んだ。
 息を吐きながらようやく応じる。
「君にはずっと、無様な姿ばかり見せているような気がする」
 それがいい、とは、彼自身には言えない。代わりに告げた。
「私だってそうですよ」
 それもまた事実だ。あかりの弱さは、取り繕えないほど何度も何度も彼の前で晒してしまった。それでもいいと、今は思う。
「お互い様です。だからちょうどいいって、私はそう思っています」
 強くなれなくてもいい。一緒にいられたら。
 弱さを隠さない、不器用なスーパーヒーローを、あかり自身も不器用ながら、拙いながらも支えていけたら、支え合っていけたらいい。
「俺は」
 早良が低く呟く。
「出来ることならもう少し、君にいいところを見せたいと思ってる。いつまで経っても格好がついてなくて困る」
 けれどあかりは、ぼやいたその表情にこそ惹かれてしまう。

 結局、ファジーネーブル一杯だけで店を出た。
 当たり前だが、酔っ払いもしなかった。上着を羽織らなくてもいいくらいぽかぽかしている程度で、夜道を普通に歩くことも出来た。バーの入っている雑居ビルから、あかりのアパートまではさほど遠くない。名残を惜しむにはぴったりの距離だ。
「君はちっとも飲まなかったな。やっぱり口に合わなかったか?」
 歩きながら早良が言う。繋いだ手もアルコールのせいか、いつもより温かい。
「いいえ。美味しかったんですけど、酔っ払っちゃうといけませんから」
 そう答えたあかりに、彼はまた何か言いたげな顔をする。夜道を進む数歩目のタイミングで、多分、言いたかったであろうことを発した。ぼそぼそと、ためらいがちに。
「……その、そういうことだったら信用してくれていい。君が酔ってしまったって、俺はちゃんと部屋まで送るから」
「そうじゃないんです」
 彼の気にしている事柄がわかって、あかりはつい笑ってしまう。隣では複雑そうな面持ちがこちらを窺っていたから、なるべく早く言い添えた。
「お店の人に迷惑を掛けたら嫌だなって思ったんです。克明さんの行きつけのお店ですから、そういうところで酔っ払っちゃうのはよくないなって」
 それで早良はやっと、腑に落ちたそぶりを見せた。冗談のつもりなのかそうではないのか、わからない笑い方をする。
「でも俺は、酔った君の姿も見てみたかった。いつもは俺の方が無様だから、君に隙が出来るとどうなるのか、知りたかったな」
 ちゃんと酒を飲んだのは今日が初めてだから、酔った自分がどうなるのか、あかりは知らない。ファジーネーブル一杯で気分がよくなっているのは確かだ。もう一杯くらいなら平気だろうか。もっと気分がよくなったら、自分は、どんなことを思うだろう。
 隙なんて、ずっと前からあった。自分の弱さを彼はもう知っている。今更だ。
「じゃあ次は、二人だけでお酒を飲みましょうか」
 ひらめいたことを提案すると、怪訝な声が返ってくる。
「今日だって二人だけじゃないか」
「今日は、お店の人も、他のお客さんもいましたから。そうじゃなくて本当に私と、克明さんだけでです。お酒を買ってきて、例えば、私の部屋辺りで――」
 繋いだ手の先、彼の腕がびくりと緊張するのがわかる。今はどんな顔をしているのか、あかりには見る余裕がない。自分だって決して強くはないから。
「今からでもいいですよ」
 それは何だか、切羽詰まった誘いになった。
「アパートの近くにコンビニがあるんです。そこへ寄って、お酒を買って、二人で、私の部屋で飲むんです。そうしたら酔っ払ったところ、多分、お見せ出来ると思います」
 早良はもう完全に立ち止まっていて、顔を見なくても繋いだ手だけで狼狽ぶりが伝わってきた。街灯の照らす影が身動ぎもせず、人気のない住宅街に伸びている。
 やがてその肩がゆっくりと上下した。
「わかった」
 搾り出した答えも大変に、切羽詰まっているように聞こえた。
「明日は休みだから、……君さえよければ、いくらでも付き合う」
 間を置かず手を握り直してきたので、あかりもそっと、繋いだ手に力を込める。

 どのくらい飲んだら酔っ払えるのかわからない、でも――自分の弱さを、彼には全部知ってもらいたいと思う。
 そうしていくらかでも隙が出来たら、ここぞとばかりに打ち明けてしまおう。自分にとってのかつてのヒーローと、今、心の中にいるスーパーヒーローのこと。
 どこが好きなのかを正直に教えたら、果たして彼はどのくらい、うろたえるだろう。
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