Tiny garden

ペルセウスの方角から(1)

 八月が来た。
 あかりからの電話で、早良は彼女の声と蝉の鳴き声とを聴いている。
『いいお天気なのはうれしいんですけど、毎日暑くて仕方がないです』
 ぼやくように言いつつも、あかりの言葉は弾んでいた。
『そちらはいかがですか? 暑さのあまり、体調を崩したりしてませんか?』
「ああ、お蔭様で」
 答えた早良は実際のところ、体調はともかく精神的にすこぶる元気とは言いがたい。暑さのせいではなく、夏のせいだった。電話越しの声がやけに遠い。
『よかったです』
 ほっとした様子で彼女は続ける。
『来週は是非、こっちに来ていただきたいですから。早良さんとはずっとお会いしてないような気さえするんです。だから、上郷でお会い出来るのがとっても楽しみです』
 そこまで言うなら、夏休みの間もこっちにいてくれたらいいのに――とは、思っても言えない。あかりの実家が書き入れ時を迎えているのもよく知っていたし、彼女が休憩時間の合間を縫って連絡をくれるありがたみもわかっている。彼女の方から連絡してくれるようになっただけ、以前よりはずっと幸せなはずだった。
 しかし、会いたい時に会いに行けない距離というのも辛いものだ。ましてようやく彼女の『返事』を聞いて、晴れて恋人同士となった直後とあって、尚のこと堪えた。毎日でも会いたいという思いは、物理的距離によってあっさりと潰えた。

 あかりが帰省したのは七月の末、上郷村新公民館の竣工式が終わった後のことだった。一緒に帰る、という約束は完全には果たされなかった。竣工式に顔を出した早良はスケジュールの都合でとんぼ返りし、あかりと会う暇もなかった。彼女はと言えば一人で上郷へと帰っていき、早良が再び上郷へやってくるのを、家の手伝いをしながら待っている。
 八月の休暇に照準を合わせて、日々仕事を片付けている早良だが、会いたい衝動を抑え込むのには苦労していた。仕事帰りにあかりのアパートの前を通っては、その窓に光がないことを無性に寂しく思い、一人打ちひしがれたりしている。彼女の前ではおくびにも出さなかったが、相当、重症だった。
 それでも、彼女も同じように会いたいと思ってくれていることが、早良にとっての支えだ。

『早良さんはお休み、大丈夫そうですか?』
 あかりのその問いには、早良も胸を張って答える。
「何とかなりそうだ。十二、十三と連休を入れた」
 お盆の休みを返上して、直前の二日間に休みを捻じ込んだ。何もかもがペルセウス座流星群の為、そして彼女に会いたいが為だった。
 そのせいで早良は現在、残業続きの日々を送っている。早良にはとうに慣れたことだが、直接の影響を被ったのが内田だ。年長の秘書は仕事に追われながらぶつくさ不満を口にしている。態度の悪さも品性のなさも相変わらずの男だったが、早良が激務に付き合わせても、今のところ自発的に辞めようとするそぶりはない。腹をくくったのか、それとも他に行くあてがないのかは早良の与り知らないところだ。本人が以前言ったように、誰かによってクビになるということもなく――結局、早良の秘書はあの信用ならない男のままだった。
 内田と、その背後にいるはずの自分の父親とを見て、早良はようやく気が付いた。どうにも動かしようのない壁を有しているのは自分たちだけではないらしい。むしろ誰もが動かせず、揺るがせない壁に囲まれた道を歩いている。それを乗り越える方法はたった一つ、自分の強い意思だけだ。乗り越えたいと思えなくてはどうしようもない。誰かが壊してくれるのを待っているのは時間の無駄だ。自力で乗り越えていかなくてはならない。
 早良には、その意思を支える存在がいる。お蔭で何もかも乗り越えていく覚悟が出来た。幸いなことだとしみじみ、会話をしながらも思う。
「不測の事態でも起こらない限り、普通に休めるはずだ。意地でも休んでやる」
『じゃあ、何事もなく来ていただけることを願ってます』
 くすくすとあかりの笑う声。耳元に心地よい。遠くで蝉の声が賑々しく、既に上郷の夏へ舞い戻ったような気さえしていた。
 山々の深い緑と陽射しの匂い、抜けるような青空、蒸し暑さの中を吹き抜けていく清涼な風。山と向かい合う位置にある緩やかな丘陵の上、白亜の新公民館が建っている。先月末の竣工式当日、見てきたままの光景を、早良は容易く思い出すことが出来た。後はそこに、彼女の姿を浮かべられたらいいのだが、想像を巡らせるだけでは物寂しくなるだけ。奥歯を噛んでやり切れなさを堪えている。来週が待ち遠しくて待ち遠しくて仕方がなかった。

 一方、上郷に戻ってからというもの、あかりの声は常にうきうきとしていた。
『うちの弟も早良さんに会いたがっているんです。新しい公民館の天文台がいたく気に入ったみたいで、毎日眺めに行ってるんですよ』
 ホームシックに苛まれていた彼女も、故郷へ戻ればそんな不安はなくなる。毎日を楽しく、幸せに過ごしているようで、彼女の元気さを喜びつつもいささか複雑な思いに駆られる。早良としては、自分の傍にいる時こそ一番元気であって欲しいのだが、相手が家族と上郷村では敵うはずもなかった。
『早良さんともいっぱい話すんだって言ってました。きっと喧しいでしょうけど、よかったら半分くらいは聞いてやってくださいね。こっちには泊まっていかれるんですよね?』
 あかりが終わりにしてきた問いに、早良は首を竦めて答える。
「いや、日帰りだ。流星群を見たら帰る」
『そうなんですか? 連休、何かご予定が……』
「予定はないが泊まるところもない。君のところはお客さんでいっぱいだろ?」
 聞くまでもなく察していた。上郷に旅館は一件しかなく、流星群が見頃を迎える十二日辺りは既に満室になっているはずだった。長居をしたいのはやまやまだったが、これもやはり仕方がない。
「車で行くからそのまま帰る。君と一緒に星を見られたらそれだけで十分だ」
『そんな、夜道は危ないですよ。ご迷惑でなければ、是非うちに泊まっていってください』
「そうは言っても、空きがあるのか?」
 訝しく思って尋ねれば、あかりは間を置かずに告げてくる。
『客室はあいにくいっぱいなんです。でも、私の部屋が空いてます。よかったらどうぞ』
 あまりに平然と、さらりと言われたので、早良は危うく聞き流すところだった。
 次の瞬間、携帯電話を取り落としかけた。
「何だって?」
『ですから、実家の私の部屋です。狭くて何もない部屋ですけどね。机とかテレビは、全部向こうの部屋に持っていっちゃいましたし』
「……いや、その」
 問題はそこではない。早良は内心うろたえた。
 しかしあかりは実に平然としたもので、
『お布団はちゃんとお客様用のがありますから、大丈夫です。あとお風呂もありますし、ご飯も用意します。大したものは出来ませんけど……』
 うれしそうにあれこれと提案してくる。
『早良さんさえご迷惑じゃなかったら、是非どうぞ。その方がゆっくり出来ますし、私だって早良さんとはいっぱいお話したいです』
 彼女の口調はごく当たり前といった風だった。
 だが早良にとっては大いに動じる提案であって、そもそも彼女の実家に泊まるということ自体が大事だ。ご両親にはどう挨拶をし、あかりとも皆の前でどう接するのが適当かと、いち早く頭を悩ませ始める。いつかはご挨拶にとは思っていたものの、付き合い出して一月も経たないうちにとなると、非常に悩ましい。
「迷惑なんてことは……こっちこそ、いきなり押しかけて迷惑にならないか?」
 恐る恐る確かめた早良に、
『いいえ、ちっともです。うちの家族も大歓迎って言ってます。私は元々、早良さんに泊まっていっていただくつもりでしたから』
 何でもないように彼女は答える。うろたえている自分の方がおかしいのではないかと思える、普段通りの態度だった。
 狼狽の中でも早良は思索を組み立てる。そして、最も重大と思われる懸案事項について尋ねてみた。
「その、俺が君の部屋に泊まるということは、君は……」
『あ、私は雄輝の部屋で寝ますから、ご心配なく』
「……そうか」
 相変わらず平然と告げられ、早良は少なからず落胆した。彼女の性格を思い起こせば端から見当のつきそうなものだったが、もしかしたらと思ってしまう辺り、自分の浮かれぶりに嫌気が差した。期待し過ぎていた。
 ともあれ、彼女の答えに落胆したことは何としても、絶対に悟られる訳にいかない。至って明るく言葉を返すのだった。
「じゃあ、お邪魔させてもらう。本当にいいのか?」
『はい、是非。こっちでのんびりしていってください』
「ありがとう。お言葉に甘えるよ」
 重大な懸案事項がこれもあっさり潰えてしまったとしても、早良にとって考えることが多いのには変わりない。上郷へ行ったら、あかりの親には何と言って挨拶をしようか。手ぶらで行く訳にもいかないだろうし、お土産は、一体何がいいだろうか。そして、実に久しぶりに会うような気がするあかりを、どんな顔をして訪ねていけばいいだろうか――成就したならしたで、恋とは悩ましきものだった。

『新しい公民館、遠目に見ただけですけどとっても素敵ですね。早良さんがこちらにいらしたら、一緒に見て回りたいです』
 あかりの声が弾んでいることだけが、複雑ながらも救いだ。早良も笑い返しながら尋ねた。
「何だ、まだ中は見てないのか? せっかく近所にあるんだからひとっ走り行って見てくればいいのに」
 彼女の足ならあの丘を駆け上がるのもほんの一息だろう。そう思っていたが、電話越しに聞こえた声は照れを含んだものだった。
『だって、早良さんと一緒がよかったんです。せっかくだから、早良さんからいろいろお話を聞きながら、二人で見てみたいなあって』
 ふふっとはにかむような笑いが零れて、電話越しにも吐息が触れてくる。会いたい気持ちがまた募る。あかりの見ていないところで、早良はそっと嘆息する。

 その日から一週間、早良は初めて仕事が手につかないという心境を体験した。重症だった。
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