Tiny garden

天頂引力(8)

 早良の送っていく、という申し出を、史子はやんわり断ってきた。
 ホテルの駐車場に停められたマスタングの前、早良はあかりと史子の両方に家まで送ると告げたのだが、即座に史子はかぶりを振る。
「いいわよ。私が乗り込んだらお邪魔でしょう?」
「そんなことはない」
 ぶすっと答えた早良を見て、あかりがこっそり笑いを噛み殺す。
 史子も軽く吹き出してから、もう一度首を横に振った。
「でも、本当にいいの。今日は一人で、のんびり歩いて帰りたい気分なんですもの」
「君の家までは遠いだろ。歩いて帰るなんて……」
「そういう気分なのよ。だって今日は、私にとっても特別な日だったでしょう?」
 頑としてそう主張する彼女を、早良はそれ以上誘わなかった。彼女の気持ちは確かにわからなくもない。
 早良は助手席のドアを開け、あかりを促し、車へ乗せる。そして運転席のドアも開けると、付き合いの長い友人に挨拶を告げた。
「じゃあ、志筑さん。気を付けて」
「ええ、早良くんたちもね。今日はありがとう」
「こちらこそ」

 史子に見送られて車を発進させた後――あかりが、ぽつっと呟いた。
「志筑さんって、とっても素敵な方ですね」
 すぐにサイドミラーから史子の姿は消えてしまう。薄暗い駐車場を抜け出せば、オレンジ色の夕景の中へと辿り着く。少し眩しい。
「そうだな」
 ハンドルを握る早良が、珍しく素直に同意した。
 強くなったと彼女は言ってくれたが、早良からすれば史子もまた強くなったように思う。早良を動かしたのが恋だとするなら、史子を動かしたものは何なのだろう。――しばし考えて、その後おぼろげに浮かんできたのは、史子の父親の顔だった。
「志筑さんと早良さんって、少し似ていますよね」
 助手席からそんな声がした。
 早良がちらと目をやれば、あかりも早良の方を見ている。シートベルトを締めた彼女を、今日はバックミラー越しじゃなくても確認出来た。
「それはどうかな。どの辺りが似てる?」
 問い返すと、小首を傾げた思案顔が視界の端に映った。
「ううん……どこということはないんですけど、何となく似ているように思うんです」
「曖昧だな」
「そうですよね。でも、ちょっと似てる気がして」
 あかりがふふっと笑ってみせた。
「だから私、志筑さんのことも好きになっちゃいました」
 実に何気ない言葉が後に続いた。

 不意に口を噤んだ早良は、直前のあかりの言葉をどう受け取っていいのか困惑していた。
 それはつまり――自分のことも好きになってくれたと思っていいのだろうか。好ましく思ってもらっているだけではしょうがない。更に踏み込んだ感情であって欲しいと願っている。
 そういえば、この間の返答をまだ貰っていない。

 フロントガラスの向こうで、陽がゆっくりと沈み始めている。
 早良はタイミングを計るように空を見て、それからトーンを落とし、切り出した。
「一つ、君に聞いておきたいことがあるんだが」
「はい」
 何のてらいもない笑顔を向けられて、一瞬ためらう。しかし尋ねない訳にもいかない。曖昧なままにはしておけない問題だった。
「この間の返事を、教えてくれないか」
 あえて助手席の方を見ずに尋ねた。
 言った後で車内に奇妙な沈黙が生じ、早良は居心地の悪さを覚える。それでも助手席を見る気にはなれなかった。今そちらを横目にでも見たら、たちまち運転に集中出来なくなりそうだった。
「ええと……」
 あかりが、迷うような声を上げる。
「あの、今日のことって、お返事の代わりにはなりませんか」
 おずおずと告げられたのはそんな言葉。
 それで早良は唇を結ぶ。――当然、考えていなかった訳ではない。あかりが今日、早良を頼ってきてくれたこと。彼女が早良の求めに応じ、あのラウンジまでついてきてくれた意味。全く頭になかった訳ではない。むしろ彼女の言動から、多少なりとも予感めいたものを受けて、それに支えられるように返事を促したのが実際の経緯だ。自信が全くなかったといえば嘘になるし、彼女の返事によって曖昧な予感を確かなものにしたかった、それだけだった。
 もっと言うなれば、単に彼女に言わせたいだけなのだと思う。彼女の口からそういう言葉を聞きたい。あれこれ自分に言い訳をしても本音はそんなものだ。実に幼い欲求だと思う。
 自覚していながら、早良は再び口を開いた。
「是非聞きたい」
 幼い欲求にあっさり従うことにした。
「出来ればわかり易く、直截的に」
「え、あの」
「それでいて決定的な言葉が聞きたいんだ」
「はあ……」
「言ってくれなきゃ、明日からの仕事が手につかない」
 さすがにこれは子どもじみた要求だと思いながらも、早良はそのまま、あかりの言葉を待つ。
 窓の外、夕景が流れていく。上郷よりもずっと都会らしい街並みは、今は上郷の夕刻と同じように、一つの色に飲み込まれている。
 かつて早良は、夕暮れの風景が好ましくないと思ったことがあった。何もかもが一様に染められていて、そこに溶け込んでいくのに違和感を抱いた。自分はちゃんと溶け込めるだろうか、いつものようにどこからも爪弾きにされてしまうのではないかと、苦々しい思いだけを持っていた。
 けれど今、二人きりの車内で、早良は夕景に溶け込んでいる。あかりと共に、この街の景色の中にいる。そうしていることが実に自然なことと思えた。
「大好きです」
 彼女が答えたのは、その時。
 早良は動揺したのを悟られないように、静かに、慎重に息をつく。
「本当に、早良さんのことが大好きです」
 あかりは再度、繰り返す。
 そして、車内の気まずさを吹き飛ばそうとするように、素早く語を継いできた。
「早良さん、覚えていらっしゃいますか? もうすぐ八月ですよ」
「……八月?」
「流星群の時期です。ペルセウス座の」
 言われて早良もすぐに思い当たる。忘れたことはなかった。上郷自慢の星空の、その中でも最も素晴らしいと聞く、夏の風物詩。早良はまだ直に目にしたことがなく、いつか見られたらと思っていたのだ。天文台のある新公民館も、ちょうどその時期には間に合う。
「私、その頃には上郷へ帰る予定なんです」
 そう言って、あかりがうれしそうに笑った。
「旅館が忙しくて人手が足りないだろうから、戻ってお手伝いをするつもりなんです。両親にも話してあって、もう決めてあります」
 はしゃいだ様子の彼女を、早良は少し物寂しく思う。故郷の方が居心地がいいのは当たり前のことだろう。しかし里帰りをしている間は、彼女とも会う回数が減ってしまう。まさか休日の度に上郷まで通っていくという訳にもいかない――それも悪くはないとまで、早良は思ってしまうのだが。
「よかったら、早良さんも一緒に、いかがですか」
 あかりが言った。
 何を、だろう。早良が怪訝に思えば、更に彼女の言葉が追ってくる。
「早良さんも上郷にいらっしゃいませんか。一緒に、ペルセウス座流星群を見たいです。ほら、春先にお話しましたよね? その頃またお会い出来たらいいですね、って」
 確かに、それも覚えていた。社交辞令だと思っていた言葉が、事実になろうとしている。あの頃からずっと、早良はあかりに惹きつけられている。どう抗っても敵わないほどの強い引力によって。
「いいな、一度見たいと思っていたんだ」
 だから早良も笑う。どうやっても噛み殺せそうにない笑いを、幸せな思いで浮かべてしまう。幸せ過ぎて堪らず、あかりに対してこう告げる。
「一緒に帰ろうか、上郷へ」
「はい。二人で、一緒に帰りましょう」
 答えたあかりの声も、とても幸せそうに聞こえた。

 夏の盛りを迎えようとしていた。
 日が長くなり、気温が上がり、街路樹が青々と葉を茂らせている。上郷の山はどうだろう。夏の陽射しの下で、あの村はどんな風に見えるのだろう。
 ふたりで見る上郷の景色は、どれほど美しいものだろう。
 ふたりで見上げる星空は、どんな風に映るだろう。
 彼女のいる夏に、早良は思いを巡らせている。真昼の陽光も星明かりの中も、彼女は敏捷に駆け抜けていく。長い髪を揺らして、弾ける笑顔をちらつかせて、いつも通りの気負わない、動き易そうな服装で――。

「あ」
 ふと思い立って、早良は眉を顰めた。
 助手席のあかりにすかさず告げる。
「悪いんだが、帰る前に一つだけ、付き合ってもらってもいいか」
「はい。私も、もう少し一緒にいたいです」
 殊勝なことを口にした後で、
「でも、どちらに行かれるんですか?」
 あかりが不思議そうに問い返してくる。
「買い物だ」
 短く答えた早良は、胸中でだけ呟いた。――さて、どう言えば、彼女に贈り物をさせてもらえるだろう。プレゼントをするのは恋人同士なら珍しいことではないはずだが、恋人と呼ぶにはまだ滑り出したばかりのふたりだ。彼女に受け取ってもらえるよう、説き伏せる必要もあるかもしれない。
 差し当たっての理由は素直に伝える方がいい。
 ワンピースが好きなんだと言ったら、彼女はまた笑うだろうか。
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