Tiny garden

ダスト・トレイル(4)

 早良が思い起こす時、彼女はいつも、早良の車の後部座席にいた。
 助手席を勧めたことはない。だが、勧めても遠慮されるだろうことはわかっていた。彼女はいつでも行儀よく、後部座席にちょこんと収まっていた。
 行儀のいい彼女が手紙の中、語る。
『上郷を出てくる時、ちょっとわくわくしていました。上郷よりも大きい街で暮らしたことはなかったので、どんな毎日になるんだろうって想像を膨らませて、胸をどきどきさせていました。不安がちっともなかったと言えば嘘になります。でもきっと、絶対に、いいことずくめの毎日になるだろうって思っていました』
 彼女は、笑うのが上手だった。礼儀正しい大人の笑顔も、天真爛漫な少女の笑顔も、どちらも惜しげもなく浮かべてみせた。彼女の笑顔は早良の心にも、深く印象づいている。
 そのくせ、泣く時は手に負えないほど、遠慮もなく、散々に泣くのだったが――。
『あの日、私が駅前の方で道に迷ってしまった時、早良さんと偶然お会いしましたよね。私、あの時に思ったんです。やっぱりいいことずくめだったって。道に迷って、途方に暮れて、どうしたらいいのかわからなくて、このまま上郷まで帰っちゃおうかって考えていたくらいだったのに、早良さんの顔を見たらそんな気持ちもなくなってしまいました。やっぱりこっちに来てよかったって、思いました』
 手紙の中の言葉は、どこまでが本当だろう。
 嘘がない訳ではないだろう、と早良は思う。それは不信の心で思うのではなく、彼女という人間を見つめてきたからこそわかる、知っている彼女らしさのせいで思う。きっと、必要とあらば嘘もつく。早良に心配を掛けまいと、手紙には嘘もいくらか含めているだろう。
 それでも、早良は願いたくなる。
 このくだりだけは、真実であって欲しい。
『早良さんにまたお会い出来て、本当によかったって思いました』
 彼女の本心であって欲しい。そう願ってしまう。

 早良の胸裏で、浮かぶ情景が音を立てて切り替わっていく。
 薄暗い車の中から、一面にきらめく星空の下へ。春の夜、上郷の山で見上げた、満天の星空へと。
 まだはっきりと記憶していた。風が吹き、木々をざわめかせ、膝丈ほどもある草むらが毛並みのようになびいている。夜闇と風の只中にあって、早良は星空へと強く惹きつけられていた。
 それは、上郷で初めて夜を過ごした日の出来事だった。
 上郷の星空は美しかった。
 冴え冴えとした冷たい光に満ちていた。息をするのも躊躇われるような静けさの中、早良はじっと空を見上げていた。触れられないほど遠くにある星の光を見つめていた。
 望遠鏡越しに見たなら、もっとはっきりと見えただろう。星の色合いも大きさも、微かに光る七等星も確かに見えたことだろう。天文台が出来れば、この星空は更に多くの人々に愛されるものとなる。多くの人々に愛され、好まれるだけの価値が、上郷の星空にはあると早良は思った。
 春先ですらあれほどに美しかったのだ。流星群ならば、どれほどに素晴らしいものなのだろう。思いを馳せたくなる。八月に。ペルセウス座流星群の季節に。
 それは、あかりと初めて出会った日の出来事だった。共に星を見上げた、あの夜の思い出だった。

『前にお話ししましたよね? 私、早良さんみたいなお仕事をして、早良さんのような人になりたかったんです』
 星空の下で、眼差しの真っ直ぐな彼女が続ける。
『上郷に明るさと元気を連れてきてくださった、早良さんのようなお仕事をしたいんです。そうお話したら、早良さんが優しく励ましてくださった時のうれしさ、私は時々思い出すんです。こっちに来て、大学できちんと勉強すれば、早良さんのようになれるんじゃないかなって思っていました』
 まだ行儀よく、上手な笑みを崩さずに続ける。
『だけど早良さんのようになる為には、ただ勉強するだけじゃなくて、もっとたくさんのことを学んで、考えて、出来るようにならなきゃいけないんだって、あの時思いました』
 早良は彼女の文字を追う。タクシーに揺られながら、意識の全てを手紙と、手紙の中の彼女へと向けている。
『本当はあの時、迷子になってしまった時、私は早良さんのことを考えていたんです。早良さんがいてくれたらいいのにって、つい、思ってしまいました。だって私、こっちには知っている人がほとんどいなくって、あの頃はまだお友達も全然いなくて、アパートの大家さんくらいしか頼れる人がいなかったんです。それでとっさに、早良さんのことを考えていました。早良さんと、偶然にでもお会いできたらなって、思いながら歩き回っていたんです』
 星空の下の笑顔に、街角で出会った時の面差しが重なる。華奢な手足をふらふらさせて歩いてきた彼女は、早良の姿を見つけるなり、翳っていた表情をぱっと明るくした。それを早良は、彼女らしい上手な笑い方だと思っていた。
 しかし本当は、あの時も、泣きたかったのではないだろうか。もう少しで泣き出してしまうところだったのかもしれない。
『そうしたら、本当に早良さんにお会いできたから、びっくりしてしまいました。私、早良さんに助けてもらいたいなんて、甘えたことを考えていたのに、そんな私の前に早良さんは来てくださって、私のことを助けてくださったんです。あの時はすごく、すごくうれしかったです。ありがとうございました』
 手紙に綴られた言葉がどこまで正直かはわからない。
 だが、彼女がどんな思いでこの小さな、丸みを帯びた文字を認めたのか、早良にはわかるような気がしていた。
『私は早良さんに助けを求めることもできなくて、一人で迷っていただけなのに、まるで私の声を聞きつけてくださったみたいにやって来てくださったことが、すごいと思ったんです。偶然でしょうけど、たとえ偶然でも、困っている時に助けてくれる人がいるのはとても幸せなことですし、助けて欲しいと思っていた人が本当に助けてくださったのも、幸運な偶然だと思います』
 彼女にとってはきっと、全くの偶然だった。幸運な偶然だった。
 その時、あかりが早良の救いの手を求めていたとしても、早良があかりのことを考えていたとしても、単なる偶然にしかならないはずだった。お互いに心の中で呼び合っていたなどと、彼女は思いもしないだろう。
 早良にとってもそれで十分だった。彼女が早良を必要としてくれていた。差し伸べた手を掴んでくれようとしていた。そのことだけで十分、満たされた。偶然ではないと思うのは自分だけでよかった。
 初めて、手を差し出したいと思った相手だ。初めて、感情を働かせたいと思った相手だ。それが同情にせよ親切心にせよ、あるいはもう少し相手の領域に踏み込みたい欲求にせよ、十分だった。早良がこれまでの歩みですり減らし、失くしてきたと思っていた心を目覚めさせるだけの力があった。
『早良さんのようになるには、やっぱり、すごく大変だと思います。だけど私、それでも早良さんのようになりたいです。誰かが困っていて助けが必要な時に、その人に手を差し伸べてあげられるような人になりたいです』
 彼女が語る。何度も見た、泣き顔の彼女が、それでも強く訴えてくる。
『そしていつか、早良さんに恩返しをしたいです』
 覚束ない表情で、声で、言葉で語る。
『こっちの生活にはまだ慣れていませんけど、早く慣れるように頑張ります。いつか、ちゃんと道も覚えて、しっかりした大人になれたら、早良さんにもそういう私を見ていただきたいなって思います。そして早良さんに心配をお掛けしないよう、安心していただるようになりたいです』
 彼女はいつの間にか、早良の領域にも深く、踏み込んでいた。いつの間にかそこに当たり前のように存在し、息づいていた。他の誰が踏み込んでこようと、乱暴なやり口で踏み荒らそうと、彼女の存在が失われることはなかった。知らず知らずのうちに、心の中の彼女を守り続けていた。
 次は、心の外にある、本当の彼女を守る番だ。
 早良は思う。もう一度、彼女に手を差し伸べたい。早良の知らないうちに、彼女はその手を握り返していてくれた。だから、もう一度。
『たくさんのご親切、ありがとうございました。恩返しをしようにも、もう既にお返ししきれないくらいだと思っています。だからせめて、早良さんのお蔭でこっちで頑張れているんですってこと、お伝えしたかったんです。上郷を離れても、こっちにいても、私は一人きりじゃないって思っていること、早良さんにお話したかったんです。本当に、本当にありがとうございます』
 あかりの手紙はそんな風に締められていた。

 読み終えた早良は深く息をつき、しばらくの間、目を伏せていた。
 記憶の中にはたくさんの、彼女の面差しがあった。笑顔も、大人びた表情も、涙に暮れた顔も、何もかも失われずに記憶され続けていた。早良が守り切ることの出来た、彼女の思い出。それこそが今、早良を動かしている。
 手紙は丁寧に折り畳んで、封筒ごと鞄の中へとしまい込んだ。大切にしよう、と思う。


 やがてタクシーは目的地へと到着し、早良を降ろしてまた走り去る。
 廃墟のような雑居ビルは、相変わらずひっそりとした佇まいで早良を出迎えた。汚れた看板もひび割れたコンクリの壁も以前と何ら変わっていない。
 それから閑静な一帯の、水銀灯の光が連なる街並みを眺めやれば――この通りの向こうに、あかりの住む部屋があるのだと思い返す。彼女はそこにいるのだろうか。足を向ければ、会うことも叶うだろうか。電話も繋がらない彼女の顔を見ることが、話をすることが出来るだろうか。
 しかし、早良は視線を外した。雑居ビルへと目を戻した。今はまず、やるべきことがある。確かめなくてはならないことがある。全て、これ以上何も失わないようにする為の行動だった。
 早良はビルへと立ち入った。古びた建物内へと踏み込み、件のバーの、軋むドアを開ける。店に史子はまだ来ていなかった。カウンター席に着き、おとなしいバーテンダーに弱い酒を頼んでから、硬い表情で待っていた。
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