Tiny garden

ダスト・トレイル(5)

 史子は、早良の到着から約十五分後に現われた。
 バーの扉を開けた彼女の顔を見て、予告は受けていたものの、さすがにぎょっとした。顔を合わせたのはいつ以来だったか――記憶していたはずの姿とは別人のように顔色の悪い、やつれた様子だった。照明の穏やかさのせいか、表情まで翳っているのが痛ましい。落ち窪んだ両目の下にはくまが出来ていて、変貌振りを目の当たりにした早良は言葉を失った。

 カウンターへ歩み寄ってきた史子はバーテンダーに会釈をすると、早良の隣に腰かけた。スツールに座る動作さえもが覚束なく、思わず早良も手を貸した。
「大丈夫……なのか?」
 恐る恐る尋ねると、史子はええ、と頷いた。そして自嘲気味の微笑を浮かべる。
「言った通りでしょう? 酷い顔をしてるの、自分でもわかるもの」
「いや……」
 さしもの早良も返答に窮した。史子がどうして『酷い顔』をしているのか、容易に察しがつく。早良と早良の父親とのやり取りが比べ物にならないほどの扱いをされたに違いなかった。
 史子は疲れたように溜息をつく。そして注文もせずに話を始める。
「もう何もかも終わりよ。私の話なんて、まるで聞いてもらえなかった。何の反論もさせてもらえなかったの。父は私がどう考えてるのかとか、私がどう思っているのかなんてまるで知らないふりをしてるわ。きっと……」
 途中の息継ぎが、やけに苦しそうに響いた。
「きっとね、父にとっては私の思いなんてどうでもいいのよ。私が幸せになる為に、自分の思う通りにしていればいいんだって言うんだから。自分のやり方が何よりも一番正しいんだって、信じて疑わないんだから」
 それは早良の父親にも同じことが言えた。二人の父親も、子どもの幸せを願っていない訳ではないのだろう。ただ幸せの得方について自身の手法に絶対の自信があり、そして子どもたちの力を、自らほどには信じられないというだけなのだろう。敷かれたレールの上を辿るばかりだった早良と史子に、ろくに人生を切り拓く力もないと思い込んでいるのだろう。
 早良にその自信があるのかと問われれば、恐らくさほどもない。父親のように自信家にはなれそうもなかった。信じているのは力ではなく、心だった。胸裏にある想いがどこかへと早良を連れ出そうとしている。その心赴くままに進みたい、と思っている。そうあるのが、きっと人間として正しいのだと思えてやまない。
 史子は、どうなのだろう。繰り返す荒い呼吸はいつまでも苦しそうだった。
「ねえ、早良くん」
 名前を呼んでくる声は震えていた。
「私たちって一体、何なのかしら。私の父にとって、あなたのお父様にとって、私たちの存在って何なのかしら。意見を言うことさえ許されないなんて、それでも大切にされていると思う? 私の思いを聞いてもくれないなんて、それでも愛情があるって言えると思う? 私は――」
 肩も震え出していた。泣いてしまうのではないかと案じ、早良は史子の顔を覗き込む。しかし意外にも、彼女の表情を支配していたのは悲しみではなく、怒りだった。
 柳眉を逆立てた史子が、吐息と共に語を継いだ。
「ごめんなさい、早良くん」
 静かなバーの店内に、その言葉はぽつりと落ちた。
「私、もう……約束、したのにね。あなたのこと応援するって言ったのに、それすら守れなかった。もう無理よ。何も出来ないってわかってしまったんだもの」
 早良の心にも落ちてきた。落ちて、じわじわと染みるように痛んだ。
 史子は瞳を動かし、縋るような眼差しを向けてくる。
 そして、
「ごめんなさい」
 もう一度繰り返した。
 その謝罪の意味は、早良にもすぐに知れた。

 バーテンダーが気を利かせてか、レモンを浮かべた水のグラスを史子の前に置く。
 史子はそれに会釈で応え、その後で水を一口だけ、上品に飲んだ。箱入り娘の気品は、こんな時でも失われていなかった。
 似ている、と早良は思う。史子と自分とはやはりよく似ていた。何があっても自分自身を捨て切れないところも、敷かれたレールの上を外れる勇気を持てないところも、作り物めいた完璧さを持ち合わせているところもよく似ていた。昔から、史子に対しては自己嫌悪にも似た感情を抱いていた。彼女を見ているとまるで鏡を覗き込んでいるようで、直視するのも嫌だった。自分がどれほどに歪んだ人間かを、史子を通して見せつけられているようで。
 一方で、諦念も僅かにあった。自分の周りに歪んだ人間しかいないのならば、歪んだ者同士で生きていくより他ないのかもしれない、と。早良も史子も親の言うことを聞くのは得意だった。上手くやれるのかもしれないと、自棄気味の心情で思ってもいた。
 しかし、知ってしまった。心を歪めて型に填めてしまわずに、思うがままに動くことの心地よさ。自らが望むように、心の向かう方へと進み、ふるまうことは、早良にこの上ない喜びと幸いをもたらした。幸せだった。ごく一時の短い、ささやかなものではあったが、確実に幸せだった。あかりと共にいた時間は、何よりも心地よい時間となった。
 あかりは、歪んでしまう前の自分であり、史子でもあるのだと思う。彼女はまだ、心を曝け出すことを知っている。心を歪めてしまうことの息苦しさを知っている。だから泣くのだろうし、早良を頑なに拒むのだろう。故郷を恋しがり、それでもプライドを持ってこの街に留まり続けるのだろう。そして今は――。
 今は、どうしているだろうか。あかりの泣き顔を思い浮かべて、早良はそっと唇を結ぶ。

 それから、史子に対して尋ねた。
「結婚について、君は了承する気でいるのか」
 途端に史子が、苦々しい微笑を浮かべる。
「反論もさせてもらえない状況を、了承と呼ぶなら、そうよね。……ごめんなさい、あなたの気持ちだってわかってるのに」
「君だってそうだろ? 俺との結婚は気が進まないって、言ってたじゃないか」
 早良が確かめるように尚も尋ねれば、しばらく間があり、
「そんなこと言ったって、どうしようもないもの」
 力なく史子も答える。縋るような視線が僅かに揺れた。
「ねえ、早良くん。私、わがままなんて言わないから」
「……何がだ?」
 問い返した早良の腕を、不意に史子が掴んだ。やつれた身体には不似合いな強い力だった。思わず身を引きかける。史子は、早口で言葉を続ける。
「あなたに好きな人がいても構わないわ」
「何を……」
「私たちの間には愛なんて生まれないでしょうけど、それでもいいの」
「志筑さん」
 早良は咎めようとしたが、史子の視線の強さに阻まれた。彼女の表情の悲痛さに愕然とする。彼女の心は歪んでいる。恐らく、早良の心をも映し出そうとしているのだろう。
 カウンター席で視線を交わすこと、数秒。その間に史子の内心は千々に乱れていたようだ。視線はこちらへ据えられたままだったが、瞳の奥に揺らぎがうかがえた。
 やがて、史子は嘆息した。そしておもむろに、硬い口調で切り出した。
「早良くん。――私と、結婚してくれる?」
 その懇願は、正しくはきっともう少し甘い雰囲気の中、或いは厳かな緊張感の中で告げられるもののはずだった。頬を紅潮させて、幸せの気配を滲ませながら口にするべき言葉のはずだった。
 だが、この静かなバーの中にあるのは悲痛な息苦しさだけだった。史子の必死なまでの懇願が何に起因するものかは十分過ぎるほどわかっている。バーテンダーがいつの間にか席を外しているのを横目に、早良は口を開いた。
「志筑さん、君は」
 それを遮ろうとしてか、史子も続ける。堰を切ったように言葉が流れ始めた。
「形だけの夫婦でいいわ。ドラマでよくあるでしょう、仮面夫婦なんていう関係、ごくありふれたものじゃない。私はそれでいいの。あなたが他の人を愛してたってちっとも構わない。父の満足するように生きられたら、それだけでいいのよ。父の前で、波風を立てず、決められただけの人生を歩んでいけたら、それだけでいいの」
 早良の腕を掴んでいる、彼女の手に力が込められる。痛みを感じるほどの力だった。
「私はただ、自分の無力さを思い知らされるのが嫌なの。これ以上、自分の価値のなさを、意味のなさを痛感させられるのが嫌なのよ。何の為に生きてるんだろうって、その度に考えさせられるのが辛いの。堪らないのよ」
 その言葉の奔流は、逆に早良の思考を覚醒させた。
 志筑史子は鏡だ。自分を映し出す、誰よりもよく似た存在だ。今の史子の訴えは、さしづめ先だって父親へと心中を吐き出した、自分自身の姿なのだろう。歪んだ心で、それでもまだ感情を外へ逃がそうとしている。追い詰められて、自分の行く先を探り当てようとしている。
 ただ、史子と早良との間に、決定的な違いがあるとすれば――史子は心中を、最も告げたい相手に聞いてもらえずに諦念を抱いたということ。そして早良は、告げた心をすげなく打ち捨てられても尚、その心を守りたがっていると言うこと。
 それに何よりも、安堵していた。自分も、史子も、まだ心を曝け出すだけの純粋さは持ち合わせているようだ。歪んでいようと、疲れ切っていようと、心の赴く方へと歩いていくことは出来るかもしれない。まだ、型に押し込まれる前に飛び出していくことは、出来るかもしれない。少なくとも手遅れではない。きっと、お互いにそうだ。

 深い眠りから目を覚ましたように、早良は小さくかぶりを振った。
 答えを待ち構えていた、史子に対して答えた。
「俺は嫌だ。俺はもう、そういう生き方はしたくない」
 きっぱりと告げた。
「誰かの望む生き方じゃなくて、俺自身が望む生き方をしたい。決めたんだ。どうしても、欲しいものがあるから」
 全て曝け出すつもりでいた。自らの想いにも、史子にも、そして――あかりに対しても向き合うつもりでいた。
「お仕着せの人生なんて楽しくない。父親の言うとおりに生きたところで、俺も君も駄目になってしまうのは目に見えてる」
 早良の答えを、史子は瞠目して聞いている。
「そのくらいなら、好きなように生きたい。俺は、どうしても欲しいものがあるんだ。手に入れたいと思うものがある。傍にいて欲しいと思う、大切な人がいる」
 やけに張りのある、力強い声が、店内に響いた。
「君の言う通り、俺は、好きな人がいる。だから、君とは結婚出来ない。誰が何と言おうと、その人への想いを守りたい。それだけだ」
 至極当たり前のことを言ったと、早良は思う。
 好きな人と、あかりのことを指して言うのは、いささか面映かった。
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