Tiny garden

新月の頃(6)

 翌日、早良はあかりと雄輝に手紙を書いた。
 仕事以外の用件で手紙を書くのは久方ぶりのことだった。もっとも、これも仕事のうちなのかもしれないと、早良は言い訳のように思う。あかりも雄輝も、上郷での仕事がなければ出会えなかった相手だ。仕事上の付き合いと言ってしまってもいいのかもしれない、と胸の奥で呟いてみる。
 二人の為に新しく、動物柄のレターセットを揃えた。やけに可愛らしい便箋に認めた文章は、あかり宛てのものも雄輝宛てのものもほぼ同一の内容だった。先の手紙についての礼と、返事が遅れてしまったことへの詫び。また上郷へ行くと告げた上で、相手の身体を気遣う言葉と、再会を望む言葉を添える。全く色気のない文面だったが、子ども宛ての手紙など書いたこともない早良にとって、これ以上の創意工夫は不可能だった。
 あかりへの手紙では、先日の件については触れなかった。彼女を部屋まで送り届けたことも、彼女の胸のうちを聞いたことも、何一つ触れない内容に仕上げた。しかし早良は彼女の手紙にだけ、自分の名刺を同封した。――直通の携帯電話番号を記した名刺を。
 連絡が欲しいと思っている訳ではなく、彼女ともう一度会いたいと思っている訳でもなかった。ただ、無責任な優しさで彼女の背を押したことを悔やんでいた。あの時、車内で胸中を打ち明けられた時、早良にはもう少し言葉を選ぶことも出来たはずだった。突き放すのではなく、促すのでもなく、もっと違う形であかりを気遣うことも出来たはずだ。彼女の表情から光が失われた時、自分は確かに落胆していた。ならばそれが失われぬよう、せめて寄る辺の一つとなることが出来たらと思った。それこそがあの夜の会話に対する、償いにもなるだろうと。
 奇妙な責任感と罪悪感に衝き動かされていた。早良は封筒に名刺を入れると、便箋の隅にもう一言添えた。
 ――もし何かあったらご連絡ください。力になります。
 実際どれだけの力になれるかもわからないのに、妙なことを書いたものだと読み返してみて後から思った。しかし彼女たちの為に購入した便箋の替えはもうなく、新しいものを買いに行く気も起こらなかったので、結局そのまま封をしてしまった。

 内田の目を盗んで、早良は手紙を二人に送った。ポストに入れる直前にも尚、余計な一文を添えただろうか、余計な気遣いだっただろうか、むしろ自分らしくないふるまいだっただろうかと散々思い悩んだが、思い切って投函した。
 連絡が必ず来ると決まった訳ではない。あかりならきっと、無闇に早良へ頼ったり、縋ったりすることもないだろう。これは気休めだ。あかりにとっても、もしもの時の寄る辺として気休めになるだけでいいのだろうし、自分にとっても気休めの慈善事業でしかない。――そう言い聞かせた。

 しかしそれからしばらくの間、早良は携帯電話に着信がないか、気になって仕方がなかった。仕事の合間に画面を覗く回数が増えた。覗いて、見知らぬ電話番号が着信履歴にあれば、やはり内田の目を盗んで掛け直した。だがそれらは全てあかりからの電話ではなく、早良をいささか苛立たせた。

 そして、手紙を投函してから一週間ほど経った或る日のこと。
 あかりからの連絡はなかったが、代わりに史子から電話が掛かってきた。
『――早良くん、今、いい?』
 あの同窓会の日以来、久々に耳にする史子の声。早良は疎ましがりながらも、表向きは殊勝に応じた。
「ああ、構わない。こちらからも連絡しようと思っていたんだが、仕事が忙しくて出来なかったんだ」
『そう……じゃあ、これからもしばらくは忙しいの?』
「前に話したとおりだ。君にはせっかく皆と会う時間を作って貰ったのに、済まないと思っている」
 上辺だけの早良の謝罪に、史子はなぜか声を落とした。
『ううん、そのことはいいの。皆もわかってくれてるから。ただ……』
「ただ、何か?」
 珍しく、史子の声が硬い。早良は訝しがったが、電話の向こうではその後しばらく、様子を窺うような沈黙が続いた。史子はまるで、息を殺しているようだった。
「どうかしたのか、志筑さん」
 早良が尋ねると、やがて微かな溜息と共に言葉が聞こえてきた。
『あのね、早良くん』
「ああ」
『話、したいの。どうしても話したいことがあって』
 緊張を孕んだ声に、既に躊躇いはない。むしろ酷く急いた様子で彼女は言った。
「……俺と?」
 思わず聞き返せば、すぐに答えが返ってくる。
『ええ、あなたに。どうしても話したい、話さなくちゃいけないことがあって……無理を言うようだけど、どうにかして時間作って貰えない?』
「電話じゃ駄目なのか?」
 史子と二人で会うのも、気の乗らないことだった。史子は他人に気を遣い過ぎるきらいがあり、そのくせスマートなやり方の出来ない不器用な性質だった。装うことも偽ることもさりげなくこなす早良とは、何もかもが合わない。父親同士が知己でなければ親しくなることもなかっただろう、と思う。
 しかし早良の提案を、史子はすぐに拒んだ。
『電話じゃ駄目なの。会って話したいのよ。時間もあまりないから、出来るだけ早くに』
 珍しく性急で、強引な口ぶりだった。史子がこんな風に早良を誘ってきたのも初めてではないだろうか。それも他の人間に頼まれたから、ということではないようだ。彼女の話したいこととは何なのだろう。
「随分深刻そうだな。一体、どんな用件で?」
 早良は何気ない調子で尋ねた。そして返ってきたのは、十分過ぎるほどに潜められた声。
『うちの父と……私たちに関することなの』

 すぐさま早良は察した。史子の父親と、史子と、自分自身に関する話と言えば――思い浮かぶのは一つきりだった。
 早良の父親を筆頭に、早良の結婚相手に史子をと望む人間は多い。片や将来を嘱望された大企業の社長令息、片や建設業界に顔の利く国会議員の一人娘。結び付けることが叶えば、大勢の人間が得をするのだ。利権に群がる連中が気を回そうとするそぶりを、早良は疎ましく思っていた。
 だが現実に、互いの父親同士がそれを明言すれば、間違いなくその通りになるだろうとも思っていた。いつかは覚悟を決めなければならないことだ、とも。早良が史子をどう思っていようと、早良の意思はその取り決めに何の影響も及ぼさない。仮に史子を拒んだとして、代わりの女がろくでもないものであればいよいよ追い詰められることとなる。どうあっても選択権はないのと同じだ。
 史子の方とて、選択権がある訳ではない。史子が早良に対し、友情以上の感情を抱いているとは思えなかったが、ただ史子はひたすら父親に対して従順だった。これまでもずっと、父親の敷いたレールの上を外れるような娘ではなかった。そういう点で、早良と史子はよく似ていた。

「君のお父さんが、何か言っていたのか」
 平静を装ってはみたが、声の端が僅か、怒りによって震えた。ぶつけようのない憤りと絶望感とがたちまち胸に満ちていく。
『電話では、ちょっと……だから会って話したいの』
 史子の態度は頑なで、どこか怯えているようでもあった。自宅にいるのであれば、迂闊なことは言えないのかもしれない。史子の周囲にも、早良にとっての内田のような存在はいるのだろう。
『それも、出来るだけ早く。父が動くよりも先に、早良くんに話しておきたいから』
 急き込んだ彼女の言葉に、早良も嘆息するより他ない。
「わかった。可能な限り早急に時間を作るよ。こちらから追って連絡する」
『ありがとう、早良くん』
 電話越しに史子が、ようやく安堵したような声を上げた。
 早良は手帳でスケジュールを確かめながら、どうにもならない焦燥感に歯噛みしていた。

 新月の頃はとうに過ぎていた。
 しかしそれからも、早良の元にあかりから連絡が来ることはなかった。
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