Tiny garden

血と肉と

 初音が嫁入りしてから、半年が過ぎていた。
 久成が村の人々に初音の存在を明かしたのは少し前のことだ。無論、経緯の全てを打ち明けることはできない為、表向きは遠縁の親戚から嫁を貰ったのだとしておいた。村の人々も突然の嫁取りには驚いていたようだが、挨拶に回った久成と初音を見れば誰もがすんなりと受け入れてくれた。既に幾月かを一つ屋根の下で過ごした二人は仲睦まじく、誰が見ても似合いの夫婦となっていたからだろう。

 初音は人としての暮らしにもすっかり慣れ、今では毎日同じ顔で化けられるようになっていた。
 愛嬌のある顔立ちは娘と呼んでも差し支えないほどだったが、屈託のない初音の人柄にはよく合っている。春から夏にかけてを家の中にこもって過ごしていた為、外へ出るようになった今でも透けるように色が白かった。以前は髪も着物も化けさえすれば自然と整えられていたが、近頃は髪を結うのも着物を着るのも佐和子の手を借りているようだ。
「いつか自分で着られるようになりとうございます」
 真面目な顔で語る初音は、佐和子から譲られた鳩羽色の着物を身に着けていた。庭に面した濡れ縁に腰かけ、生け垣の上を飛び交うとんぼを目で追っている。秋の終わり、以前よりも早い夕暮れが麓の村にも差し迫っていた。
 隣に座る久成は、景色を眺める妻をじっと見つめていた。髪を結い上げた初音の後れ毛が、風に吹かれて震えている。細い首筋には夕暮れ時らしい深い影が落ち、血が通っていないように思えるほど白い。着物の裾から覗く小さな素足は、履き慣れない様子で草履を引っかけている。
「それから髪も……自分で結えるようにならなくてはなりません」
 初音はそう言うと、久成を見て恥ずかしそうに微笑んだ。
「人として生きていく上で学ぶべきことは、まだまだたくさんございます。私はもっと久成様の妻としてふさわしくありたいのです」
「俺の生徒にも、お前ほど勉学に熱心な者はいないな」
 久成が訓導らしく妻を誉めると、初音はくすくすと鈴のような笑い声を立てる。
「村の子供達に聞いたのですが、久成様は学校では大層怖い先生なのでしょう?」
「叱られてばかりの奴ほどそう言う。俺は当然のことを叱っているまでだ」
「一度、学校でお仕事をする久成様を拝見しとうございます」
「見ても面白いものではない」
 苦笑してかぶりを振った。
 妻を娶ったことを明かしてからというもの、教え子達からは夫婦仲のよさを囃し立てられてばかりいた。初音が学校に姿を見せようものならどんな騒ぎになるか、容易に察しがつく。
「私も初めから人として生まれていたら、久成様の教え子になれましたのに」
 初音は悔しそうに唇を尖らせたが、その直後に顔を顰めた。そして幼子のような小さなくしゃみをした。
「風に当たりすぎたのではないか」
 久成は着ていた茶羽織を脱ぐと、不器用な手つきで初音の肩に被せた。
 驚いて面を上げた初音は、久成の顔を見て、赤い唇をほころばせた。
「ありがとうございます」
「ああ。そろそろ、中へ入った方が――」
 そこでわあっと声が上がり、久成は口にしかけた言葉を止める。
 振り向けばいつの間にやら湧いていたのか、生け垣の上から子供らの顔が覗いている。揃いも揃って目をきらきら光らせており、視線が合うや否や口々に囃し立ててきた。
「先生、嫁さんと仲ええなあ!」
「あんなに優しい先生、学校じゃ見たことないわあ!」
 それを聞いた久成は濡れ縁から立ち上がり、生け垣の向こうへ声を張り上げた。
「こら、お前ら!」
 たちまち子供らは脱兎のごとく駆け出して、久成は照れ隠しからそれを追い駆けた。教え子達に覗き見の品のなさを説いてやろうとも思っていた。
 だが久成が庭を抜けるより早く、
「お、お待ちください久成様――あっ」
 初音が呼び止めてきたかと思いきや、悲鳴が聞こえてとっさに振り返る。
 よろけたのか、初音は大きな音を立てて地面に倒れ込んだ。久成は急いで駆け寄り、助け起こす。
「大丈夫か?」
「だ、大丈夫で……い、痛いっ……」
 答えの途中で初音が低く呻いた。
 うずくまる初音の着物の裾から膝小僧が覗いていた。そこにはこぶし大ほどの痛々しい擦り傷ができている。血がうっすら滲んだ赤い傷口は土にまみれている。転んだ拍子に草履が脱げたのだろう、庭の向こうまで吹っ飛んでいるのも見えた。
「まだ草履で歩くのに慣れていないんだろう、立てるか」
 久成が手を掴むと、初音は頷き、こわごわと立ち上がってみせた。一度顔を顰めたが、立てないほどではないようだった。
「傷口を洗った方がいい」
 初音の手を引いて井戸へと向かう。この借家には釣瓶井戸があり、久成はそこで水を汲み上げると初音の膝を洗った。着物の裾を開かせ、ふくらはぎを手で支えながら桶で水をかけた。
 秋の夕暮れ時ともなれば井戸水も冷たくなり、着物をたくし上げた初音はきつく目をつむって耐えていた。二度水を汲んで傷口に入り込んだ土を全て落とす頃には、初音の足は一層血の気が引き、紙のように白かった。柔らかいふくらはぎも酷く冷たくなっていた。
「お手数をおかけしました」
 寒気にか唇を震わせながら初音は言った。
 久成も細心の注意は払ったが、着物の裾を少し濡らしてしまっていた。そもそも転んだ拍子に土で汚れていた。肩にかけた茶羽織も土埃で真っ白だ。
「気にするな、それより着替えるといい。――佐和子!」
 家の中に向かって、久成は妹を呼んだ。この時分、妹は家の奥で趣味の裁縫に興じているはずだった。
 程なくして現れた佐和子は、一目して状況を把握したようだ。さっと顔色を変えた。
「まあ初音さん、お怪我を!?」
「大したものではございません」
 初音は慌てふためいていたが、佐和子はきっぱりとかぶりを振る。
「いいえ、そのままにしておいてはいけません。何か持って参りますので、どうぞ先にお着替えを済ませてしまって」
 久成としては佐和子に着替えの方を手伝って欲しかったのだが、佐和子はすぐに家の中へと取って返した。恐らく巻木綿でも持ってくるつもりなのだろう。
 やむを得ず、久成は初音に声をかけた。
「一人で着替えられるか、初音」
「なるべく、やってみることにいたします」
 初音は大仕事に取りかかるかのように、重々しく顎を引いた。

 着替えの為に初音が奥座敷に入ると、久成は静かに明かり障子を閉めた。
 初めはその前で待っていようと思ったのだが、障子に初音が着物を脱ごうとする影が映り、それを見ずに済むようにと障子に背を向け座り込む。初音の着替えはあまり順調ではないらしく、もがく衣擦れの音が背後から聞こえてきた。佐和子の話では、初音はまだ帯を一人で結べないということだったが――。
 久成の後ろで、障子がわずかに開く音がした。
「あの、久成様」
「どうした」
 振り向かずに答えると、初音は困り果てた声で続ける。
「帯を解いていただけませんか」
 とんでもないことを頼むものだと久成は思う。子供らの前でなくてよかった、とも思った。
「自分ではできそうにないか」
「はい、ちっとも」
「……仕方ないな」
 久成は嘆息すると、やむを得ないという顔を作って振り向いた。
 障子の隙間から顔を出した初音は既に茶羽織を脱ぎ、解けぬという帯の上に着物をたわませていた。合わせ目がだらしなく緩んではだけているのを、久成はあえて見ないようにしながら初音を奥座敷へ再び押し込む。
「いいか、俺が手伝ったと佐和子には言うな」
「なぜでございましょう」
「言えばあいつがうるさいからだ」
 初音は釈然としないようだったが、すぐに『承知いたしました』と応じた。
 久成はそんな初音に後ろを向かせ、茶羽織を着せた時のように不器用な手つきで帯を解いてやる。普段着であればさほどきつく結ばないはずだが、佐和子は町育ちだからか、あるいは活発な初音が着崩さないようにか、かなりしっかりと結ばれていた。多少苦労しながら帯を解くと、それはしゅるりと床に落ち、鳩羽色の着物が緩んだ。初音はためらいもなくそれを脱ぎ捨てると、足元に用意していた別の着物を手に取り、広げた。
 突然現れた女の白い背中に久成は絶句した。
「な、なぜ脱ぐ!」
 初音の背中は傷一つなくなめらかで、一面に降り積もった雪を思わせた。背中から腰にかけては緩やかな曲線だけでできており、豊かであるとは言えなかったが、無防備ななまめかしさがあった。
 しかし釘づけになる久成をよそに、振り返る初音は実に屈託がなかった。色気など微塵も感じさせない口調で言った。
「お言葉ですが、脱がなければお着替えもできません」
「ではせめて一声かけろ、こちらも心構えというものがある」
「承知いたしました」
 初音は頷いたが、それほど真剣に取り合っていなかったと見える。着物を手にしたまま、やはり無邪気に尋ねてきた。
「久成様、右と左とどちらが前でしたか?」
「え? ……ああ、右前だ」
 左前は死装束だと言いかけて、やめた。
 初音は新しい着物を羽織っている。曝け出されていた背中はようやく覆い隠されたが、首筋の白さは背中と同じで、自然とそれを思い起こさせた。人間と何ら変わりのないきめ細やかな肌。人間の女そのもののなめらかで白い背中、丸みを帯びた腰が瞼に焼きつき、久成をうろたえさせた。そして同時に不思議な気分にもさせていた。
 初音が着物を脱いだところを見るのはこれが初めてだった。佐和子が着物を用意するようになるまで、こうして着物を人と同じように着るようになるまでは、初音は着物ごと『化けて』いたはずだった。それが脱いでしまえるものなのかどうかを久成は知らず、また確かめてみたこともなかった。
 気がつけば、初音は日毎に人らしくなりつつある。この家を訪ねてきた時から人の姿はしていたが、それでも人とは違うところがいくつかあった。だが今の初音は、まるで人と同じだ。
「お前は、すっかり人になったな」
 久成は着物を羽織った初音の背中に告げた。
 すると初音の手が止まり、首だけを動かしてこちらを見やる。表情は明るく微笑んでいた。
「嬉しゅうございます。私、久成様の妻にふさわしい人になれましたでしょうか」
「ああ。今のお前は誰がどう見ても人の女で、そして俺の妻だ」
 久成がそう言ったからだろう。初音は上機嫌で、今度は身体ごと振り向いた。ちょうど羽織った着物を合わせているところで、合わせ目を手で押さえていた。
 だが、左前になっていた。
「右前と言っただろう。人になったのなら間違うな」
 久成は初音を咎めると、着物の衿に手をかけて右前に直し、少しきつめに合わせてやった。
 初音はしゅんと項垂れる。
「間違えたら、人にはなれませんでしょうか」
「そうは言わん。だが左前は、生者がするものではない」
 次の言葉は意味がよくわからなかったようだ。小首を傾げている。
「生者……私は生者でございましょうか?」
「当たり前だ。お前は生きている」
 初音の身体は人と同じように血と肉とでできている。その身体には温かな血が通っており、決して作り物ではないことを久成は目の当たりにしたばかりだった。
 山で出会った頃は小さな狐だった。その狐が、人の女に化けて現れた。久成はそれを当たり前のように受け入れていたが、考えてみれば奇妙で不思議な出来事だ。
「少し、草履で歩く練習もした方がいいな」
 久成が笑ったからか、初音は恥じ入るように柳眉を下げた。
「はい……。あの時はつい慌ててしまいまして」
「なぜ慌てた? 俺が子供らを追い駆けて、取って食うとでも思ったか」
「いいえ、でも……」
 ゆっくりとかぶりを振った初音は、ぬばたまのような黒い瞳で久成を見上げる。ひたむきな眼差しだった。
「私といる時の方が、久成様は一層お優しいのだと伺いましたから」
「俺が優しくあれるよう、後を追ったということか?」
「はい。私がお傍にいれば、久成様は優しい先生と呼ばれるのではないかと思って」
 教え子らの言葉を真に受けるのも初音らしい。久成は溜息をついた。
「今更、優しい先生などと呼ばれたくはない」
「でも」
「俺は、お前にとって優しい夫であれればいい」
 そう言うと久成は、まだ帯も結ばず着物を羽織ったままの初音をきつく抱き締めた。さっき傷口を洗い流した時は酷く冷たい肌をしていたが、今はほんのりと温かかった。それは初音の生を感じさせて、久成を無性に安堵させた。
「久成様……?」
 初音が、怪訝そうに名前を呼んでくる。
 久成はたわむ着物越しにその背中を撫でながら告げた。
「俺の為に、人になってくれたことに感謝している」
 途端に初音が身を硬くした。息を呑むのが聞こえた気がした。
「お前が嫁に来るまで、俺は何が優しさであるのかすら掴みかねていた」
 兄妹二人暮らしの間、佐和子との仲はぎくしゃくする一方だった。久成は佐和子に対し優しく気遣うことを心がけていたが、佐和子はそれをかえって重荷としていたようだ。
 だが初音が嫁に来て以来、久成は優しくあることの本質を初めて掴みかけていた。
 要は、必要な分だけを与えればいいだけだった。既にいい年齢である佐和子に甲斐甲斐しく世話を焼く必要はない。やんちゃ坊主だらけの教え子らをわざわざ甘やかすこともない。まだ人の暮らしに慣れぬ妻に対しては、もっと気遣うべきことも、優しくしてやる必要もある。
「お前から学んだこともあるようだ。全く、いい嫁を貰った」
 耳元でそう囁けば、初音はくすぐったそうに身を捩る。そして久成の腕の中で面を上げたかと思うと、やはり屈託なく笑ってみせた。
「本当にそう思ってくださっているのですか?」
「無論だ」
「わあ……。私も、人に化けてまでお嫁に参った甲斐がございました」
 初音はぱっと顔を輝かせ、ほんのりと頬を赤くした。
「人として生きることには不安もございました。でも後悔は一切ございません」
「そう言ってくれて俺も嬉しい。これまでの暮らしを捨てるのは迷いもあったことだろう」
「いいえ、それが不思議なことに、迷ったことは一度もございません」
 久成の目の前で、初音が思い出を手繰り寄せるように目を伏せる。
「山で久成様にお会いしたあの時から、一度として迷いはしませんでした」
「なぜだ」
「なぜでございましょうね、私は……」
 初音はそこで言葉を止めた。白い頬に紅が差し、黒々とした睫毛を伏せたその顔は大変美しく、普段の無垢さが影を潜めたような色気があった。
 妻が言葉を止めた理由を、久成も察していた。恐らく初音は、その心情を語る為の言葉をまだ知らないのだろう。人として血肉を得たからこそ語ることのできるその情動を、久成は夫として教えてやりたいと思う。
「初音」
 久成が初音の頬に手を添えると、初音は目を瞬かせた。そっと顔を近づけると、何かに気づいたように目を泳がせる。
「ひ、久成様、私まだ着替えが……」
「後でいい」
「でも……」
 初音は戸惑っていたが、久成に引き下がる気がないとわかるとおずおず目をつむってみせた。
 唇が触れる。
 熱くはないが決して冷たくもない唇にも、やはり血が通っている。血と肉とで作られた初音の身体を、久成は隅々まで実感したくて強く抱き締めた。
「――初音さん、お着替えはできましたか? 巻木綿を持って参りましたよ」
 それも障子の向こうで、佐和子の声がするまでのことだったが。
 我に返った久成は慌てて初音を解放したが、まずいことに初音はまだ帯を結んでいなかった。手で押さえていただけの合わせ目は当然緩み、初音は胸をはだけさせた格好でぼんやりしていた。慌てて襟を引き寄せそれを隠してやると、背後で障子が開く音がした。
「入りますよ、初音さ――兄上? なぜここに?」
 佐和子は奥座敷を一瞥するなり兄に疑り深い目を向けてきた。
「き、着替えを手伝っていた。初音が自分で帯も解けぬというから」
 久成はあたふたと説明し、その後で初音にも説明を求めた。
「なあ、初音。その通りだとお前からも言ってやってくれ」
 だが初音は真っ赤になったままぼんやりと、先程の余韻に浸るように宙を見つめていて――。
 やがて佐和子は大仰に嘆息した。
「兄上と初音さんはご夫婦ですから、何がいけないということもございませんけど」
「何を誤解している。俺は初音の着替えを手伝ったまでで!」
「初音さんをご覧になった上でも、それが嘘偽りではないと仰いますか?」
 佐和子は強気な物言いの後、冷やかすように微笑んだ。
 着替えを手伝おうとしたのは事実だが、余計なことまでしでかした後では返す言葉もない。

 久成はその後もしばらくの間、佐和子に散々からかわれ続けたのだった。
 かつての陰気なしおらしさを望むわけではないが、妹が逞しくなったのも、やはり初音のお蔭なのだろう。
▲top