Tiny garden

おかえりなさい

 ――そのラブレターは、ほっそりした白い手によって丁寧に折り畳まれた。
 箪笥の引き出しの一番上に、他の手紙と一緒にしまわれた。数えて六通目のラブレターだった。その上に畳んだ着物を被せ、更に引き出しごと収められる。引き出しを開けて手紙を読むことが出来るのは、この箪笥の持ち主だけ。そして六通の手紙全ての受取人だけだ。
 桐の箪笥は嫁入り道具だった。娘を愛する父親が腕利きの職人を頼って作らせたもので、この先何十年の使用にも耐えられるしっかりした造りだ。持ち主が実家にいた頃とは違い、溢れるほど着物がしまわれているということはなかったけれど、持ち主の宝物をしまっておくのにはかえって都合がよかった。宝物はこの先も増えていくのだろうから、箪笥には空きがある方がいい。
 一度だけ、中の着物を全部出されてしまった箪笥は、あれきりがらんどうになることもなかった。

 箪笥の前で膝をついていた白い手の持ち主は、やがて微笑みながら立ち上がる。
 普段からきれいにされている寝室は、今日に限っては更に念入りに掃除がされていた。塵一つ落ちていない畳の部屋を出ると、すぐ隣の書斎が目に入る。書斎は寝室とは趣の違う洋風の造りだった。ドアも窓も開け放てば涼しげな風が吹き込んできて、古い本の匂いよりも強く、生垣の緑の匂いがしていた。ちょうど日没の頃で、窓ガラスを透かした光はいつよりも斜めに射し込んでくる。濃い橙の色だった。陽射しも、書斎にある本棚も、机も、床も、何もかもが等しい色に染め上げられていた。
 この部屋の主はここにはいない。そうとわかっているから、戸口で立ち尽くす女は睫毛を伏せる。白い手を胸の前で握り合わせ、誰もいない家の中でも、誰にも見えぬように優しく笑う。恋をしている少女の顔で笑う。ひとりきり、胸をときめかせているようにも見える。
 今は何もないがらんどうの机上。つい半日前まではそこに手紙が上がっていた。丁寧に封をされ、しかし切手の一枚も貼っていない手紙が用意されていた。妻に宛てて、とだけ宛名の記された封筒は、細く白い手によって開かれた。そうして中の手紙もすっかり読まれてしまっていた。今はその手紙もこの書斎にはない。
 窓の外には豆腐屋のラッパの音が響いていた。どこかよその家の夕飯の匂いも漂ってきて、女ははたと我に返ったようだ。書斎の前を離れて、台所へと歩き出した。

 台所には、夕飯の材料が顔を並べていた。
 炊事仕事をこなしているように見えない細い手は、一年前よりはずっと手際よく支度を進める。鍋でことことと煮込まれているのは金時豆だ。砂糖をたっぷり入れて、甘い煮豆がもうじき出来上がる。流し台では輪切りにされた甘藷が水に晒されていて、こちらも直に煮物にされるようだ。冷蔵庫には鶏卵がひっそり出番を待っている。夕飯の献立はとうに決まっていた。ごくありふれた、特別ではないように見える献立が、今夜の為のご馳走だった。
 女の手が不意に止まり、眉がすっと顰められる。何か思い出したような顔をして、台所を一度離れた。遠くで水音が響き始める。風呂場の方からだった。
 台所の鍋はことことと、穏やかな音を立て続けている。女が台所へ戻ってきた時も、ふと面を上げて、流しの上にある小さな窓から外へと視線を投げている間も、ずっとことこと言っていた。外は静かな日暮れ時、そろそろ街灯も瞬き始める。青々とした生垣の向こうを、女はしばらく見つめていた。その向こうの道には、今のところ人の姿は見当たらない。

 やや年季の入った平屋建て。生垣にぐるりと囲まれたその家は、いつでも緑と花の香りがしていた。居間に置かれた花瓶には、女の母親が顔を見にがてら届けてくれる、四季折々の花が生けられている。今はトルコキキョウが紫の花を咲かせていた。
 狭い玄関と生垣を抜けた先、家の前の道は、毎日ほうきできれいに掃かれている。サザンカの生垣にも手入れが行き届いていて、もう少し季節が進めば、前を通りかかる人の目を楽しませる花が咲く。今はその時を待ち、ひたすら青々としている。
 この時季は用でもない限り足を止める人のいない道。家々の間を縫うように通る道は、からからに乾いて土埃も酷かった。舗装のされていない砂利道は家の前からも網目のように分かれ、繋がりながら伸びていく。夕陽の映える民家の前をいくつもいくつも通り過ぎ、更に先へと辿ればやがて、古い佇まいの商店街に行き当たる。
 住宅街よりも人気の多い一帯は、夕飯の買い物に出る人々で今だ賑わっていた。威勢のいい掛け声を上げる店主、買い物かごを提げた主婦、自転車を乗り回す子どもたち、帰宅の途につく会社員――閑静な空気が、アーケードを潜っただけで切り替わる。
 一人きりの家とは対照的な風景。人の見当たらなかった道が、賑々しく人の溢れる道へと繋がっている。

 アーケードの下に連なる商店のうちの一軒で、背広姿の男が買い物をしていた。
 にこにこと愛想のいいその男は、仕事帰りの体で花屋に立ち寄っていた。郵便局の並びにある花屋だ。店内ではお調子者の店主が、鼻歌交じりに花束を拵えている。やや開き始めた赤い薔薇の花束は、今日が客の記念すべき日だと告げられると、更に数本の薔薇と、サテンのリボンがおまけされた。
 相当な重さになった花束を受け取り、出来上がりの割に驚くほど安い代金を告げられると、さしもの男も困惑したようだ。眉尻を下げ、戸惑いの色を浮かべている。それでも店主は頑として突っ撥ね、口にした以上の代金は受け取らなかった。最後には男の方が譲り、花束と一緒に何度も何度も頭を下げた後、早足で商店街を抜けていく。
 右手に薔薇の花束を抱え、左手には鞄と、商店街でも老舗の煎餅屋の袋を下げた男は、賑々しいアーケード街を通り、網目のように繋がる路地を通って、家へと急ぐ。
 よその家々の間を縫う道は土埃が酷く、日が落ちた後でもからからに乾いている。街灯が瞬きを繰り返した後で点り、あたりはすっかり夜の風景へと変わる。砂利を踏む革靴の音だけが響く、この辺りは閑静だった。すれ違う人もいない。この時間は皆、既に食卓についているのだろう。家路を辿る足が更に逸る。
 やがて、人気のない道の向こうに見慣れた家が見えてくる。
 明かりの点いた平屋建ての家は、周りを青々とした生垣で囲んでいる。道の前はいつでもきれいにされていて、今日は特に念入りにほうきで掃かれているようだった。
 家の中からは夕餉の匂いが漂っていた。煮豆と、卵焼きと、甘藷の煮物の匂いだった。台所の、流し台の上にある窓には、忙しなく立ち働く人影が映り込んでいる。ほっそりした小さな影を認めて、男は一つ、息をつく。重い薔薇の花束を抱え直すと、生垣を潜り、玄関の前に立つ。玄関の戸を開けながら、台所にいるはずの妻に向かって声を掛ける。

 ――ただいま。
 ――おかえりなさい。

 ここ一年、平日はほとんど欠かさずに繰り返されてきた挨拶だった。
 この家で二人が挨拶をするようになってから、今日でちょうど一年になる。
 人が聞けば、たったの一年かと言ってしまうような年月かもしれない。一年くらいではまだまだ、大変なのはこれからだと、訳知り顔で言う人もいるかもしれない。
 それでもごく短いような年月でも、夫婦二人で確かに重ねてきた日々だ。そこには誤魔化しも偽りもなく、ただ真実と事実だけが存在している。何より、これからも重ねていくにあたって、この一年間の日々は教訓としても思い出としても幸せとしてもなくてはならないものとなる。この一年があってこそ、今も、これからの未来もあるのだから。
 日々は重ねられ、挨拶は繰り返されてゆく。
 ごくありふれた夫婦の一年間は幕を閉じる。
 明日からはまた違う幕が開く。日々を重ねてゆくのも、挨拶を繰り返すのも、夫婦でいるのも、まだまだこれから。二人の時間は続いてゆく。今はまだがらんどうの、けれどやがて満ち満ちていく未来まで続く。
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