Tiny garden

So beautiful

 太陽の下で輝く、真っ白でさらさらした美しい砂浜。
 その向こうに広がるのは宝石みたいに透き通った青い海――。
 今、俺達はモルディブにいる。

「暑い……」
 年中Tシャツ一枚で過ごせるという常夏の島で、俺はタキシードを着込んでいた。
 当然ながら暑い。日は既に傾き始めてもうじき夕暮れを迎える頃合いだが、砂浜にも潮風にもまだ昼間の熱がたっぷり残っている。そんな中で正装してビーチへ出てきた俺は早くもうっすら汗ばんでいた。前髪を上げたから額の汗が拭いやすいのが唯一の救いだが、着替えの後にはたかれた白粉が落ちないよう、ハンカチで押さえる程度にしなくてはならない。
 なんでわざわざモルディブまで来たのか、その理由は俺の中でも曖昧だった。
 聖美が海外に行きたがったからというのが最もたる理由で、その次に来るのが『手頃な海外挙式プランがあったから』だった。どうせ誰も呼ばない二人きりの式にする予定だったから、いっそめいっぱい張り込んで思い出に残してやろうと考えていた。
 それで縁もゆかりもなかった国に飛んでくる俺達も俺達だが、半日かけていざ来てみると思っていた以上にいいところだった。天候にも恵まれたし景色はいいし、海なんて日本とまるで違う色をしている。一周するのに数分もかからない小さな島は静かで居心地がよかった。初めての海外をモルディブにすると他のビーチリゾートには行けなくなる、なんて話も耳にしたが、今ならそれも大いに納得できた。この先どんな海へ行ってもここと比べてしまいそうだ。
 そして白い砂浜の上、同じように真っ白な衣装を身にまとった聖美がいる。
「いいお天気でよかった。日頃の行いがいいからだね」
 高く結い上げた髪に白いバラを飾って、聖美はこちらを振り返った。オフショルダーのドレスは肩口から袖にかけてが優美なレースになっていて、肌が透けて見えるのにどきっとした。スカート部分にもレースを重ねていて、潮風が吹く度にふわふわと揺れた。
 一度見てみたいと思っていた、ウェディングドレスを着た聖美はきれいだった。
 夢のような景色の中にいる、夢のように美しい花嫁。
「……ね、ドレス似合う?」
 俺が目を奪われたのに気づいた上で、聖美がわざわざ尋ねてくる。
「ああ」
 すかさず頷くと、手袋をはめた手を俺の腕に絡めてきた。
「ちゃんと似合うって言って」
「似合うよ。すごくきれいだ、聖美」
 言葉にするのは照れ臭かった。でもせっかくの晴れの日に何も言えないのも無様だろうし、花嫁に浮かない顔をさせていては結婚式どころじゃない。
 聖美だって、俺がちゃんと言葉にした方が嬉しそうだ。
「ありがと。ヤスもタキシード決まってるよ」
「初めて着たけど暑いな。ドレスの方が涼しそうだ」
「ううん、実はそうでもない! 結構重たいしね」
 聖美は屈託なく笑う。
 実際、気温三十度の常夏の国ではタキシードもドレスも暑いに決まっている。しかもビーチウェディングだ。この島唯一の建造物であるホテルのプライベートビーチにて、思い出に残るサンセットウェディングを――そんな謳い文句に惹かれて申し込んだプランだった。今更文句も言えまい。
 一生に一度のことだ。どうせなら何もかも初めてづくしの、突拍子もないやつにしようと思った。初めての海外、初めての南の島、初めての結婚式。正直に言えば計画を立てている時から楽しかった。生まれて初めてパスポートも取ったし、生まれて初めて国際線に乗った。十時間を超えるフライトも機内食も初めてだったし、周りに日本語が聞こえてこない土地も当然初めてだった。
「見て、ヤス。そろそろ日が沈むよ」
 聖美が、水平線に近づきつつある太陽を指差した。
 海の波間をきらきら照らす夕日は、静かな浜辺を淡いピンク色に染め上げていた。暮れていくだだっ広い空も、さっきまで青かった一面の海も、人気のない白い砂浜も全てがきれいなピンク色をしている。
 そして、聖美もまた同じように。
「すごい……南の島の夕暮れって、言葉にならないね」
 感嘆の吐息を漏らす聖美も、空や海と同じ色に染められている。
 潮風に揺れるウェディングドレスも、髪に飾った大輪の白バラもピンク色に変わっている。
 その色を見て俺は、以前贈った薔薇の花束のことを思い出す。メサイヤ。聖美の為に買ったバラの名前を。
「そうだな」
 俺は同意しつつも、聖美の横顔から目を逸らさなかった。
 南の島の夕景に、花嫁姿の彼女は美しく溶け込んでいた。海の果てをうっとりと見つめて幸せそうに微笑んでいた。聖美、その名前の通りに神聖さすら感じる美しさを、俺はできる限り目に焼きつけておこう。
 初めてその名前を見た時は『似合わない名前だ』とさえ感じたのに、今はこの景色のように美しい、そして彼女に似つかわしい名前だと思う。
 聖美と俺は、これで晴れて家族になる。

 旅行中の滞在先は定番の水上ヴィラだった。
 日本で資料を漁っていた頃は水上に張り出したコテージと聞いて、自給自足の無人島生活を想像したものだった。キャンプ大好き人間ならともかく、俺のような根っからのインドア派はさぞかし不便な滞在を強いられるのではないかと内心びくびくしていた。
 ところが実物の内装は日本のホテルと大差なく、それなりにこじゃれた調度が並んでいた。客室もバスルームも外観からは想像できないほど広く、ベランダからは一面の海が見渡せるようになっている。寝室のベッドは天蓋つきで、二人で寝転んでも余裕があるほど広々としている。
「波の音、聞こえるね」
 そのベッドの上に寝そべって、聖美が俺に囁く。
 俺の二の腕を枕にして、横向きの姿勢でこちらを見ている。ウェディングドレスを着ていた時の神聖さはもう掻き消えていて、今は甘えるような表情をしていた。
「ああ。でも、もっとうるさいかと思ってた」
 夜の海は一層静かで、耳を澄ませば微かに聞こえる、とても穏やかな波の音だった。聞いているだけで自然と眠たくなってくる。
 いくらか日に焼けてしまったようで、シーツの冷たさが肌に気持ちよかった。
「思ってた以上に素敵なところだったね」
 聖美もまどろみはじめているのか、心なしか瞼が重そうだ。
 無理もない。ここには昨日着いたばかりで、時差ボケも治らないうちから今日の挙式だ。それでなくてもお互い初めての海外、俺は何かと不慣れだったし聖美はとにかくはしゃぎ回っていた。くたびれていて当然だった。
「結婚式もあっという間だったけど、夕日きれいだったし……」
 挙式自体は誓いを立て合い写真を撮るだけの実に簡素なものだった。と言うより、日本を出る前に入籍を済ませてきたので結婚自体はとうに成立していた。
「どうしようね、日本に帰りたくなくなっちゃうかも」
 くすくす笑った聖美が、俺の胸にそっと手を置く。その薬指にはまだ真新しい銀色の指輪が填まっている。
 俺の、聖美の髪を撫でる手にも同じように指輪がある。し慣れないものだから今は違和感の方が強いが、そのうちに馴染んでいくことだろう。これから長い付き合いになるのだから。
 そしてもちろん、聖美とも。
 もう既に長い付き合いではあるが、これからは夫婦だ。つまり、家族だ。
「俺はどっちでもいいけどな」
 そう応じると、聖美は眠そうだった目を瞬かせた。
「どっちでもいいって、何が?」
「モルディブでも、日本でも。どこでも」
 確かにここはいいところだ。静かで人がいなくて景色が夢のようにきれいだ。日がな一日のんびりと過ごせる、非日常的なリゾート地。きっとここにいる間に、俺達はもっと幸せな思いができるだろう。
 だが日本に帰ってからだって、始まるのは幸せな日々だろう。今日のように忘れがたい思い出だって、これからたくさんできるだろう。
 俺にとっては初めての、失いがたい家族ができた。
 これから先の未来が、何もかも楽しみで仕方がなかった。
「お前が昔、言ってただろ。俺とだったらどこへでも行けそうだって」
 聖美はいつもそういう台詞を、妙に自信たっぷりに言い切った。
 俺からすれば何の根拠があってそんなことが言えるのか、断言できるのかといつも思っていた。この世に確実なものなんてないし、信じていれば痛い目に遭うのはいつも俺の方だ。殻にこもることで嫌な思いをしなくて済むならそっちの方がいい、聖美と一緒にいる間さえ時々そう思っていた。
 でも今は、俺が聖美に断言できる。
「俺もお前となら、どこにでも行けそうな気がする」
 現にこんな遠い国まで飛んできてしまった。二人きりで結婚式を挙げる為だけにだ。そして何にも知らないこの国で、聖美と今、幸せな時間を過ごしている。
「そしてどこにいても、お前となら幸せだ」
「本当っ!?」
 声を上げたかと思うと、聖美が俺に抱きついてくる。
「こんな時に嘘つくわけないだろ」
「嬉しい……! 私もヤスとなら、どこにいたって幸せだよ!」
 さっきまで眠そうにしていたくせに、今は声を弾ませはしゃいでいる。放っておいたら夜通し起きてるんじゃないかってくらい元気だ。体力、活力が有り余っているところは昔とちっとも変わってない。
 気がつけば俺は、聖美からそういう――生きる為の力をたくさん、たくさん貰っていた。そして今日まで生きてくることができた。
 その結果、結婚式を挙げて、二人で家庭まで築いて、もっと生きたくて仕方がなくなっている。
 こうなったらうんと長生きしてやろう。誰に嫌われてもいい。疎まれてもいい。聖美が傍にいてくれたら俺は生きていけるし、どこへでも行ける。もう簡単には死ねない。何せ、守るべき大切な家族がいるのだから。
「日本に帰ってからもよろしくな、聖美」
 そう告げてから顔を近づけると、彼女は返事の代わりに目をつむった。
 そして唇を重ね合った後で、指輪をした手で俺の前髪をそっとかき上げ、俺の顔を見つめてきた。しばらくの間、珍しく黙ったままで。
「……ねえ、ヤス」
「どうした?」
「ずっと一緒にいようね。これからも」
「当たり前だろ、夫婦なんだから」
 答えを聞くと聖美は満足げに微笑んで、俺に短いキスを返してきた。
 それから二人で抱き合って、静かな潮騒を聞きながら眠りに就いた。

 新婚旅行を終え、また半日近く飛行機に乗って、俺達は日本へ帰ってきた。
 今まで同棲していたアパートには早朝に辿り着き、真っ先にしたのは窓を開けることだった。
「久々の日本の空気、味わわないとね!」
 聖美がそう言いながらあちこちの部屋の窓を開けていく。換気扇を回しておいたから空気がこもっていることはなかったが、家の中は懐かしい匂いがしていて、ああ帰ってきたんだなと思った。
「ヤス、洗濯物出してー。朝のうちに洗っちゃうから!」
「わかった」
 俺も早速荷物を解いて、旅の間の汚れ物を洗濯機に放り込んだ。聖美も後に続いて、洗剤を投入してからスイッチを入れる。久々の仕事とばかりに張り切り出す洗濯機を確かめて、俺達は何となく笑った。
「早くも日常に戻ってきた感じだな」
「だね。でもヤスとなら、こういうのもいいな」
 聖美はこんなことでも楽しそうに、幸せそうにする。
 こっちまで妙に浮かれた気分になって、俺は休みもせず旅行鞄の中のゴミをまとめ始めた。カレンダーを見れば今日がちょうど収集日だったから、俺はゴミ袋を提げて部屋を出る。
「聖美、ゴミ捨ててくる」
「うん、お願い! でも新妻を放っとかないで、すぐ帰ってきてね!」
「ゴミ捨て場に行くだけだよ、すぐ戻るよ」
 玄関の前で靴を履き直し、ふと振り返ると、真新しい表札が目に入る。

 鷲津康友 聖美

 改めて、いい名前だと思う。
 美しい彼女の名前をもっと呼びたい。ゴミ捨てなんて早く済ませてしまおうと、俺はアパートの階段を二段飛ばしで駆け下りた。
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