Tiny garden

大切な人がいること

「あ、あの、すみません」
 電車を降りたところで、聞き覚えのない声がした。

 自分が呼ばれたと思ったわけじゃない。現に振り返ったのは俺だけでもなかった。他に何人かの通勤客が振り向いたのと、混み合うホームで人波を避けながら近づいてくる女子高生の姿が見えた。
 長い髪を下ろした、セーラー服の女子高生だった。知らない顔だった。高校生に知り合いなんていないから当然だ。
 ただその子は、真っ直ぐにこっちを見ていた。
 気のせいだと思いたかった。
「あの……は、はじめまして」
 顔見知りですらない女子高生は、もじもじしながら俺に言った。
 こっちは好きでもない仕事を終えて疲れ切ってて、電車の中ですし詰めになって余計に消耗してて、一刻も早く聖美の待つ部屋へ帰りたかった。
 なのにいきなり何だ。
「……何か?」
 聞き返しながら、俺は早くも嫌な気分になっていた。
 高校生は苦手だ。自分の高校時代を思い出す。あの頃は本当にろくなことがなかったなと思う度、胃がきりきりと痛くなる。
「呼び止めてすみません、実は……」
 胃痛と戦う俺をよそに、その女子高生は鞄から小さな封筒を取り出した。猫の模様が描かれた、幼い印象のある封筒だった。
 それをおずおずと、こちらへ差し出してきた。
「こ、これ、読んでもらえませんか」
「俺が?」
 その意図がわからずに聞き返すと、女子高生は真っ赤な顔で頷いた。
「はい……」
「なんで?」
 聞き返したのは、どういうつもりか知りたかったからじゃない。
 すぐに受け取らなかった時点でこっちが嫌悪感を持っていることを察して欲しかった。見ず知らずの他人から物なんて貰いたくない。それにこの手のパターン、俺はもう既に経験済みでトラウマレベルの痛い目に遭ったことがある。
「読んで欲しいから……」
 返ってきた答えはこうだった。
 そしてそれだけ言うと、女子高生は俺の判断を待つように俯いた。
 差し出された封筒は小刻みに震えていて、こっちが逃げたい衝動に駆られる。
 電車が走り去った後、通勤客の人波は改札へ続く階段へ流れている。そんな中、ホームで立ち止まる俺達を追い抜く連中がちらちら見ていくのが不快だった。早く帰りたい。こんなもの、受け取りたくない。
「悪いんだけど」
 仕方なく、俺は胃を痛めながら切り出した。
「受け取れない。もうじき結婚するから」
 さらりと言いたかったのに、ぼそぼそと、暗い調子でしか言えなかった。
 それで失望したのかどうか、女子高生ははっと目を見開いた後、手紙を握り締めたまま踵を返した。改札に向かう階段へ人にぶつかりながら駆けていき、そのまま雑踏に紛れて見えなくなった。
 取り残された俺はしばらくの間、その場に留まらざるを得なかった。
 内心では無性に、一刻も早く聖美の顔が見たくなっていた。

 帰宅した後、聖美の顔を見た後も胃の痛みは取れなかった。
 用意してくれていた夕飯も食べず、着替えた後はリビングの床に寝転がっていた。すると聖美が寄ってきて、隣にごろんと横たわる。
「元気ないね、ヤス。疲れた?」
 抱きつきながら尋ねてきたから、俺は腕を差し出しながら答えた。
「ちょっとな」
「お疲れ様! お風呂入れるからゆっくり浸かっといでよ」
 聖美は俺の腕を枕にして、優しい声で言ってくれた。
 その顔を目の端で見た後、俺はぼんやりと天井を見上げる。
 疲れているのは仕事のせいだけじゃない。帰りの駅のホームで呼び止められたこと、あの出来事が尾を引いていた。一体どういうつもりなのか、わからないのが余計に不快だった。
 これが楽しい学校生活を送ってきた一軍の人間なら、満更でもなかったりするんだろうか。女子高生に声をかけられて、俺もいけるななんて有頂天になったりするんだろうか。そういう奴はきっと悪戯でラブレターを貰った経験もなければ、それを破り捨てている姿を見られてくすくす笑われたことだってないんだろう。
「……じゃあ、お湯張ってくるね」
 聖美が起き上がろうとしたから、空いている片腕で抱き締めながら制止した。
「ちょっと待った」
「なになに? お風呂の前にする?」
「いや、話がしたい。今日あったこと」
 俺は寝そべったまま身体を傾け、怪訝そうな聖美と向き合った。
「何かあったの?」
「駅で、知らない奴から手紙貰った」
 そう打ち明けると、聖美の表情が途端に曇る。
「女の人から!?」
「なんでわかった?」
「わかるよ普通! えーもうやだ! やだやだ! 私のヤスなのに!」
「騒ぐなよ、受け取ってないから」
 聖美は俺にしがみつき、耳元で駄々を捏ね始めた。
 だからさっさと続きを話す。
「読んでくれって言われたけど断った。黙っていなくなったからわかってもらえたと思う」
 それでも聖美は少しむくれていたようだが、やがて気を取り直したのか微笑んだ。
「私がいるから、ってことだよね?」
「当たり前だろ」
 まだ籍は入れてないけど一緒に住んでるし、プロポーズも済ませてる。そういう相手がいるのに手紙なんて受け取れるはずがない。俺の判断は正しかったと、聖美の反応を見ても思う。
 だが気分は晴れなかった。
「正直、よくあんなことできるよなって思う」
「どういう意味?」
「知らない奴にいきなり声かけて、手紙渡そうとしたりとか……」
 あれがラブレターじゃないって可能性もあるのかもしれない。それこそ悪戯、嫌がらせの類だったり、脅迫状だったり、あるいは――まあ、どうでもいいか。今となっては手紙の中身も確かめようがない。
 ただ、ラブレターだとしたら。
 むしろそっちの方が神経わからないから困る。
「一目惚れなんじゃない? ヤス、格好いいし」
 聖美がさっきむくれたことも忘れて目を輝かせた。
「ぶっちゃけヤスは磨いたらもてるって思ってたんだよね。その人、見る目はあるね!」
「そんなこと言う物好きはお前くらいだよ」
「でもほら、私だけじゃなかったでしょ?」
「俺のこと何にも知らない奴だろ、意味わからないし数に入れたくもない」
 呼び止めた時の様子から見て、俺の名前も知らないんだろう。聖美がいることも知らなかったようだし、駅で声をかけたということは、毎日見かける程度の相手だったのかもしれない。
 もちろん俺の性格も知らないだろう。あんな手紙貰ったら喜ぶどころか胃が痛くなる性分だってことも、中身の見えない手紙にはトラウマがあるってことも、そもそも制服姿の高校生自体が古傷を疼かせる存在だって事も。十代ってのはカースト制度に敏感だから、あの子も俺の高校時代を知ってたらあんな暴挙に出なかったかもしれない。
 その程度の知識しかない相手に、手紙を渡そうと思うなんて、わからない。
「私はわかるけどな」
 俺の内心を読み取ったみたいに、聖美が言った。
 俺の顔を柔らかい手のひらで挟んで、どこか満足げな表情をする。
「だって私もヤスには一目惚れだったし。厳密にはちょっと違うけど」
 聖美が俺に惚れたきっかけは、放課後の教室で俺を見かけたことだったという。
 その時の俺は多分、普段とは違う顔をしていたはずだ。
「だから、その人も同じかもよ。ヤスの顔見て一目惚れしたんだよ」
「そんなもんかね」
 今の俺は、あの頃と同じ顔をしていない。大人になったし、卑屈さも根暗さも昔よりかはましになった。聖美のお蔭で、人並みのサラリーマンにはなれてるはずだ。
 だとしても、顔しか知らない相手を好きになるなんて神経はやっぱりわからない。
「俺なら、顔だけ見て判断なんてできないけどな。ちゃんと話して、どんな奴か知ってからじゃないと……」
 そう言いかけた俺の顔を、聖美がぐいっと覗き込んでくる。
 額をこつんとくっつけて、
「じゃあ私のことも、中身で好きになってくれたんだね」
 などと言い出したから、口が滑ったかと俺は苦笑した。
「まあな。今更言うことでもないけど」
「いつでも聞きたいよ。ね、私のどこが好き?」
「どこって……嫌いなとこがない」
「なら、『全部好きだ』って言ってよ」
 見つめあう姿勢でせがまれて、結局押し切られてしまう。
「全部好きだ。いちいち言わなくてもわかるだろ、結婚するんだから」
「いちいち言葉にして欲しいんだよ、女の子は」
 聖美のそういうところは、高校時代から何一つ変わらない。
 高校時代にいい思い出があったとすれば、それは聖美と出会えたことだけだ。俺と聖美以外は誰も知らない思い出。他の人間からすれば、見ているだけでは絶対に知り得ないような過去の話だ。
 見てわかるくらいなら、あの女子高生も手紙をしたためたりはしなかっただろう。
「結婚したら指輪、するかな」
 俺は自分の左手で聖美の頬を撫でた。
 今はまだ何も填めてない、がりがりの筋張った手だ。
 俺の頬に触れている聖美の手にも、同じようにまだ指輪はない。
「しようよ。ヤスとお揃いの指輪、私もしたい!」
「まあ、お揃いになるよな。結婚指輪なんだし」
 自分が指輪をする日が来るなんて思ってもみなかった。結婚式には必要だから買うつもりではいたが、始終身に着けるのは気恥ずかしいと思っていたからだ。でも指輪をすれば、俺と聖美の過去を知らない連中にだってわかるだろう。
 俺に、大切な人がいることを。
 俺が、聖美のお蔭でとても幸せな日々を過ごしていることを。
「ヤスのこと、好きになってくれる人がいてよかったかも」
 聖美はいつの間にやら上機嫌になって、俺に一度キスした後で続けた。
「取られるのは嫌だけど、それだけヤスが格好いいってことだし、お蔭で指輪もしてもらえそうだし!」
 さっきはむくれたくせに――なんて、間違っても口にはできない。
 これで立場が逆なら、ラブレターを渡されたのが聖美の方だったなら、とてもじゃないがこんなふうには思えなかった。俺の器は聖美よりもずっと小さいからだ。
 だからやっぱり、お互いに結婚指輪は始終身に着けているべきだ。

 例の女子高生は、それから何度か通勤時に見かけた。
 最初のうちは目を逸らされたが、そのうち目も合わなくなった。そうして数ヶ月が過ぎた頃、同じ高校らしい男子生徒と並んで歩いているのを見つけた。その時は『よかったな』と柄にもなく思った。
 その数ヶ月の間に、俺は生まれて初めて指輪をするようになった。
 聖美とお揃いの指輪は、まだ真新しくて手に馴染んでいる気もしない。だけどいつかは慣れるだろう。この幸せが当たり前のものになっていくうちに、きっと。
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