Tiny garden

要らないものなど

 それを初めて見た時、自分で使うものであるにもかかわらず、気持ち悪いと率直に思った。
 安っぽく品のない、毒々しささえ感じる緑色をしていた。同じ色味の小さな袋の中にパッキングされたそれは、久我原聖美の財布の中から三つ繋がった状態で現われた。
 俺はそれをその時初めて目の当たりにした。自分にはきっと生涯――他人より短い人生を恨みがましく終えるはずの俺には、最後まで縁のない、不要な代物だと考えていた。だから初めての局面では使い方がわからなくて失敗して、結局三つとも封を切る羽目になってしまった。
 久我原はそんな俺を笑うでもなく、馬鹿にするでもなく、軽く微笑んで言った。
『箱で買ってあるから、大丈夫だよ』
 あの頃はそういう優しさも、気遣いも、ことごとく気に障ったのを覚えている。
 そして自分で購入して俺の家まで持ってきておきながら、久我原もそれの使い方がわからないと言っていた。この日の為に生まれて初めて買った、封を切るのも初めてなら、使うところを目の当たりにするのも初めてだと、あっけらかんと話してのけた。俺はその言葉を信じなかった。ごく普通の遊んでない風な女子が、それを抵抗なく店で買ってくるとは到底思えなかったからだ。久我原は当時のクラスで真面目そうなグループに所属していたが、人は見た目によらぬものだし、きっと裏ではだらしなく爛れた暮らしぶりをしているのだろうと踏んでいた。
 しかし俺の予想は、その日のうちにあっさり覆されてしまった。
 久我原の言葉に何一つとして嘘はなかった。

 俺と久我原が二人で会うようになって少しも経たないうち、久我原が箱で買ったそれが底を突いた。
 今更誤魔化すのもかえって無様だから認めてしまうが、割と早い段階から俺は彼女に――久我原の掴みどころのない心ではなく、柔らかくて妙に熱っぽい身体の方にのめり込んでいたのだと思う。消費のペースは速かった。猿みたいだった。
 全て使い切ってしまった後、あいつは例によってあっけらかんと、『なら、私がまた買ってくるから』と宣言した。でもそうさせるのはあまりにも格好悪い気がして、ただでさえ俺は日頃から久我原の前で醜態を晒してばかりいたから、俺だってされるがままになってるわけじゃない、と言うなれば矜持を見せたかった。自分で買うからいい、とその時告げた。
 もっとも、あの頃の俺の矜持なんてぐずぐずに腐りきっていたようなものだから、実際に行動に移すのには相当な勇気が必要になった。顔見知りに見られたら困ると、わざわざ遠くの町まで出かけていって購入した。中身が透けて見えないよう、茶色い紙袋にしまわれたそれを更に鞄の奥底に突っ込んで、やたらびくびくしながら家に帰った。その日はいつも以上に周囲の目が、すれ違う見知らぬ人々が怖くて、怖くてしょうがなかった。

 あれから少し時が過ぎ、俺は未だに久我原と二人で会っている。
 彼女と会う約束をしたら、その為の準備を自分でする。今ではもう自ら買いに行くのが当たり前になっていたし、怖いとも恥ずかしいとも思わなくなっていた。近場のドラッグストアなり、コンビニなりへ足を運んで、そこにかつてのクラスメイトが居合わせたところで逃げたりはしない。向こうももう俺の顔を覚えていないのか、単に興味がなくなったのか、昔のように絡まれることも陰口を叩かれることもなくなっていた。
 何かが変わったのだと自分で思う。それがただの慣れというやつなのか、二十歳になったからなのか、はたまた久我原のおかげなのかは自分でもよくわからない。全部当てはまるといえばそうかもしれない。
 そういう俺の変化を彼女はどう思っているのか、それもまた謎だった。少なくとも、同じく二十歳になった久我原聖美に大きな変化はない。
 相変わらず、あのまんまだ。

「……お前、向こう行ってろよ」
 俺が気恥ずかしさから彼女を追いやろうとしても、なぜか梃子でも動かない。傍にぴったり張りつくようにして、ドラッグストアの衛生用品のコーナーで佇む俺を観察している。
「どうして? 別にいいじゃない、私がいても」
 久我原は笑うでもなく、馬鹿にするでもなく、いっそ真面目なくらいに面持ちで聞き返してくる。
「よくない。こういうの、二人で選んでたらバカップルみたいだろ」
 自分で買いに来ることに抵抗はなくなったとは言ったが、久我原が一緒だとなると話は別だった。途端に人目が気になってしまう。
 こんなものを男女二人連れで、しかもまだ日も高い時間帯からしげしげ選んでたりするのはみっともないじゃないか、と俺は思う。いくら俺たちがこれから……昼間からホテルに行くんだとしてもだ。
「え、それいい。すごくいい。私、バカップルみたいに見えたい!」
 どうやら言葉の選択を誤ったらしく、久我原はたちまち目を輝かせた。
 髪を下ろし、人並みの化粧もするようになり、見かけだけならどこにでもいるような女子大生になったというのに、こういう時の無邪気とも言える顔つきは変わっていない。
 そして俺にはこの顔が、未だに少し空恐ろしい。
「見えなくていい。俺が買うから、お前は向こう行ってろって」
「えー。鷲津冷たくない? もう結構長い付き合いなのに」
「いいから。じゃあお前は飲み物でも選んでろよ」
 犬を追い払うように手を振ると、不満そうな顔の久我原はようやくのろのろ歩き出す。衛生用品コーナーを抜け、通路を挟んで向こう側にある食料品の棚のところまで辿り着くと、急にくるっと振り向いた。
「選んで待ってるから、迎えに来てね」
 いい笑顔だった。
「……はいはい」
 適当に返事をする。それでも久我原は機嫌を損ねず、浮かれた調子で奥へと消えた。
 不満顔が数秒ともたないあの性格、羨ましい限りだ。
 俺は一人気まずい思いで再び棚と向き合う。適当に一つ選んで買い物かごに放ってから、それを隠すつもりで向かい側の棚に置かれていた絆創膏の箱も一つ、入れた。
 それから食料品コーナーへ足を運ぶと、久我原は飲料が並ぶ冷蔵ケースからペットボトルを取り出しているところだった。緑茶とスポーツドリンクと、それからストレートの紅茶を二本だ。取り出しながらも俺の気配に気づき、にこっと笑う。
「あ、鷲津いいところに。早速だけどこれ入れて」
 黙ってかごを差し出すと、ペットボトル四本分の重さが一気に加わった。
 久我原は既にお菓子のコーナーに目を奪われているようで、かごの重量に耐える俺の腕を引っ張ろうとする。
「あとお菓子! 何かつまめるもの見てこうよ」
「いいけど」
「鷲津は何がいい? 甘いの? それともしょっぱいの?」
「お前が好きに決めていいよ。食べたいだけ買っとけ」
 そう言うと、久我原はたちまち嬉しそうにしてみせる。
 こんな言葉くらいでいちいち喜ぶ彼女は安い人間だ。でもその顔につられると言うか、呆れ半分で一緒に笑いたくなる俺も大した人間じゃない。
 昔と比べて変わったと言っても所詮こんなものだった。むしろ十代の頃に持ち合わせていた腐った矜持より、今の俺が背負っている安っぽい幸福感の方がよほどたちが悪いように思う。
 バカップルみたいだとさっき言ったけど、実際の俺たちも世間一般の頭の悪いカップルどもと大差ない。べたべたひっついて歩いて、ドラッグストアで飲み物食べ物と一緒にコンドームを購入し、そしてこれから、昼間の明るいうちからラブホテルに行く。
 十代の頃なら汚らわしさすら覚えた一連の行動に、二十歳の俺はすっかり慣れていた。

 ラブホテルは言うまでもなくそういう目的の施設だからか、ベッドのヘッドボードにはご丁寧にコンドームが用意されている。いかにも百均で買いましたというような籐編み風のかごの中、針刺しみたいなクッションに挟むようにして二袋、備えつけてある。
 俺はそれを、ベッドに腹ばいになったまま意味もなく眺めていた。あんまりじっと見ていたせいか、シャワーを浴びて濡れた髪を拭いていた久我原が、ふと言った。
「こういうとこのって、穴開けられてたりするって言うよね」
「誰がそんなことするんだよ。ホテル側か?」
 そんなことして事故が多発したらホテルだって商売上がったりだろ、そう思う俺に久我原は答える。
「違う違う、いたずらでそういうことする人いるらしいよって話」
「とんでもないことしてくれる奴もいるんだな」
「本当にね。少子化対策にはなるのかもだけど」
「じゃあいたずらじゃなくて、政府の回し者じゃないのか」
 俺の言葉に久我原はころころ笑った。
「ホテルを一軒一軒回って、地道に針刺して回る少子化対策? そんなお仕事、大変そう」
 そしてひとしきり笑ってから、小さな冷蔵庫に入れておいた紅茶のペットボトルを取り出し、俺のいるベッドまで戻ってくる。すとんと座ってからペットボトルの蓋を開け、数口飲んだ。
 久我原は紅茶が好きだ。これは昔からそうで、だからと言って高級店のじゃないと飲まないということもなく、品種にもこだわりはないらしい。それどころかペットボトルの紅茶の方がごくごく飲めて手軽でいい、とさえ言っていた。こういうところも安い女だ。
 俺の視線に気づくと、彼女はボトルをこちらへ差し出してくる。淡いオレンジの明かりに照らされているせいか、表情はいやに穏やかだった。
「鷲津も飲む?」
「あー……いや、いい。俺も買ってきてるし」
「持ってきてあげる、何がいい?」
「緑茶がいい」
 わかった、と答えて久我原が立ち上がる。ホテルのベッドが安っぽい音を立て、俺の腹の下でわずかに浮いた。
 すぐに久我原は戻ってきて、緑茶のボトルを俺に手渡す。
「水分補給は大事だよ。ちゃんと摂っておかないとね」
 礼を言って受け取り、俺は起き上がって助言通りに水分を補給する。
 確かに水分は大事だ、人間の身体に必要不可欠なものだ。でもそれをこんな趣味のよくないホテルの一室で語られるのも妙な感じがする。
 この部屋にあるものはさして必要でもなく、そして不毛な品ばかりだった。鏡張りの天井は照明を落とせばほとんど見えなくなるし、壁を照らす間接照明も、その壁にさも意味ありげにかけられたベールみたいな謎の布もムードを高める役割を果たしているとは言いがたい。備えつけの、三世代くらい前のゲーム機やカラオケセットやピンボール台に至っては、ここまで来てこんなの使う奴がいるんだろうか、とさえ思う。
 そもそも言ってしまえば性欲自体、不要で不毛なものなのかもしれない。
 もちろん、種の保存の必要性はわかっている。だが人間の三大欲求のうち、食欲と睡眠欲はそれがないと生きていけないのに、性欲だけはなくなったって困りはしないはずだった。種の保存にしたって、現代の人間社会はそんなに頻繁に作って産むことには向いていない。産むのも育てるのも金がかかるし、手間だってかかる。少子化傾向になるのも仕方のないことかもしれない。
 そして俺たちは、その種の保存という目的さえ放棄して当たり前のように避妊をする。学生の俺たちでは子供は育てられない。お互いに余計なリスクを負うこともないと、それは早いうちから俺と久我原の間で合意した意思だった。
「……鷲津、難しい顔してる」
 緑茶のボトルを両手で握り、ベッドの上であぐらをかく俺に、久我原が身を乗り出すようにして近づく。
 彼女はここに入ってきた時と同じ服を着ている。でもここに来た時とは違って、化粧はまだしていない顔が、こっちをしげしげ覗き込んでくる。
「何か考え事?」
「特に何も……と言うか、いちいち俺の動向気にするなよ」
「気になるんだもの。当たり前でしょう?」
「なら、気にしなくていい。どうせくだらないことしか考えてないし」
 俺はありのままを答える。
 要らないものだ、不毛だと思ってみたところで、どうしても切り離せない、捨て切れないのが性欲というやつだ。高三の、いろいろ切羽詰まっていた頃でさえそうだった。そのせいで俺は死に切れず、久我原の誘惑に負けた。そのままずるずると時期を逃し、心境の変化もあったりして、最終的には久我原のおかげで二十歳の誕生日まで迎えることができた。
 今更、久我原との関係を不毛だとは思わない。むしろ彼女がいるから今の俺がある。これからの人生においても、俺にとって彼女の存在は絶対に必要なものだ。久我原がいなくなったら、その時こそ俺はこの世に未練もなくなるだろう。
 だからこそ、そんな彼女との関係において、不毛なものがいくつも存在しているのが気にかかる。安っぽくて趣味のよくないホテルに入り、避妊をする。避妊をする為の品を店に出向いて購入する。この歳になってそういう行動を疎むほど潔癖症でもないが、そういうものがなくたって、久我原となら生きていけるんじゃないかって気さえするのに。
 俺が再びヘッドボードに目をやったからだろう。久我原は俺の手からペットボトルを取り上げると、急に頬を寄せてきた。乾きかけの髪が少し冷たい。
「試してみる? それ。まだそのくらいの時間はあるよ」
 本気とも冗談とも取れる声で彼女が問う。
 こっちは苦笑するしかない。
「嫌だよ。穴開いてるかもしれないんだろ」
「本当に開いてるかどうか検証してみようよ」
「そんなリスクのある検証できるか」
「それもそうだね」
 自分で言っておいて、また久我原は笑う。いちいち楽しそうだ。
 二十歳になってもあまり変わってない。無駄に好奇心旺盛なところも、怖いもの知らずなところも、ちょっとしたことがすごく楽しそうに見えるところも。
「子供作るなら、ちゃんと望んで作りたいしね」
 楽しげな口調のまま、久我原はそう続けた。
「欲しいか? 子供」
 俺が何となく聞き返すと、柄にもないきらきらした目で頷く。
「そりゃあ、愛する人との子ならね。将来的には鷲津との子が欲しいって思うよ」
 そういう台詞を臆面もなく吐いて見せるところだって相変わらずだ。俺もつい気が緩んで、彼女の妄想に付き合ってやりたくなる。
「俺に似たら社交性もない、ろくでもない子供になるな」
「でもないよ。鷲津似の男の子なら、すごく可愛い女の子に追い駆けられて、幸せな日々を過ごせるよ」
「自分で可愛いとか言うなよ……」
「あ、でも鷲津似の女の子もいいかな。色白美人になりそうだし。きっともてもてだね」
 久我原の思考は底なしに前向きだった。
 俺はまだ自分似の子供すら想像できないし、生まれたところで幸せにしてやれる自信もない。でも久我原似の子供の顔なら簡単にイメージできる。久我原と、推定年齢三、四歳のミニ久我原が全力で俺を追い駆けてくる姿が脳裏に浮かんで、幸せなような、少しだけ怖いような複雑な思いを抱いた。
 もし現実になったら、俺は、ますます死ねなくなるな。
 多分、俺たちはこのまま結婚するだろう。他に相手もいないし、俺は久我原のいない人生には興味がない。彼女が傍にいてくれる以上は、彼女の望むことをできる限り叶えてやらなければならないと思う。
 だからもし彼女が望んだら、本当に子供を作ることだってありえるのかもしれない。種の保存という根本に基づいた、不毛ではないはずの行動を取る日が来るのかもしれない。今はまだ想像もつかないが――というより不毛な行動や品々、環境の方がよほど身近になってしまっているから、そうじゃないものはちっとも現実的に感じられない。
「ねえ、娘がお嫁に行くって言い出したらどうする? 鷲津、泣いちゃうんじゃない?」
 久我原の想像力は逞しすぎた。羨ましいくらいだった。
 俺はもう脱力するしかなく、ベッドにごろりと仰向けになる。そうして鏡張りの天井を見上げながら答えてみる。淡い明かりの中では自分の顔さえまともに映らないが、二つの人影があるのだけはわかる。
「さすがにそんな先の話は想像つかない。気が早すぎるよ、お前は」
「そう?」
 彼女は俺の答えを不思議そうに聞いていた。それから手にしていた二本のペットボトルをサイドテーブルに置くと、俺に寄り添うように寝そべる。鏡に映る人影も同じように重なる。
 横を向いたら、目の前に彼女の笑顔があった。俺なんかといるのに、いつも楽しそうに、そして幸せそうにしている。その顔につられたのかどうか、俺は先の想像をもう一度考え直してみる。
 俺たちの間に子供がいる未来なんてまだ考えもつかない。でもあえて考えてみるなら、その時は――。
「名字で呼び合ってる両親ってのも、何か変だよな」
 そう言って、俺は視線を天井に戻した。
「とりあえず将来に備えて、呼び方から変えとくか、聖美」
 さりげなく言ってみたつもりだったが、彼女の反応は素早かった。
 がばっと起き上がるが早いか、まるでじゃれつく猫みたいに尋ねてくる。
「なになになに、今何て言ったの? もう一回言って!」
「だから、名前で呼ぶかって話だよ」
「そうじゃなくて! もう一回呼んでってこと!」
「聖美」
 望み通りにしてやったら、彼女は小さな悲鳴にも似た溜息をついた。
 それから、
「ね、ね、私は何て呼べばいい? 康友くん? それともヤス、とかそんな感じ?」
「適当でいいよ、好きにしろ」
「やっくんとかどう?」
「別にいいけど……呼ばれ慣れないから、呼ばれても気づかないかもな」
 俺の答えを聞き、彼女は更に熟考を始めたようだった。うきうきとやっぱり楽しそうに。
 バカップルみたいなやり取りだと自分で思う。だが、不毛だとは思わない。少なくとも将来に備えて呼び方を変えておくことは、ちゃんと意味のある、必要性もある行動のはずだ。
「何か嬉しいな、すごく幸せ。今日は名前で呼んでもらえた記念日だね」
 でも浮かれる彼女を見て、そしてつられて苦笑させられている事実にも気づけば、さすがに考えを改めざるを得なかった。

 彼女にまつわる事柄には、不要なものも、不毛なものも、何一つないのかもしれない。
 少なくとも聖美が楽しそうに、幸せにしている事柄は、きっと全てがそうなんだろう。  
▲top