忘れてしまえば良いのです（１）
鷲津が電話を掛けてきたのは、土曜日の午後のこと。初めて彼の家を訪問した日から、一週間も経たないうちに連絡をくれた。
『――久我原か？』
こっちは携帯電話だというのに、鷲津は慎重な口ぶりで尋ねてきた。出る直前に確かめた画面内、彼はどうやら家の電話から掛けてきているらしい。
「そうだよ」
私は少し笑って肯定する。ちょうど彼のことを考えながら、パソコンに向かっていたところだった。
「掛けてきてくれてありがとう」
お礼を述べても返事はない。私が椅子から立ち上がり、ベッドまで移動する間、電話の向こうの鷲津はずっと黙っていた。
もちろん、こちらの動作を待っていてくれた訳じゃないはずだ。ベッドの上に寝そべって、目を閉じて、私は彼の言葉を待つ。彼の呼吸だけが微かに聞こえてきて、すぐ傍にいるんじゃないかと錯覚したくなる。
沈黙が一分近く続いた後、ようやく彼は語を継いだ。
『明後日の放課後、空いてるか』
「明後日？ 明日じゃなくて？」
てっきり、日曜日のお誘いなのかと思っていた。既に自宅学習期間は終わり、ここ数日は卒業式の準備が始められていた。明後日はリハーサル、明々後日はいよいよ卒業式だ。そんな慌しい日程の中、誘われるとは思ってもみなかった。
だけど鷲津は潜めた声で、こう反論してきた。
『明日は駄目だ。親がいる』
口調から察するに、今もいるのかもしれない。鷲津の家の電話は、確か玄関のすぐ横にあった。親の目を盗んで私に電話を掛けてくれたのかもしれない、そう思うと無性にうれしくなる。そこまでしてでも、会う約束をしたいと思ってくれたんだろうか。
『月曜日、卒業式のリハーサルが終わった後だ。うちに来れるか？』
「いいよ」
特に用事はなかった。私は即答する。
いつもの流れなら友達に、お昼ご飯にでも誘われそうだと思ったけど――それなら鷲津を優先する。皆には悪いけど、私は現金な性格だ。好きな人と友達なら、普通に好きな人の方を取る。
「誘ってくれてありがとう」
お礼を述べると、鷲津が鼻を鳴らすのが聞こえた。
『別に、お前を喜ばせようとして誘った訳じゃない』
「じゃあどうして誘ってくれたの？」
すかさず私は問い返し、受話器を持つ彼が、今はどんな顔をしているのかを想像してみた。
多分、むっつりと不機嫌そうな顔。
『……調子に乗るなよ』
今度は舌打ちが聞こえた。
『前に言ったとおり、飽きたら会うのも止めてやるからな。つべこべ言わずに来い』
飽きさせるつもりも、会うのを止めさせるつもりも私にはない。どうしたら鷲津の心を惹きつけていられるか、明後日の訪問で見極めたいと思う。終わりになんて絶対させない。一生だ。
私は密かに喉を鳴らした。
「わかった。少しだけ遅くなるけど構わない？」
声ではごく平静に告げたけど、動悸の激しさはなかなか抑え切れるものじゃなかった。
また会える。鷲津の部屋で、彼と二人きりで。
『何か用事でもあるのか？』
鷲津が怪訝そうに聞いてくる。
「ううん。友達の目を誤魔化すのにちょっと時間掛かりそうなだけ。三十分もあれば行けるよ」
『ならいい。家の場所はわかるだろ？ 一人で来いよ』
用件だけ言い終えると、鷲津は挨拶もせずに通話を打ち切った。
ほんの少し過ぎった寂しさは、けれど程なくして込み上げてくる喜びと期待に取って代わる。彼の声を耳元で聞いた余韻は、しばらく私の胸の中でさざめいていた。彼の肌の白さは、黙っていても思い浮かべられるようになっていた。
週が明け、月曜日。予定通りに卒業式のリハーサルが行われた。
本番さながらの練習とあっても、当然だけど泣いている子は一人もいなかった。それどころか皆、不真面目なくらいの笑顔だった。こそこそとおしゃべりをしている子もいる。私も両隣の席の子にしきりに話しかけられた。ちょっとあしらうのに苦労した。目につく真剣な表情はそれこそ鷲津くらいのものだった――端から鷲津しか関心がなかった、というのもまた事実だけど。こんな時でなければ、鷲津を眺めてはいられないから。
『三年Ｄ組』
担任のマイク越しの声が、しかつめらしくクラス名を呼ぶ。クラス全員が立ち上がり、校長先生の待つ壇上へとぞろぞろ列を作る。
担任はクラスメイトの名前を一人ひとり、呼んでいく。呼ばれた者は返事をして壇上に登り、校長先生から卒業証書を受け取る、ふりをする。本当に渡してもらえるのは明日。今日はただのリハーサルだ。だからか、名を呼ばれた時にふざけた声を上げる人、壇上でパフォーマンスらしきことをする人などが目についた。私は特に、興味もなかった。
興味があるのは彼だけだ。
『鷲津康友』
担任がその名前を呼んだ時、私の身体は自然に震えた。下の名前を聞いたのは初めてのような気がした。クラスメイトなのに、私は彼のフルネームもはっきり記憶していなかった。心に刻み込んでおこうと思った――鷲津、康友。その名前。
「はい」
彼の声は高くもなく低くもなく、実に何気ない調子で講堂に響いた。にもかかわらず、講堂内のそこかしこから、くすくす笑いが聞こえてきた。
鷲津は笑わず、真剣な顔つきで壇上へと登る。背筋はぴんと伸ばされていた。足取りは堂々としていた。なのに、彼を笑う人がいる。クラスメイトの中にもいる。
「やっぱ、浮いてるよね、あいつ」
「一人だけばかに真面目だもんね」
そんな囁き声が列の後方から聞こえてきた。私は、唇を結んだ。
当然、知っていた。鷲津のクラスでの評価も、彼のことを皆が、どんな風に思っているかも。知っていながら私はずっと、どうでもいいそぶりでいた。関心がなかった。この間までは。
だけど、今はそうじゃない。
くすくす笑いも囁き声も、鷲津はものともしていないようだった。壇上で卒業証書を受け取るふりをして、丁寧にお辞儀もして、壇上を真面目に降りてきた。誰の顔にも目を向けず、無関心なそぶりでいた。私の方も見てはくれなかった。
『久我原聖美』
鷲津が席に戻ってきたのとほぼ同じタイミングで、私の名前が呼ばれた。それでも身動ぎもしてくれない鷲津を横目に、私は壇上へと登る。背筋はぴんと伸ばして、真面目な顔でいてやった。笑う気にも、ふざける気にもなれなかった。
「卒業、おめでとう」
リハーサルなので、校長先生も証書を読み上げたりはしない。渡すふりをされたから、受け取るふりをする。私の手の中に、透明でがらんどうの卒業証書がやってくる。
私は丁寧にお辞儀をした。それからくるりと踵を返し、壇上から降りる。
降りながら、講堂を横目に見遣る。狭い空間にぎちぎちに詰め込まれた、同じ形、同じ色の制服たち。この中のどこかから鷲津を笑う声がした。鷲津を馬鹿にする囁きがあった。皆が同じ顔に見えた。皆が鷲津を、笑っているような気がした。きっとこの中のどこにも、私の気持ちを理解してくれる人なんていない。そう思った途端、息苦しさを覚えた。
確かに窮屈だ。ここは。この制服は。この学校は。
私たちは拘束されている。私は、拘束されている。この制服に、この学校に。早く脱ぎ捨ててしまいたかった。こんなところ飛び出して、制服も脱いで、鷲津のところへ行きたかった。制服を脱いだ身体で、鷲津に限りなく近づいて、他のものなんて何も入り込めないようにくっついて、彼にだけ夢中になって。彼以外の他のことは何もかも忘れてしまいたかった。クラスメイトも、仲のいい友達も、先生も、この学校の思い出も全部――。
卒業が待ち遠しいと言った鷲津の気持ちが、ようやくわかった。
私も待ち遠しい。この学校にはいい思い出もあったし、仲のいい子もいたけれど、今となってはどうでもよかった。私には鷲津だけいればよかった。鷲津だけいてくれたら、彼を笑う声も、彼を馬鹿にする言葉も聞かずに済むから。私もひたすら彼を想っていられるから。
卒業したら、もうクラスメイトの目なんて気にならない。他の人なんていよいよどうでもよくなるだろう。心置きなく鷲津を見つめていられるだろう。鷲津を、愛していられるだろう。
明日が待ち遠しかった。
でもその前に、今日のことも、とても楽しみにしていた。彼の家に行ったら、ひとまず何もかも忘れてしまおう。
放課後、予想通り友達からの誘いがあった。
「聖美、お昼ご飯一緒に食べない？」
「……ごめん。今日は家の用事があるの。急いで帰らなくちゃ」
私が平然と嘘をついても、友達は快く笑ってくれる。
「そっかあ。それならしょうがないね」
嘘をつくのに罪悪感がまるでない。今日まで仲良くしてきてくれた子たちに、すげなくするのも抵抗はなかった。どうせこのクラスも明日でおしまい。明日、終わらせたくないと思うものはたった一つだ。
鷲津の為なら何だって出来る。――そのことを改めて実感していた。