Tiny garden

See me, See you.(2)

 八月のお休みの日、私と伏見さんは東京タワーを見に行った。
 前に約束した通り、『スカイツリーは上ったから、次は東京タワー』なんていう単純な動機からだ。
 でもせっかくだから東京を歩き尽くしてみたいって気持ちも、相変わらず強くある。
 もちろん、彼と一緒に。

 夕方に駅前で待ち合わせて、いつものように小田急線で新宿へ。
 そこから大江戸線で最寄駅である赤羽橋駅を目指した。
 駅を出てほんの少し歩いただけで、ライトアップされた東京タワーの姿が見えてくる。
「見てください、もうタワーに明かりが!」
 私は思わず声を上げた。
 日が落ちた菫色の空の下、淡いオレンジ色の明かりが点された東京タワーはとてもきれいで、まるでキャンドルの灯で辺りを照らしているようだった。
 八月の夜、初めて間近に見るタワーの光は温かくて、不思議と懐かしい。私たちも自然と足を止めてしまう。
「きれいですね……」
「ああ。夜に来て正解だった」
 伏見さんも満足げに呟く。
 私たちはこれから東京タワーに上る。スカイツリーは昼間だったけど、今回は夜景を見るつもりだった。ちょっと大人のデートだ。
「スカイツリーの時、これは夜に来てもいいなと思ったんだ」
 タワー目指して歩きながら、伏見さんが言う。
「高いところから見る夜景も、きっときれいだろうから」
「そうでしょうね。すごく楽しみです」
 期待を胸に頷けば、彼も優しく微笑んだ。
「行こう、桜さん」
「はい」
 蒸し暑い真夏の夜にも、私たちはしっかりと手を繋ぐ。
 そしてオレンジ色の光を目指し、楽しい気分で歩いていく。

 東京タワーの特別展望台は地上二百五十メートルの高さだそうだ。
 スカイツリーが一番高いところで地上四百五十メートルだったから、それよりは低い眺めになる。
 とは言え空を飛べない私たちにとっては、東京タワーだって十分に高い。少し揺れるエレベーターで特別展望台へ出た途端、夜景のパノラマが視界いっぱいに広がり、私たちは大きなガラス窓に吸い寄せられた。
「やっぱり、すごくきれい……!」
 思わず溜息が零れた。
 眼下に広がるは一面の夜景。煌々と窓を光らせた背の高いビル街が、夏の夜空をほんのり明るく染め上げている。街明かりは光の粒を敷き詰めたようで、道筋まではっきりとわかるほど明るく照らされた道路と、そこを駆け抜けていく車のヘッドライトが夜の闇に浮かび上がっている。遠くには目映く光る吊り橋も見えた。
「伏見さん、あの橋は?」
「あれはレインボーブリッジだよ」
 私が尋ねると、彼はいつも丁寧に教えてくれる。
「向こうがお台場だ。わかるかな、あれが隅田川で――晴れた日の昼間なら、ここから富士山も見えるそうだけど」
 残念ながら、夜の景色の向こうに富士山が見えることはなかった。だけどお台場はわかったし、レインボーブリッジを見られたのも嬉しかった。おのぼりさん気分はまだ抜けていないけど、だからこそ東京をもっと見たいという気持ちが強くなる。
 それから私たちは展望台の窓沿いに、三百六十度の景色をゆっくりと見て回った。展望台の中は夜らしく柔らかい光で照らされていて、私たちは自然と身を寄せ合っていた。
「あれは六本木ヒルズ。俺も行ったことはないけど」
 伏見さんの手が、円柱みたいな大きなビルを指し示す。そこにも他の建物と同様に、美しい光が灯っている。
 私も名前だけは知っているけど、そもそも何が入っているビルなのかすら知らなかった。
「目を凝らさないと見えないかな……向こうのビル街が新宿副都心だ」
 彼に言われて私は必死に目を凝らしたけど、いつも通っているはずの新宿の街は遠く、こじんまりとした姿にしか見えない。
 自分の足で歩いてみればとてつもなく大きな街なのに。高いビルがたくさんあって、夜遅くでも明かりが消えず人が大勢いて、不夜城のようだとはまさに新宿のことだと思っていた。だけどこうして見下ろせば、新宿さえもが広大な東京の一部分に過ぎない。
「ここからだと新宿も小さく見えますね」
 私の言葉に伏見さんはおかしそうに笑った。
「確かにそうだ。俺たちもあんな小さなところに通っているんだな」
「だったら私たちは、もっともっとちっちゃいですね」
「豆粒みたいなものかもな。そもそもここからでは人の姿も見えやしない」
 だけど目には見えなくても、この夜景の中には一千万という人々が確かに暮らしている。ここから見える全ての光は、その人たちが点しているものだ。星空よりも眩しく無数の光がひしめき合うこの街で、私と伏見さんは出会うことができた。
 今思い返しても、全く不思議なご縁というか、素晴らしい偶然というか――運命、って言いたくもなる。
「東京タワーからの眺めもいいですね」
「ああ。君と来られてよかった」
 伏見さんは私に頷いた後、ほんの少し怪訝そうに首を傾げた。
「でも、スカイツリーの眺めはどうだったのかな。こんなに素晴らしい夜景を見た後だと、向こうの夜の景色も気になってきた」
「じゃあ今度は、夜に上ってみましょうか?」
 私も何だか気になってきた。スカイツリーから見下ろした東京も確かにきれいだったし、夜景もすごかったんじゃないだろうか。
「桜さんさえよければ、是非」
 心なしか、今夜の伏見さんはいつも以上に楽しそうだ。あの柔らかく穏やかな声を弾ませて、色素の薄い瞳には光が躍っている。
「でも俺たち、いつも高いところばかり上っているな」
「お互い、高いところが好きですからね」
「そうだな。趣味が合ってよかったよ」
 伏見さんは笑い、それからしみじみと言い添える。
「それと、この街が。何だかんだ言っても好きなんだろうな」

 私は今日まで、東京を好きか、嫌いか、深く考えたことはなかった。
 私にとってはまだ慣れない、大きな街だ。大きすぎると言ってもよかった。春のうちはその途方もなさにすっかり飲まれていた。
 だけど今、私は東京を知ろうとしている。この街を見て、歩いて、味わい尽くそうとしている。
 ここは、大好きな人と出会えた場所だ。
 たった四ヶ月で、大切な思い出もたくさんできた。
 そんな街のことを、好きにならないはずがない。

 それからも私たちは、東京タワーからの夜景を堪能し続けた。
 夜遅くまでやっているから、時間を気にする必要はない。帰りの電車の時間のことは多少気にした方がいいのかもしれないけど――それはまあ、伏見さんが気にしないのなら私だって、気にしない。
 帰ることを気にするよりも、今を楽しむ方がいい。
「一つ、ずっと聞いてみたいことがあったんです」
 夜景を見ながら切り出すと、肩を並べて立つ彼が、こちらを向いて目を細めた。
「質問なら、いつでもどうぞ」
 彼はいつも、そんなふうに優しく答えてくれる。
 だから私も彼のことを、もっとよく知りたい、何でも聞いてみたいと思う。
「『桐梧さん』って、どうしてそのお名前になったんですか?」
 私は、何でもないふうで切り出した。
 実を言えば、彼の名前を呼んでみたのは初めてだ。かなり緊張していたことも、彼に聞こえないよう何度も深呼吸をしていたことも秘密だけど、とっくにばれているかもしれない。
 何にせよ彼はその色素の薄い瞳を一度瞠ってから、
「名前の由来を知りたいということ?」
 すぐに微笑んで聞き返してきた。
「そうです。桐とアオギリ、字のことは以前も伺いましたけど」
 どちらも植物の名前だ。私と同じだ。初めて聞いた時はそんな些細な共通項さえ嬉しくてたまらなかった。
 そして今は、大好きな人のその名前のことをもっと知ってみたくなった。
「私は四月生まれで、生まれた日に病院の窓から満開の桜が見えたから……って母が言ってました」
「それなら俺も似たようなものだ」
 彼は真面目に頷き、続けて答えてくれた。
「うちの実家の庭に桐の木が生えている。その花がちょうど咲いた頃に生まれたんだ。『トウゴ』という響きが気に入ってアオギリを付け加えたけど、アオギリが桐の仲間ではないことを後になってから知ったそうだ」
 そこで少し、照れくさそうに笑ってもいた。
「桐の木にもお花が咲くんですか?」
「咲くよ。釣鐘型の、紫色をした綺麗な花だ」
「へえ……! 一度、見てみたいです」
 恥ずかしながら私は『桐の花』を知らなかったし、そもそも花が咲くことすらわからなかった。だけどそう言われたらどんな花なのか見てみたい。話を聞く限りではきっときれいな花だと思う。
「よかったら次に咲いた時、うちに見に来る?」
「えっ……と、ご実家、なんですよね? いいんですか?」
「実家に彼女を連れて帰っても、別に問題はないだろ」
 私の動揺をよそに、彼はさらりと言い切った。
「ただ、来年の話になるけどな。あれは五月頃、桜のあとに咲く花だから」
「じゃあ、春生まれさんなんですか?」
「そうだよ。桜さんと同じだ」
 桜のあとに咲く桐の花。来年の五月、是非その花を見てみたい。
「来年の約束なんてしたら、鬼が笑うかな」
 彼はそう言いつつも、やっぱり嬉しそうだった。
「でも約束したからには叶えよう。来年、一緒に桐の花を見よう」
「はい!」
 確かに、気の早い約束なのかもしれない。
 だけど今の私たちには、叶えられない約束ではないはずだ。来年も一緒に――なんて、当たり前のように願ってる。
 来年、二人で、桐の花を見られますように。

 その時、私のポケットで携帯電話が振動した。
 届いていたのは涼葉ちゃんからのメールだ。断ってから確認させてもらった。
 すると文面は短く、
『先生に会ったよ。私のこと、覚えててくれてた!』
 とあった。
 私はそれを見ながら自分のことみたいに嬉しくて、ついにやにやしてしまう。
 そっか。涼葉ちゃん、会えたんだ。よかったな。

 それから携帯電話をしまって、待っていてくれた彼のところへ戻って、
「伏見さん、すみません。お待たせしました」
 そう声をかけたら、夜景を見ていた彼が振り返り、目を瞬かせる。
「あれ、名前じゃないのか」
「え?」
「さっき、呼んでくれたから。これからは名前の方がいいな」
 その言葉に私はうろたえた。
 何気ない調子で口にするのさえあれだけ緊張したお名前だ。だけど、彼がそうして欲しいなら。
 そしてその名前が、未来の約束に繋がっているのなら。
 さっきみたいに何度か深呼吸をして、がちがちに緊張していたけど、勇気を出してもう一度呼んでみる。
「……桐梧さん」
 すると、明かりが点ったように和らいだ表情の彼が、すぐさま深く頷いてくれた。
「ありがとう、桜さん。こっちにおいで」
「はい、桐梧さん」
 彼が差し出してくれた手を取る。男の人らしい関節の目立つ手を、ずっと離さないようにぎゅっと握った。彼はその手に力を込め、私を傍へ引き寄せる。

 それから私たちは肩を並べて、東京の夜景を、飽きることなく眺めていた。
 ここから見える景色も、隣にいる人も、本当に大好きだ。
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