Tiny garden

季節は空から訪れる(3)

 私流ロールキャベツの作り方は、至って簡単だ。
 中身の種はハンバーグと一緒。挽き肉にパン粉、玉ねぎ、卵を混ぜ、塩コショウをしてからこねる。
 粘り気が出るまで混ぜたら、レンジで加熱して柔らかくして置いたキャベツの葉で巻く。この時、巻きが甘いと煮込んでいる間に解けてえらいことになるので、パスタを一本刺して留める。爪楊枝でもいいんだけど、パスタだと煮込むうちに柔らかくなって、一緒に食べられるからもっといい。
 あとはコンソメスープで煮込んで、ついでに適当な具材を放り込んでおけば大体美味しくなる。今回は失敗したくないので、無難にベーコンとニンジン、ブロッコリーを入れといた。
 三十分くらいことこと煮込んだら火を消して放置しとけば、簡単なのに美味しいロールキャベツのできあがり。
「……うん、美味しい」
 味見してみたら、ベーコンからしっかりだしが出たとても美味しいスープになった。ロールキャベツの方も煮崩れなしで柔らかい、上々の仕上がりだ。
 私の作る料理はいつもこんな調子だ。時間はそれなりにかけるけど、手間はかけない。それでも十分すぎるほど美味しいからいいんだって思ってる。
 果たして、黒野くんのお口には合うだろうか。

 午後七時、『クロノス』の閉店時を見計らって、私は彼にメールを送った。
 ロールキャベツならできてるから、帰ってきたら私の部屋に立ち寄って欲しいこと。日付が変わるくらいまでは起きてるから構わずチャイム慣らして欲しいこと。味の方は割とよくできたかも、なんてこともメールに書き添えた。
 黒野くんからは九時前に連絡があり、閉店作業を終え、もうじき帰るとのことだった。
『都さんの手料理、早く食べたい! 急いで帰る!』
 彼の食いつきようは無機質なはずのメールの文字からも伝わってきた。おまけに何だろうこの文面、まるで一緒に住んでるみたいに思えてきたり――付き合ってもいないのに妄想が過ぎるかな。私もちょっと浮かれてるのかもしれない。
 衣替えを済ませた私は、早速もこもこのガウンを羽織って黒野くんの帰りを待った。
 日が落ちてからは一層冷え込みがきつくなり、一度こたつに入るとなかなか出られないほどだった。

 午後九時半頃、外の階段を上がってくる足音が聞こえてきた。
 来たかなと身構えていれば、やがて高らかにチャイムが鳴る。
「はーい」
 私はこたつから這い出て、インターフォン越しに返事をする。
『都さん、ただいま』
 黒野くんの声がした。
「お帰り。今持ってくから、ちょっと待ってね」
 私は用意しておいたロールキャベツ入りの鍋を手に、彼の待つ玄関へと向かう。夜の冷気は玄関のドア越しにも忍び寄り、外の厳しい寒さも予想がついた。
 玄関のドアを押し開けて、黒野くんを一目見たら驚いた。
「うわ、すごい雪! 黒野くんにも積もってるよ」
 彼のアッシュブロンドの髪に、白いベレー帽でも被せたみたいに雪が積もっていた。チェックのマフラーの隙間やライダースの肩にも雪の層が乗っかっていて、まるでブリザードの中でも歩いてきたみたいだった。
 私が積もった雪を手で払ってあげようとすると、黒野くんはかぶりを振る。
「冷たいからいいよ、都さん。気持ちは嬉しいけど」
「黒野くんこそ風邪引かないようにね。そんなに降ってた?」
「降ってる。明日の朝には結構積もってるかもね」
 それで私は戸口と彼の肩越しに、とっぷり暮れた外の景色を覗いてみた。アパート前の街灯の光の中、羽毛のような雪がぼたぼたと落ちていくのが見えた。この分だと明日の朝は思いのほか積もっているかもしれない。
 月曜日はどうだろう。徒歩通勤の私も雪が積もればやっぱり歩きにくいし、転ぶ危険だってある。少し憂鬱だ。
「じゃあこれ、温めて食べて。今夜は本当に寒いから」
 私は彼を玄関に招き入れた後、赤いホーローのソースパンを差し出した。
「ありがとう。今日はこれだけを楽しみに乗り切ったよ」
 閉まるドアを背に、黒野くんは嬉しそうに鍋を受け取る。それから蓋を少し開け、中身を覗いてみたようだ。
 たちまち彼はにこにこと笑みを零す。
「いい匂いだし美味しそう。都さん、自信ないって言ったの嘘だろ」
「嘘じゃないよ。食べたら率直な感想をお願いね」
「わかった。たっぷり誉めちぎるよ」
 まだ食べてもいないのに、そんなことまで言ってくれる。
 喜んでもらえるのはもちろん嬉しいけど、食べてから黒野くんがどう思うかは非常に気になるところだ。お口に合うといいな。
「それにしても、こんなに早く都さんの手料理を食べられるとは」
 ホーロー鍋を満足げに見下ろしながら、黒野くんは言った。
「これは脈があるって思っていいのかな、都さん」
 そんなふうに言われると、こっちは答えに詰まってしまう。
 脈、あるのかな。まだ自分でもわからない。
 黒野くんには好感を持っているし、一緒にいて楽しいと思っているし、失恋したばかりでも、別の人に惹かれてしまうのも自由だと思っている。ただそれが恋と断言できるのかどうかわからなくて、まだしばらくは曖昧にしておきたいとすら思っていた。
 ただ一つ、はっきりしていることがある。
 私は黒野くんに、
「すごく、感謝してるんだ」
 そう告げた。
「感謝……?」
 黒野くんは垂れ目の瞳できょとんとしてみせる。
「うん。黒野くんがいてくれてよかったと思ってる」
 一人ぼっちだったら、こんなふうに笑っていられなかった。
 きっと江藤くんに言われたことを引きずって、ぐずぐず悩んで、へこんだまま土日を過ごしていたはずだ。
 この休日を普通に――それどころかいつもより楽しい気分で過ごせたのは、間違いなく黒野くんの優しさのお蔭だ。
「優しくしてくれてありがとう、黒野くん」
 私が重ねて感謝を告げると、彼はにこりともしないまま口を開いた。
「都さん」
「何?」
「そんな奴、とっとと忘れちゃえば?」
「――えっ」
 黒野くんが誰のことを『そんな奴』と言ったか、すぐにわかった。
 だからこそ私は戸惑う。だって、江藤くんのことは昨夜も今日も一言だって口にしていない。
 それだけわかりやすかった、ということかもしれないけど。
「わ、忘れようとは、してるんだけど……」
「でも忘れさせてくれないんだろ、そいつが」
 鍋を持ったまま、前髪から解けた雪の雫をぽたりと落としながら、黒野くんは酷く冷静に私を見ている。
 いつもの甘い微笑みはかけらもなく、その顔はただただ真剣だった。
「俺なら、都さんを傷つけたりしないのに」
 そして彼のその言葉に、私は、傷ついているという実感を噛み締めることになった。
 私は、やっぱり辛かったのかもしれない。
「忘れられないって言うか……」
 昨夜は言わなかったことを、今、唐突に言いたくなった。
「正直に言うとね、酷いなって思った」
 怖いくらい素直になった私は、黒野くんに今の気持ちをぶつけた。
「だって彼、私に『今まで通り接して欲しい』って言うの。私が一歩踏み出そうとしたのを遠ざけたのに、彼女がいるからって私の誘いを断ったのに」
 もちろん、江藤くんは悪くない。
 彼女がいるなら他の女性の誘いは断るべきだし、その上で職場の先輩に今まで通りの関係を求めるのも何らおかしなことじゃない。彼は多分――きっと、私のことを振ったって意識はないんだろうし。
 でも、私は傷ついた。そんなの無理だって思った。今まで通りに接する気分には、なれなかった。
「私、黒野くんに髪切ってもらったり、プラネタリウムに付き合ってもらったりして、びっくりするほど明るい気分になれたんだ。もう失恋の傷なんてなくなっちゃうんじゃないかって思ったくらいなのに、江藤くんが――」
 江藤くんは悪くない。
 でも、彼の優しさにはもう触れたくない。
「……同じ職場って、きついだろうね」
 黒野くんが相槌を打ったので、頷いた。
「忘れたいって私も思う。そうでもしないと、今まで通りなんて無理だよ」
 そして私が溜息をつくと、黒野くんは睫毛を伏せた。解けた雪のせいだろうか、睫毛の先にも小さな水滴を光らせた彼は、しばらく黙り込んだ後で唇を動かす。
「じゃあ、俺が手伝ってあげるよ」
「手伝うって、具体的にどうやって?」
「俺を好きになってよ、都さん」
 視線を上げ、彼が真っ直ぐに私を見る。
 玄関の明るい光の中で、黒野くんの瞳の中にも白い光が浮かんでいる。その眼差しの強さに圧倒された。
「そしたら俺は都さんを幸せにする。都さんが嫌なことも傷ついたことも何にも思い出さなくなるくらい、都さんを愛してあげるよ」
 それは、およそ私が遭遇したことがないほど熱烈な、愛の言葉だった。
 私は直前まで抱えていた鬱屈とした気分を、確かにその時、忘れてしまった。
「く、黒野くん……すごいこと言うね」
 めまいがするほどの告白に、私はどぎまぎしてよろけかけた。
 出会って一週間の相手に言うような台詞じゃない。そんなの、誰が聞いたってうろたえるに違いない。
「そうかな。このくらい、誰でも思うよ」
 黒野くんはあっさり言ってのけると、思い出したように少し笑んだ。
「俺を選んでよ。好きになって欲しい」
 私は打ちのめされたように、何も言えなかった。

 黒野くんを好きになれたら、幸せになれる。
 それは私にだってわかった。私が彼と共に過ごしてきた、この一週間が何よりの証拠だ。間違いない。
 でも、好きになってと言われて、努力で人を好きになれるものなんだろうか。
 私がこれまで好きになった人達は、皆、自然とそうなった。好きになろうなんて思ったことはなかった。気がつくと恋に落ちていた。
 そうじゃない恋の始まりなんて、あるんだろうか。

「私だって、黒野くんと一緒にいられたらって思うよ」
 ようやく動いた唇が、そんな本音を零してしまう。
「それだって、感謝の気持ちだけで作ったんじゃないんだから」
 彼が手にしているホーロー鍋を視線で示す。
 お礼のつもり、だけじゃなかった。確かに手間はかかってないけど、材料費はかかってる。
 黒野くんは鍋をちらりと見やった後、ちょっと安心したように表情を緩めた。
「それは嬉しいな、ありがとう。美味しくいただくから」
「うん。口に合うといいんだけど」
「謙遜するね、都さん。鍋は洗って返せばいい?」
「そのままでもいいよ。私がいなかったら、ドアノブに吊るしておいて」
 とにかく、黒野くんが美味しく食べてくれたらいい。
 今夜みたいな寒い日に、少しでも温まってくれたらいい。
 そう思って作ったんだから。
「じゃあやっぱり、脈ありって思っていいのかな」
 黒野くんが私に尋ねてくる。
 私はやっぱり、自分じゃわからなかった。
「好きになろうと思ってなれるものじゃないでしょ、恋って」
「そんなふうに思ってるの? 都さん、結構うぶなんだ」
「な、何それ! こんなの一般常識って言うか、そういうものじゃない」
 笑われるとちょっとむっとしたけど、恋ってそういうもののはずだ。
 だけど黒野くんは微笑んでいる。今度は少しばかり、楽しそうに。
「俺となら、都さんが今までしたことがないような恋ができると思うよ」
 果たしてそれは、どんな恋になるんだろう。
 想像しようとするとできないのに、不覚にもどきどきしてしまった。だって黒野くんと一緒にいるのは楽しい。いつも明るくて、優しくて、その優しさが決して私を傷つけない人。そんな人との恋が、楽しくないはずがない。
 私が黙っていると、黒野くんは私の顔を覗き込もうとするように少し屈んだ。
 真正面から近づかれたらもっと警戒していたと思う。だけど彼は側面から覗くように顔を近づけてきて、湿った前髪が頬に触れたと思った時には、遅かった。
 もっと冷たくない、柔らかいものが頬に当たった。
「な、なな……黒野くん、今! 何!?」
 その感触にうろたえる私をよそに、唇を離したばかりの黒野くんは屈託がない。
「何って、ほっぺたにキス。前に約束したから」
「し、したっけ? って言うかあれってデートの時にって話じゃ――」
「似たようなもんだろ。じゃあ、ごちそうさまでした」
 言うだけ言うと彼は鍋を持ったまま踵を返し、ドアを開ける直前に一度だけ振り向いて、私に言った。
「好きだよ、都さん。おやすみなさい」

 相変わらず、なんて爆弾を置いていくのか黒野くんは!
 玄関に一人残された私は、触れられたばかりの頬に手を当てたまま、呆然と立ち尽くしていた。
 だけど彼の優しさは確かに、私を救ってくれた。

 だけどあんなことまでしなくても――って言ったらまた、うぶだって笑われそうだから言わないけど!
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