Tiny garden

ときめきは夜に落ちてくる(3)

 黒野くんも、つくりものの星空を十分楽しんでくれたようだ。
「プラネタリウムがこんなに安らげる場所とは思いませんでした」
 上映が終わった後、シートから身を起こした時の表情は晴れ晴れとしていた。
 普段から癒しのお仕事をしている人でさえも、プラネタリウムの美しさにはすっかり癒されてしまうみたいだ。きれいなもののパワーってすごい。
「こんないい場所、教えてくれてありがとうございます」
 閉館時間の差し迫る科学館を後にしながら、黒野くんが私にお礼を言った。
 私も星空の余韻に浸りつつ応じる。
「こちらこそ、楽しんでくれてよかった」
 お蔭で、あのチケットが無駄にならずに済んだ。それだけでも気が楽だった。
 おまけに、代わりに来てくれたのが一緒に星空を楽しんでくれる黒野くんだ。彼が満足げに目をきらきらさせているのを見ただけで、誘ってよかった、黒野くんでよかったって心から思う。
 このお隣さんとは、何だか上手くやっていけそうな気がする。
「都さん、まだ時間平気ですか?」
 それから黒野くんは私に尋ね、
「チケットのお礼に、何かごちそうさせてもらえませんか?」
 と続けた。
 仕事の後で真っ直ぐ来たから、お腹は結構空いていた。時刻は夜十時になろうかという頃合いで、明日も当然仕事がある。
 でもまあせっかくだし、気分もいいし、一軒くらいなら。
「いいよ、私もお腹空いたなって思ってたんだ」
 私が頷くと、黒野くんは嬉しそうに笑んだ。
「よかった。ところで、希望のお店ってあります?」
「さすがに遅いし、あんまり重くないのがいいかな」
 そう答えかけて、ふと気づく。
 黒野くんは引っ越してきたばかりだ。いいお店なんてまだそんなに知らないんじゃないだろうか。『あんまり重くないの』なんて、ふわっとした答えじゃ迷わせるだけじゃないかな。
 そう思って言い直そうとした私に、黒野くんは淀みなく続けた。
「この辺りだとハワイアンかカフェバルか、創作居酒屋でご飯だけって手もありますけど、どれがお好みですか?」 
「く、詳しい! この辺、もう歩いたの?」
「スタッフに教えてもらったんです。デート帰りにいい店があるよって」
 彼はやっぱりはにかんで、私の驚きに答えをくれた。

 案内されたハワイ料理のお店は駅ビルの最上階にあった。
 ラストオーダーにぎりぎり間に合い、まずは適当にオーダーを済ませる。私はご飯が食べたかったので鮪とアボカドのポキを頼み、黒野くんはハワイアンパンケーキを選んでいた。
 駅ビルにはたまに買い物で来るけど、そういえばレストラン街はノーチェックだった。一人だと来にくい場所ではある。
 そしてこのお店はハワイの雰囲気たっぷりのトロピカルなお店だった。カウンターの上には茅葺き屋根が張り出しているし、壁にはサーフボードやフラガールのポスター、大きなココナッツの葉が飾られている。私達が座っているソファのファブリックは鮮やかなハイビスカス柄でとても素敵だった。内装の賑やかさに気分まで明るくなって、初めてのデートにはぴったりのお店だと思う。
「いいお店だね」
 私が告げると、向かい合わせに座る黒野くんが胸を撫で下ろす。
「気に入ってもらえてよかったです。俺も下見まではしてなかったから」
 その安堵した様子とは裏腹に、何をするにもそつのない人だと私は思う。
 デートの後にどこかへ寄っていくところまでは想定内だったけど、お店まできっちりと調べてくるんだからさすがだ。見た目は垂れ目で笑い方も甘く優しくて、ほわほわした感じの人なのかと思ってたけど――どうも、そうではないみたい。
「黒野くんって、引っ越してきてからまだ一週間経ってないよね?」
「明日で一週間、ですかね。先週の木曜ですから」
 彼は記憶を手繰るようにゆっくり答えた。
 そうだ。木曜にもうちに挨拶に来た、って言ってたっけ。だけど不在で会えなかったって。
「こっちにはもう慣れた?」
 普通なら越してきて一週間の人にこんな質問はしない。
 でも黒野くんなら慣れてそうだなって気がして、私は尋ねてみた。
「まだ慣れたというほどじゃないです」
 黒野くんは苦笑気味に答える。
「でも、静かでいいところですよね。店出す前にも何度か訪ねてたんですが、住むならこういう街が落ち着いてていいだろうなと思います」
 住みやすさは確かに、いい街だ。
 私にとっても地元ではないけど、七年も住んでいれば愛着だって湧いてくる。
「いい街だと思うよ。都会ってわけじゃないけど、買い物には不自由しないし」
「それはありますね。駅前も結構栄えてますし」
「あと、少し遠いけどモールには行った? あそこ建って間もないんだよ」
「買い出しに一度だけ。まだじっくりは見られてないんですよ」
 郊外に建つショッピングモールは開業してからまだ二年も経っていないけど、すっかり地元に根づいている様子だった。この手のモールにあるべきお店は大体揃っているし、レストラン街もフードコートも目移りするほど充実していて、休日ともなればお客さんで溢れ返っている。
 私にとってもお休みにどこか行くならとりあえず、って場所だ。
「だから今度、付き合ってもらえませんか?」
 黒野くんが何気ない調子で続けたので、水を飲もうとしていた私は危うくむせかけた。
「あれ、今の、笑うとこですか?」
 そう言いながらも当の黒野くんまで笑っていた。
「ご、ごめん。ちょっと変なツボに入っちゃって」
「次のお誘いが早いなこいつ、って思っちゃいました?」
 はい、図星です。
 だって今日のデートも終わってないのにもう次の話してるんだから、吹き出しそうになるのも仕方ない。
 それにこのぐいぐい来る感じ、恥ずかしながら他人事とも思えなかった。
「こういうのって先手必勝ですから。早めにリザーブしとこうと思って」
 黒野くんは、顔立ちからは想像しにくい強気な口調で言った。
「俺、この街のこともっと知りたいんです。それから、都さんのことも」
 結構ストレートに口説いてくるんだな、この人。
 その真っ直ぐさを眩しく感じてしまう私は、気後れしつつ聞き返してしまう。
「黒野くん、私といて楽しい?」
「もちろんです」
 迷いなく、黒野くんは顎を引く。
「まだちょっとしか都さんのこと知りませんけど、それでも十分楽しいです」
「本当? そう言ってもらえるなら嬉しいけど」
「本当です。俺達、知り合って一週間にしては会話弾んでると思いません?」
 その点は確かに。
 でもそれは私より黒野くんの、職業柄欠かせないであろう話術の方が功を奏している気もする。
 はっきり言って私は何にもしてない。会話が途切れて気まずく思うこともなければ、次の話題を見つけようと必死になることも、盛り上げようと無理しておどけることだってない。だから知り合って間もない相手にもかかわらず、黒野くんとは純粋にお喋りを楽しめている。
「私も黒野くんといるの楽しいよ。買い物くらいなら付き合ってもいいかな」
 だから素直に答えたら、途端に彼がちょっと寂しそうにする。
「その答え方、デートじゃないならって意味ですか」
「駄目、ってわけじゃないんだけど」
 素直さで言えば彼の方が数倍上だけど、こっちまで口にするつもりのなかった言葉がついて出る。
「知ってるだろうけど、私、こないだ失恋したばかりなの」
「知ってます」
「だから、何て言うのかな。そういうのはまだ……」
「考えられない、ですか?」
 言いかけた私に被せるように、黒野くんが問いかけてきた。
 いや、違う。考えられないってわけじゃない。
 なぜなら私はしっかり考えてる。この関係が恋になるのかな、とか。黒野くんとはこの先どうなるのかな、とか。
 同時にそう考えることに対して罪悪感も覚えている。
「倫理的にどうかな、って思って」
 私が、これも素直に告げた途端、
「倫理的?」
 今度は黒野くんが吹き出した。
「都さんって面白い言い回ししますよね。倫理とか気にするんですか」
 そしてお腹を抱えて笑われたので、私はちょっと恥ずかしくなる。
 実際、誰に義理立てしてるんだって話だ。私が何を思おうが、誰と付き合い始めようが、江藤くんの心が動くことなんてないだろう。私にとっての彼は『わからない人』だった、そう気づかされたばかりだった。
 あれだけ好きだった人だから、すぐに忘れられるはずがない。そもそも同じ職場なんだから彼を本当の意味で忘れることは絶対にできやしない。私がこだわっている倫理、罪悪感だって、いつかは自ら捨てちゃわなくてはならないものだ。
 だから、笑い飛ばしてもらうくらいがいいのかもしれない。
「言われてみればそうだね。失恋に倫理も何もないよね」
 私がつられてまた笑って、そんな私の顔を黒野くんも愉快そうに見ている。
 直後、店員さんが注文していた食事を運んできてくれたけど、私達は笑いをすぐに引っ込めることができなくて、しばらくぷるぷる震えていた。
 きっと傍目にも、さぞ会話が弾んでいるよう映ったに違いない。

「お待たせいたしました、ハワイアンパンケーキのお客様」
 アロハシャツを着た店員さんは、そう口にした時、真っ先に私の顔を見た。
 歳の近い男女二人連れで、オーダーがご飯ものとパンケーキなら、女性がパンケーキだって思うのも当然か。私は慌てて黒野くんを手のひらで示し、黒野くんもすかさず手を挙げてパンケーキの皿を置いてもらっていた。
「私もパンケーキにすればよかったかな」
 店員さんが立ち去った後、私はこっそり呟いた。
 お腹が空いていたとはいえ、こんな時間にがっつりご飯ものなんて女らしくなかったかもしれない。黒野くんが頼んだのが可愛いパンケーキだから尚更思う。
「食べたいものを食べたらいいんですよ」
 黒野くんは気にするそぶりもなく言い切って、フォークを手に取る。
 彼が注文したのはオレンジのパンケーキで、三枚重ねの厚みのある生地の上にふわふわのホイップクリームとオレンジソースがかけられている。更にざく切りにした生のオレンジが山ほど添えられていて、見た目にもジューシーで鮮やかだ。
「黒野くんは甘いもの好きなの?」
 私が尋ねると、これには照れもせず堂々と頷いてみせる。
「好きです。基本、嫌いな食べ物はないです」
「好き嫌いないんだ? それは偉いね」
「ただ、独身なんで。家では偏ったものばかり食べないよう気をつけてます」
 そこはちょっと苦笑していたけど、私も同じだ。
 貧血や風邪で寝込むのさえ命取りになる一人暮らし、健康管理の為には日頃の食生活もおろそかにはできない。
「その分、たまに外食する時は好きなもの食べちゃおうって思ってるんです」
 と言うからには、黒野くんは基本自炊派なんだろうか。
 だとしたら本当に偉いな。私もそりゃ自炊はするけど、休日の時間に余裕がある時だけだ。平日は手を抜くどころの話じゃなく、買ってきたもので済ませることも多かった。
 そしてその分、外食では我慢せず好きなもの食べちゃうと。いい考え方だ。
「いいね、私もその主義で行こうかな」
 思わず同調すると、黒野くんは共感されたことが嬉しかったのか口元をほころばせた。
「是非そうしましょう。都さんもどうぞ美味しく召し上がってください」
 そして私を促すと、自らもフォークを手にパンケーキへと挑みかかる。
 先週末に私の髪を切ってくれたあの芸術品のような手は、食事ともなるとしなやかに、しかし大胆に動いた。一口大に切ったパンケーキにホイップクリームとオレンジをきれいに乗せ、すいすい口に運んでいく。その食べっぷりといったら見ているこちらまで胸がすくような豪快さだ。それでいて手つきは至って優雅で、口の周りをクリームやソースで汚すこともない。
 よく食べる人なんだ。ますます意外だ。
 クリームたっぷりパンケーキというチョイスだけは見た目通りなのに、あの微笑から連想できるほわほわした人というイメージはすっかり覆りつつある。
 じゃあどんな人なのかって言えば、まだ一言で語れるほど知っているわけでもない。
「次のお誘いの話ですけど」
 その食べっぷりに見とれていた私を、黒野くんの声が現実へ引き戻す。
 我に返って、自分の皿をつつきながらその言葉に耳を傾けた。
「実は俺、休みもそんなにあるわけじゃなくて。今日は半日休めましたけど、店が軌道に乗るまではしばらく忙しいと思うんです」
「そうだろうね、店長さんだもんね」
 私と一つしか違わないというのにすごいものだ。感心してしまう。
 とは言え店を持つってことは、言葉通り多忙なんだろうなとも思う。
「だから、約束しても実現するのはちょっと先になるかもしれません」
 垂れ目の瞳が、ちらりと意味ありげに私を見やる。
「でも必ず実現させますから、約束だけさせといてもらえませんか」
 いつになるかまだわからない、次の約束、か。
 それでも交わした以上、何かが変わるのは間違いない。
「そしたら俺、都さんとのデートを励みに店長頑張りますから」
 最後に冗談めかして言い添えられれば、私もついつい笑い返してしまう。
「励みなんて言われちゃうと悪い気しないね」
 そう、悪い気はしない。
 こんな素敵な人に誘われて、今日だってプラネタリウムに付き合ってもらって、ちょっと思わせぶりなことを言われたりして、昨日なんて手を握られたりして――客観的に見たら非常に美味しい状況だ。嬉しいと思うのはしょうがない。
 失恋直後だっていいよね別に。髪を切って、デートもして、吹っ切りたい変わりたいって思ってる私が何をしようと私の自由だ。
 そして変わる為のきっかけを差し伸べられた以上、取らない方が後で悔やむに決まってる。
「じゃあ、約束。また今度、一緒にどこか行こうよ」
 私が言うと、黒野くんは得意の甘い微笑で応じてくれた。
「ええ、約束しましたよ。必ずまた誘いますから」
「待ってるね」
 返事をしたら妙にすっきりした気分になって、私も張り切ってご飯を食べ始める。

 プラネタリウムを堪能して、美味しいものを食べて、その全部を黒野くんっていう素敵な人と共有してて。
 今日は結構、幸せなデートだったんじゃないかな。
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