Tiny garden

ときめきは夜に落ちてくる(4)

 食事を終えて、駅ビルを後にしたのは午後十一時過ぎだった。
 私はもちろん、黒野くんも明日は仕事だ。お互い、帰途に就くことに異論はなかった。

 駅から私達の暮らすアパートまでは、徒歩で二十分といったところだった。
 当然ながら帰り道は最初から最後まで一緒だ。デートの帰り際というのは『送る』『送られる』の攻防戦から得てして妙な緊張感と焦燥に溢れているものだけど、黒野くんとならその辺りの煩わしさもない。同じ住所に帰るんだから。
「一緒に帰るって、不思議な感じだね」
 歩きながら私が言うと、黒野くんも声を立てて笑った。
「本当ですね。一緒に住んでるみたいだ」
 結婚した後でするデートってこんな感じなのかもしれない。どこへ出かけてもどこでご飯を食べても、同じ部屋へ一緒に帰る。そういう暮らしは、多分幸せなんだろうな、と思う。
 私はまだ、結婚よりも先に恋がしたいと思っているけど。
「あ、道、そっちの方が近いよ」
 歩いていると、黒野くんが駅前通りを直進しようとしたので止めた。
 彼は駅前の美味しいお店こそ知っていたけど、駅からアパートまでの近道は知らなかったようだ。だから道案内は私の役目だった。
「駅前商店街を突っ切ると早いんだ。覚えといて損ないよ」
「さすが、詳しいですね都さん」
「七年住んでたらこの街のプロにもなるからね」
 そう答えたら黒野くんはまたおかしそうに笑う。
「この街のプロ、格好いいですね。俺もそう名乗れるようになりたいです」
 黒野くんは、これからずっとここに住むのだろう。
 あの素敵なお店も今はまだ開店したばかりだけど、そのうちに地域に根づき地元の人々から愛されるお店になることだろう。『ヘアサロンならクロノスがいい』、街の人々がそう思うようになった頃、黒野くんもきっとこの街のプロになっているはずだった。

 既に店じまいを済ませた商店街を通り抜ける。
 店はどこもシャッターが閉まっていたり、明かりが消えているけれど、街灯のお蔭で暗くないのがいつもありがたい。
「この辺りはもう歩いた?」
「いえ、まだです。この辺も買い物便利だって聞きましたけど」
「うん、モールほどじゃないけどそれなりにお店入ってるしね」
 若い人向けの衣料品店や靴のチェーン店、ファストフード店などがいくつか入っている。かと思うと昔ながらの喫茶店や古本屋も何軒かあって、その共存具合が何だか好きだ。
 郊外にショッピングモールの建設計画が持ち上がった時は、この商店街もそれなりに揺れたらしい。表立っての反対の声こそ上がらなかったものの、地元紙には商店街に与える打撃を懸念する記事が何度も掲載されていた。実際のところどの程度影響があったのかはわからないけど、今のところは上手いこと共存しているように見える。
 新しいものも古いものもある、この街はいいところだ。
「今はどこも明かり消えてるけど、土日は結構賑わうよ」
 私は黒野くんに説明しながら歩いた。
「季節ごとにイベントもあるし。クリスマスになるとイルミネーション点いたりね」
「それは是非見てみたいです」
「見た方がいいよ。毎年すっごくきれいだから」
 十二月ともなるとクリスマスソングが流れ始め、イルミネーション以外にもサンタ人形やスノーマンが店頭に飾られたりして、駅前商店街はひときわ華やかになる。
 まだ少し先の話だけど、毎年楽しみにしていたりする。
「他にも見どころいっぱいあるけど……黒野くん、気になってるとことかある?」
 私が尋ねると黒野くんは考え込むように押し黙り、しばらくの間無言で歩いた。
 商店街を抜けた先には割と古めの住宅街が広がっている。ここからは上りの坂道が多くて、仕事で疲れて帰ってくるとちょっときついと思うこともある。ただ、今は二人でのんびり歩いているからそれほど辛くはなかった。
 いくつかの坂を上りきった先に、あの夜景が見えるアパートが建っている。
「今日行ったプラネタリウムみたいに、落ち着ける場所はないですか?」
 一つ目の坂を途中まで上った時、黒野くんが口を開いた。
「落ち着ける場所かあ……」
 思い当たるのは、デートスポットとして名高いあの場所だ。
「臨海公園が、静かで結構人気あるってよく聞くけど」
 私は行ったことがないから、伝聞での回答になる。タウン誌にもよく紹介されているし、ネットでも割と評判のいい公園だった。駐車場も広いし、売店もあるし、何より海の眺めが最高なのだとか。
「臨海公園ですか。やっぱり海を見た方がいいってことですかね」
「そうなんじゃないかな。皆、海に行きたがるしね」
 公園以外にも海水浴場とか、海沿いのレストランやホテルとかが人気あるらしい。
 と、そこで黒野くんが目を瞬かせた。
「都さんは海、興味ないんですか?」
「実は私も、こっちの海はあんまり見てないんだ」
 打ち明けたら、黒野くんはますます怪訝そうな顔をする。
「そうなんですか……どうして?」
「私の地元も港町なんだ。だから、かな」
 それはこの街に移り住んだばかりの頃だけで、今はもしかしたら平気なのかもしれない。
 だけど社会人一年目は、とにかく海を見るのが嫌だった。
「今だから話せるけど、私、こっちに来たばかりの頃はホームシック気味で」
 私は照れながら、もう六年も前の事情を黒野くんに語る。
「海を見たら地元を思い出しちゃいそうじゃない? だから避けてたの」
 辛かった。相談できる相手もいなかったし、いたとしても地元が恋しい帰りたいなんて格好悪くて話せなかった。
「そういうの、ありますよね。見たくない気持ちもわかりますよ」
 黒野くんはそんな私の話に、その都度相槌をくれる。
 その同意が嬉しくて、私は坂を上りながら尚も続けた。
「プラネタリウムによく行ったのも、ホームシックだったからなんだ。『どこでもない空』を見たくなったから」
 夜空なんて、日本のどこで見たって同じなのかもしれない。だけど私にとって、慣れない街の夜空は物寂しさばかりが募る眺めだった。
 プラネタリウムの空は、つくりものだ。そしてここじゃない、私の故郷でもない、どこでもない空だ。それがまるで私の為につくられたもののように思えて、時々慰めてもらいに行っていた。
「どこでもない空、か……」
 私の言葉を繰り返した後、黒野くんが微笑んだ。
「この街のプロの都さんにも、そんな頃があったなんて意外です」
「でしょ。私も、らしくないなって自分で思うもの」
「そうですか? 俺はすごく、都さんらしいって思いますよ」
 知り合ってまだ一週間未満の黒野くんが、私に対してそう言った。
 彼が思う私らしさって一体どんなのなんだろう。職業柄、そういうのもよくわかるのかな。
「じゃあ俺も、そのうちプラネタリウムに通いたくなりますかね」
 更に彼が呟いたので、私は今更ながら慌てふためく。
「あ、ごめん! デリカシーなかったね……」
 引っ越してきたばかりの人に私のホームシック経験なんて語ってどうする。
 黒野くんはもしかしたら、これから、そうなるかもしれないのに。
「そんなことないです。俺の方こそすみません、言ってみただけです」
 焦る私を気遣ってか、黒野くんは笑ってかぶりを振った。
「俺はホームシックになりませんから、大丈夫ですよ」
 甘く柔らかい笑い方とは対照的に、口ぶりは強気で自信ありげだ。
 でも、この歳で独立してお店を出そうという人が弱気なはずもないか。私と一つしか違わないのに、つくづくすごい。
 私は隣を歩く彼にしばし見入った。
 彼はその笑顔も、気配りも、とても素敵な人だ。
 だけどそれだけじゃない。

「ありがとね、黒野くん」
 アパートに続く最後の坂に差しかかった時、私は呟くように切り出した。
 黒野くんがこちらを向き、アッシュブロンドの髪がふわりと揺れる。
「何についてのお礼ですか」
「もう全部だよ。今日付き合ってくれたことも、ご飯ごちそうしてくれたことも」
 お礼は言っても言い足りないほどだ。
 そもそも遡れば明らかに泣いてる私に声をかけてくれたことだってそう。顔を上げた私の泣き顔に引かずにいてくれたことも、髪を切りましょうって提案してくれたことも、本当に髪を切ってくれたことも。
 まだ吹っ切れてはいない私の変なこだわりを笑い、がさつな失言さえもフォローしてくれて――そして一緒に、私の好きな空を見てくれた。
 なんて、できた人なんだろう。
「黒野くんって一個下には思えないな。私よりもずっと先、遠くを行ってる人みたい」
 思わずそう口にした私に、
「随分誉めてくれるんですね、都さん」
 黒野くんはそう言うなり早足になったかと思うと、私を追い越し行く手を塞ぐように前に立つ。
 とっさに私が立ち止まれば、彼は少し屈んで私の顔を覗き込む。
「俺は遠くを行くより、都さんにもっと近づきたいです」
「え……」
 顔が、近い。
 ベランダで話している時よりも、隣を歩いている時よりも近く、目の前にある彼の顔立ちは端整だ。いつもは歳よりも若く見える顔立ちが、笑みを消した途端ぞくっとするほど男らしく映る。垂れ目の瞳に真剣な光を宿らせた彼から、私は目を逸らせなくてどぎまぎした。
 なんで、こんなに近いんだろう。
 これはもしかすると、そういうことなのだろうか。
 さすがにそこまでの覚悟はまだ――と思った拍子、私の左手が急に握られた。
 もちろん握ったのは黒野くんだ。あの石膏細工みたいに美しい手は、見た目の通りひんやりと冷たく、なめらかで、だけど男の人らしい筋張った感触もちゃんとある。そして声も出せないでいる私に、彼は言う。
「昨夜、繋ぎたいって言ったでしょ」
 目の前で、黒野くんが悪戯っ子みたいに笑ってみせる。
「アパートまであと少し、繋いで帰っちゃ駄目?」
 おまけに甘えるような口調で聞かれたら、こっちはもう、どうしていいのかわからなくなる。
「さ、さすがに手繋ぎはまだ早いんじゃないかと!」
「そうですか? 都さんが嫌ならやめますけど」
「嫌、って言うか、そういうことじゃなくってね」
 このぐいぐい来る感じ、やっぱり他人事とは思えない。
 私はさすがに、いきなり手を握ったりなんてできなかったけど。好きな人ができたらいつもこんな感じだった。とにかくアピールして構ってもらいたくて必死だった。
 黒野くんの表情から必死さは読み取れない。でも胸のうちはどうかわからない。何せこの人のこと、私はまだよくわからないんだから。
「とりあえず、手繋ぎじゃなくて……」
 そして私は、妥協点を求めて彼に提案する。
「敬語やめるとこから始めない? 一個違いなんだし」
 私に近づきたいという黒野くんと、黒野くんのことを知ってみたいと思い始めている私。
 お互いの思惑が上手く重なる妥協点って、今夜はその辺じゃないかと思って。
 黒野くんはそこで、浮かべていた笑みにちょっと悔しそうな色を混ぜてみせた。
「都さんがそうしたいなら。でも、思ったより遠ざかった感じ」
「知り合って一週間未満なら十分な距離じゃない?」
「俺は一週間で恋に落ちても構わないけどな」
 そうは言いつつも、黒野くんは私の手を離した。
 それから、私の顔を今一度覗き込んで、甘い微笑と共に言った。
「でも正直、いつ、どうやって切り出そうか迷ってた。そう言ってもらえて嬉しいな」
 やっぱり黒野くんも、『美容師さん』と『お客さん』だって思っていたのかもしれない。
 まずそこから抜け出してみないことには、先に進めない気もするし。
「ありがと、都さん」
 黒野くんが屈託なくお礼を言い、私はまだどぎまぎしながら、ぎくしゃく笑い返す。
「それは、何についてのお礼?」
「全部。今日付き合ってくれたことも、プラネタリウムとか、この街のいろんな場所を教えてくれたことも」
 それから彼は美しい手で自分の髪をかき上げ、さっき見せた悪い子の笑みを浮かべる。
「俺、都さんもこの街もどんどん好きになってくよ」
 そんなことを正面切って言われて、一体何と答えればいいのか。
 どうしてそこまで、なんて尋ねるのは失礼だろう。実際、私なら追い駆けてる当の相手にはそんなこと聞かれたくない。好きなものは好きだ、そうとしか言いようがないんだから。
 でもいざ追われてみると、聞きたくなって仕方がなくなる。
 そして、思いのほか、ときめいてる。
 疑問はさておき、彼とどうなりたいかもさておき――こんな素敵な人に『好き』って言われて、平然となんてしていられようか!

 アパートの外階段を二人で上り、とりあえず東端のドアの前まで。
 私の部屋はここ。そしてすぐ隣が黒野くんの部屋だ。
「……じゃあ、おやすみなさい」
 お暇の挨拶を告げると、黒野くんは黙って手を差し出してきた。
 この手は、何だろう。しばらく見つめていたら、彼が言った。
「最後に手、繋がせて」
「諦めてなかった! 黒野くん、そんなに手繋ぎたいの?」
「繋ぎたい。だって次、いつになるかわからないし」
 黒野くんは真っ直ぐに私を見つめて主張する。
「会えない間に俺のこと、忘れて欲しくないんだ」
 さすがに黒野くんみたいな人のこと、そうそう忘れられないと思うけど。
 まあ、ちょっとくらいならと私も手を出し、それを黒野くんのしなやかな手がぎゅっと握る。しっかりした関節とすべすべした指先、意外と厚みのある手のひら、全ての感触に心臓がどきっと跳ねる。
 黒野くんは十秒間ほど私の手を握り続けた後、名残惜しそうにゆっくりと離しながら呟いた。
「次のデートは、ほっぺたでいいからキスしたい」
「え、ええ!? 何を言うかな!」
「言うだけタダだよ。今夜みたいに、上手く叶うかもしれないし」
 それから彼は、言葉とは裏腹な甘い微笑を浮かべ、
「おやすみ、都さん」
「お……おやすみ……」
 自分の部屋に帰っていく私を、ドアが閉まるまで見送ってくれた。

 しかし一人きりになった私がすぐに立ち直れるはずもなく。
 とりあえず玄関にしゃがみ込み、火照った頬に両手を当てて呻いた。
「本っ当に、言われたら困ることばかり言ってくれるなあ……!」
 黒野くん。一体彼は、どこまで底知れないポテンシャルをお持ちなのか。
 実際、自分でもわかってたはずだ。住んだことのない街でお店出そうって人が弱気であるはずもなく、当然ながらほわほわ草食系のはずもない。
 だけど私は、そんな人と恋愛したことなんてないわけで。
「今夜、寝れるかな……」
 胸に渦巻く未曽有のときめきのせいで、そんな独り言さえ零れてしまう。
 そのくせ顔は自然と、妙な嬉しさに緩んでくるから困る。
 満更でもないっていうんだから本当にもう、現金な奴め!
PREV← →NEXT 目次
▲top